『経典』に学ぶ

勧請

経文

()()()(おん)(じつ)(じょう)(だい)(おん)(きょう)(しゅ)(しゃ)()()()()(そん)
()()(しょう)(みょう)(ほっ)()()(ほう)(にょ)(らい)
()()(じっ)(ぽう)(ふん)(じん)(さん)()(しょ)(ぶつ)
()()(じょう)(ぎょう)()(へん)(ぎょう)(じょう)(ぎょう)(あん)(りゅう)(ぎょう)()(だい)()(さつ)
()()(もん)(じゅ)()(げん)()(ろく)(とう)()(さつ)()()(さつ)
南無(なむ)(こう)()日蓮大(にちれんだい)菩薩(ぼさつ)
南無(なむ)(かい)()(にっ)(きょう)(いち)(じょう)(だい)()
南無(なむ)(わき)()(みょう)(こう)()(どう)()(さつ)
(ほん)()(かん)(じょう)()(しゅ)()(そん)(じん)
(じっ)(ぽう)()(りょう)(しょ)(てん)(ぜん)(じん)
(らい)(りん)(よう)(ごう)()(けん)(しょう)(らん)

現代語訳

(わたし)たちが絶対(ぜったい)存在(そんざい)として()()する、宇宙(うちゅう)大生命(だいせいめい)である()(おん)(じつ)(じょう)(ほん)(ぶつ)(しゃく)(そん)と、久遠本仏(くおんほんぶつ)(あら)われとして人類(じんるい)救済(きゅうさい)のために真理(しんり)()いてくださった大恩(だいおん)ある教主(きょうしゅ)釈尊(しゃくそん)よ。
法華経(ほけきょう)(おし)えの真実(しんじつ)証明(しょうめい)される()(ほう)(にょ)(らい)よ。
宇宙(うちゅう)大生命(だいせいめい)分身(ぶんしん)であり、過去(かこ)現在(げんざい)未来(みらい)(つう)じて、この()のあらゆる(ところ)にお()でくださる諸仏(しょぶつ)よ。
すべての(ひと)(きょう)()救済(きゅうさい)しようと(せい)(がん)された(じょう)(ぎょう)()(へん)(ぎょう)(じょう)(ぎょう)(あん)(りゅう)(ぎょう)四大(しだい)菩薩(ぼさつ)よ。
釈尊(しゃくそん)のお(とく)()()実践(じっせん)()())の(はたら)きを象徴(しょうちょう)する(もん)(じゅ)()(げん)()(ろく)をはじめとする菩薩方(ぼさつがた)よ。
(おお)くの困難(こんなん)()()えて、法華経(ほけきょう)()(ひろ)めてくださった(にち)(れん)(だい)()(さつ)よ。
法華経(ほけきょう)(いち)(ぶつ)(じょう)世界(せかい)信受(しんじゅ)して本会(ほんかい)創立(そうりつ)してくださり、(しん)菩薩(ぼさつ)(ぎょう)(てっ)し、法華経(ほけきょう)(こう)(せん)()()(だい)導師(どうし)であられた(かい)()(にっ)(きょう)(いち)(じょう)(だい)()よ。
開祖(かいそ)さまの(きょう)(どう)のもと、人心(じんしん)救済(きゅうさい)教化(きょうけ)(しん)(みょう)()しまず、菩薩(ぼさつ)(ぎょう)(ぎょう)じてご(ほう)証明(しょうめい)された(わき)()(みょう)(こう)()(どう)()(さつ)よ。
菩薩(ぼさつ)(ぎょう)実践(じっせん)(すす)むようにと守護(しゅご)してくださる神々(かみがみ)よ。
この()のあらゆる(ところ)にいらっしゃり、(ひと)びとを(まも)ってくださる神々(かみがみ)よ。どうぞこの()にお(いで)でくださり、この()(しょう)(ごん)(うつく)しく(おごそ)かなありさま)にしてください。そして、(わたし)たちの()るぎない信仰(しんこう)への真心(まごころ)をお()とおしください」

()(おん)(じつ)(じょう)──(しゃく)(そん)(にょ)(らい)寿(じゅ)(りょう)(ほん)で、「(わたし)は、はかりしれないほど無限(むげん)過去(かこ)成仏(じょうぶつ)してから、ずっとこの宇宙(うちゅう)のいたる(ところ)にいて説法(せっぽう)し、(しゅ)(じょう)(きょう)()し、(みちび)いてきたのだ」とお()きになられます。釈尊(しゃくそん)のほんとうのすがた(本仏(ほんぶつ))は、このように時間的(じかんてき)空間的(くうかんてき)無限(むげん)存在(そんざい)であることを()(あら)わしています。
菩薩(ぼさつ)──(ほとけ)智慧(ちえ)(ほとけ)(さと)りを()ようとして修行(しゅぎょう)しながら、()(ひと)びとを(すく)うことにも努力(どりょく)されている(ひと)のこと。〈()()(さつ)〉というのは、やはり菩薩(ぼさつ)をさしますが、摩訶(まか)とは「(だい)」、(さつ)は「(ひと)」という意味(いみ)ですから、直訳(ちょくやく)すると、(おお)きな(こころざし)を持った(ひと)ということになります。

意味と受け止め方

本仏(ほんぶつ)釈尊(しゃくそん)との一体感(いったいかん)

(わたし)たちがご宝前(ほうぜん)()かって(さん)()()(とな)えるということは、「(ほとけ)さまの弟子(でし)とならせていただきます」と(せん)(せい)し、「(ほとけ)さまのみ(こころ)のごとく仏道(ぶつどう)(あゆ)ませていただきます」と力強(ちからづよ)(せい)(がん)することでした。
(かん)(じょう)では、弟子(でし)となった(わたし)たちが、本仏(ほんぶつ)(しゃく)(そん)をはじめとする諸仏(しょぶつ)諸菩薩(しょぼさつ)開祖(かいそ)さま・脇祖(わきそ)さま、ご守護(しゅご)くださる神々(かみがみ)(たい)し、お(きょう)(どく)(じゅ)させていただくこの()へのご来集(らいしゅう)をお(ねが)いいたします。
勧請(かんじょう)とは、真心(まごころ)から(ほとけ)さまに説法(せっぽう)()い、(ほとけ)さまはいつでもこの()におられて(しゅ)(じょう)(おし)(みちび)いてくださっていると、はっきり自覚(じかく)できる(わたし)になるようお(ねが)いすることです。その意味(いみ)から(てん)じて、(あら)たに神仏(しんぶつ)をお(まつ)りすることや、法要(ほうよう)のときに(ほとけ)さまや菩薩方(ぼさつがた)にその()への(こう)(りん)()うことも勧請(かんじょう)というようになりました。経典(きょうてん)勧請(かんじょう)では、お()ましいただいた諸仏(しょぶつ)諸菩薩(しょぼさつ)諸天(しょてん)善神(ぜんじん)見守(みまも)られながら、真理(しんり)(ひかり)(こころ)奥底(おくそこ)までさし()ませ、本仏(ほんぶつ)釈尊(しゃくそん)一体(いったい)になる(きよ)らかな心境(しんきょう)をつくらせていただきます。

言葉(ことば)(とな)える曼荼羅(まんだら)

むかしのインドでは、地上(ちじょう)(きよ)めて(えん)(えが)き、宇宙(うちゅう)()ちているすべての神々(かみがみ)(あつ)まっていただく神聖(しんせい)場所(ばしょ)をマンダーラ((まん)()())と()びました。「まじりけのない本質(ほんしつ)のもの」という意味(いみ)です。
この宇宙(うちゅう)本質(ほんしつ)は、まじりけのないただ(ひと)つの大生命(だいせいめい)です。ですから、仏教徒(ぶっきょうと)(つく)った曼荼羅(まんだら)は、ただ(ひと)つの大生命(だいせいめい)本仏(ほんぶつ))が諸仏(しょぶつ)諸菩薩(しょぼさつ)諸天(しょてん)善神(ぜんじん)などのさまざまな姿(すがた)をもって(あら)われるという宇宙観(うちゅうかん)を、()文字(もじ)(あら)わしたものなのです。(わたし)たちが(とな)える勧請(かんじょう)曼荼羅(まんだら)にほかなりません。言葉(ことば)(とな)える曼荼羅(まんだら)なのです。
本仏(ほんぶつ)はもとより、宇宙(うちゅう)()ちていらっしゃる諸仏(しょぶつ)諸菩薩(しょぼさつ)諸天(しょてん)善神(ぜんじん)のお名前(なまえ)(とな)えるときには、《いま、この()にお()でいただいているんだ》と、ぜひ実感(じっかん)してください。(ほとけ)さまは(ひと)びとに「真理(しんり)(ほう)認識(にんしき)する()()目覚(めざ)めてほしい」と(ねが)われています。生活(せいかつ)真理(しんり)(ほう)()らし(ただ)していくことで、(わたし)たちの(たましい)(たか)まっていくことを(のぞ)んでいらっしゃいます。
ですから、(わたし)たちが経典(きょうてん)読誦(どくじゅ)し、(こころ)奥底(おくそこ)(ほとけ)さまの(ねが)いを(きざ)()もうとすると、(ほとけ)さまのみ(こころ)(わたし)たちの(こころ)(かん)(のう)()って、体中(からだじゅう)真理(しんり)(ひかり)()ち、(こころ)浄化(じょうか)され、宇宙(うちゅう)大生命(だいせいめい)一体(いったい)になれるのです。
そこから、自然(しぜん)(わたし)たち一人(ひとり)ひとりが()まれながらに()っている役割(やくわり)使命(しめい)への()づきも()まれてきます。
「どう()きたらいいのか」「(なん)のために()きるのか」と(おも)(なや)んでいる(ひと)も、自分(じぶん)にしか(あた)えられていない使命(しめい)、すなわち“自分(じぶん)らしさ”に目覚(めざ)め、(よろこ)びと()きがいに()ちた人生(じんせい)(ひら)けていくのです。

本会(ほんかい)本尊観(ほんぞんかん)(しめ)

また勧請(かんじょう)には、本尊(ほんぞん)である()(おん)(じつ)(じょう)(だい)(おん)(きょう)(しゅ)(しゃ)()()()()(そん)中心(ちゅうしん)におき、上部(じょうぶ)()(ほう)(にょ)(らい)(わき)()として左右(さゆう)(じょう)(ぎょう)()(へん)(ぎょう)(じょう)(ぎょう)(あん)(りゅう)(ぎょう)四大(しだい)菩薩(ぼさつ)(はい)するという本会(ほんかい)本尊観(ほんぞんかん)(あき)らかにされています。
久遠(くおん)実成(じつじょう)大恩(だいおん)教主(きょうしゅ)釈迦(しゃか)牟尼(むに)世尊(せそん)については、(ふた)つに()けてとらえると、わかりやすいでしょう。
(ひと)つは、宇宙(うちゅう)のすべてのものを存在(そんざい)させ、()かしてくださっている宇宙(うちゅう)根源(こんげん)(ほう)大生命(だいせいめい)久遠(くおん)実成(じつじょう)本仏(ほんぶつ)釈尊(しゃくそん))です。
もう(ひと)つは、二千五百年前(にせんごひゃくねんまえ)のインドに歴史上(れきしじょう)人物(じんぶつ)として実在(じつざい)し、宇宙(うちゅう)(つらぬ)絶対(ぜったい)真理(しんり)(ほう)(さと)って(ほとけ)になられた人間(にんげん)釈尊(しゃくそん)です。人類(じんるい)(しあわ)せのために(ほう)()かれた大恩(だいおん)ある仏教(ぶっきょう)教主(きょうしゅ)です。しかし、その人間(にんげん)釈尊(しゃくそん)は、本仏(ほんぶつ)釈尊(しゃくそん)人間界(にんげんかい)(あら)われたお姿(すがた)ですから、もとは(おな)じなのです。
(しょう)(みょう)(ほっ)()多宝(たほう)如来(にょらい)は、法華経(ほけきょう)()かれる(ところ)へは、どこでも(ほう)(とう)とともに出現(しゅつげん)して、(おし)えが真実(しんじつ)であることを証明(しょうめい)し、(さん)(たん)される(ほとけ)さまです。
四大(しだい)菩薩(ぼさつ)は、自分(じぶん)たちが宇宙(うちゅう)大生命(だいせいめい)(あら)われであるという自覚(じかく)()ち、現実(げんじつ)生活(せいかつ)のなかで(ひと)びとの(きょう)()救済(きゅうさい)()()まれる菩薩(ぼさつ)たちです。それぞれの名前(なまえ)に、みな「(ぎょう)」の文字(もじ)がついているのは、(ほとけ)さまの(おし)え、真理(しんり)(ほう)実践(じっせん)することによって価値(かち)(あら)われることを(しめ)しています。
さらに勧請(かんじょう)には、本会(ほんかい)信仰(しんこう)姿勢(しせい)(しめ)されています。それは、法華経(ほけきょう)()かれる久遠(くおん)実成(じつじょう)本仏(ほんぶつ)釈尊(しゃくそん)本尊(ほんぞん)とし、開祖(かいそ)さまと、開祖(かいそ)さまの()かれた(ほう)証明役(しょうめいやく)である脇祖(わきそ)さまを「(ほとけ)さまの(おし)えを(ただ)しくお(つた)えくださったお()(しょう)さま」として(あお)ぎつつ精進(しょうじん)させていただくという精神(せいしん)です。
本会(ほんかい)創立(そうりつ)してくださり、法華経(ほけきょう)(こう)(せん)()()(だい)導師(どうし)であられた開祖(かいそ)さまは、(にち)(れん)(しょう)(にん)のご(せい)()()け、(わたし)たちに釈尊(しゃくそん)のご真意(しんい)のごとく仏法(ぶっぽう)をお(つた)えくださいました。脇祖(わきそ)さまは、一人(ひとり)でも(おお)くの(ひと)(すく)おうと開祖(かいそ)さまの(きょう)(どう)のもとに(あゆ)まれ、ご(ほう)証明役(しょうめいやく)として()()生涯(しょうがい)(おく)られました。
(わたし)たちは、開祖(かいそ)さまと脇祖(わきそ)さまのご法号(ほうごう)奏上(そうじょう)させていただくことで、帰依(きえ)(こころ)(ひょう)(はく)し、(つい)()讃歎(さんたん)(ほう)(おん)(かん)(しゃ)(けい)(しょう)誓願(せいがん)真心(まごころ)(ささ)げさせていただくのです。
(わたし)たちは、宇宙(うちゅう)大生命(だいせいめい)肉眼(にくがん)()ることはできません。しかし、(かたち)(あら)わされたご本尊(ほんぞん)(あお)()ながら()(きょう)(しょう)(だい)することで、本仏(ほんぶつ)慈悲(じひ)(いだ)かれているという(おお)きな(やす)らぎを()られます。
こうした本仏(ほんぶつ)釈尊(しゃくそん)との(きよ)らかな一体感(いったいかん)(ちょう)(せき)(あじ)わっていると、(わたし)たちの(こころ)に「本仏(ほんぶつ)釈尊(しゃくそん)は、いつでもともにいてくださる」との(おも)いが()まれてきます。それは、やがて確信(かくしん)へと(てん)じ、日常(にちじょう)生活(せいかつ)のあらゆる場面(ばめん)で、(わたし)たちを勇気(ゆうき)づけてくれることでしょう。

事例から学ぶ

事例編(じれいへん)では、各品(かくほん)()められた(おし)えを、(わたし)たちが日々(ひび)生活(せいかつ)のなかで、どのように()かしていけばよいかを、具体的(ぐたいてき)事例(じれい)をとおして(かんが)えていきます。

鈴木さん一家を紹介します。

おばあちゃん・ミチコさん(75)…佼成会の青年部活動も経験している信仰二代目会員
アキオさん(45)…一家の大黒柱。ミチコさんの末息子
アキオさんの妻・夕カエさん(38)…婦人部リーダー。行動派お母さん
長女・ケイコさん(16)…やさしい心の持ち主の高校一年生。吹奏楽部
長男・ヒロシくん(9)…元気いっぱいの小学三年生

手どりが辛い

タカエさんが隣町のアパートに住む小泉ユミコさん(27)の家を訪ねるようになってから、三か月が過ぎました。昨年結婚したばかりのユミコさん夫婦の実家はともに立正佼成会の会員ですが、ユミコさんは信仰に関心がない様子。タカエさんは、彼女の母親から「娘にも信仰のすばらしさを味わってもらいたい」と頼まれて、手どりをするようになったのです。しかし、何度家を訪ねても、いまだ快く受け入れてもらえません。
この日も、こんな感じでした。
「一月から、若い婦人部員さんを対象にした『ひまわり仏教講座』が始まるの。ユミコさんにもぜひ参加してもらいたくて。一緒に勉強していきましょうよ」
「あーそのー、新しいパート先を探しているところだし、それに勉強は苦手で」
「堅苦しい勉強じゃないのよ。楽しくおしゃべりしながらっていう感じなの。ねえ、お時間の都合つかないかしらね」
「はあ、そう言われても……」
「それじゃあ、また来るから前向きに考えておいてね」
玄関の戸が閉まると、それまで笑顔だったタカエさんの顔が、急速にくもっていきました。週に一度は手どりに訪れているものの、タカエさんからの言葉の一方通行ばかりで、会話らしい会話になりません。最近は家に来ることを拒否されているような気がして、タカエさんは深く落ち込んでしまいました。
それから三日後の支部法座でタカエさんは池田支部長さんに辛い胸の内を聞いてもらいました。
「最初は婦人部の仲間になってもらおうと、はりきっていました。でも、いままで法座や研修、道場当番などにお誘いしても断られてばかりなんです。まあそれはいいとしても、一度も笑顔を見せてくれたことがなくて……。そのことが心に引っかかっていて、私自身が拒否されているような気がして辛いんです」
「信仰に関心のない人を手どらせていただくのは、むずかしいですよね。相手の気持ちを百八十度転換させるようなものですからね」
「そうなんです。少しでもこちらに気持ちを向けてくだされば、手どりも楽しくなるんですが」
「気持ちはわかるわ。でも、手どりは何のためにするのかしら」
「えーっと……」
「それは何よりもまず、手どりをさせていただく私たち自身の心を成長させるためなのよ。相手を慈しむ心、悲しみを取り除いてあげたいという心、相手の喜びをともに喜んであげられる心、どんなことに出会ってもありのままに受けとめ、驚いたり過剰に反応しない平安な心、すなわち慈・悲・喜・捨の四無量心を育てるためなの。だから、いままでどのような気持ちで手どりをしてきたか、そのことをふり返ってみることが大事じゃないかしら」

ご守護を念じて

タカエさんは支部長さんとともに、いままでの自分の気持ちがどうであったかを見つめていきました。
≪なぜ手どりをするのか。それは、ユミコさんにご法を縁として幸せになっていただきたいからだ。彼女の幸せを心の底から願う慈しみの心が、私にほんとうにあっただろうか。相手の反応にとらわれるのではなく、自分が相手をどこまで心配できていたか。手どりという行為だけに目が向いていなかったか。手どりをとおして、何を学ばせていただいているのか──。そうした修行の心構えを、いままで持っていただろうか≫
タカエさんは手どり修行の根本を見つめ直すことができて、気持ちがすっきりしました。またユミコさんに対しても、いたらない気持ちで手どりをしていたことが申しわけなく思えました。
そのときです。支部長さんが法座に集まったみんなに向かって言いました。
「毎日読誦させていただく『経典』に勧請の項がありますよね。諸仏・諸菩薩、開祖さま・脇祖さま、ご守護くださる神さま方のお名前をお呼びして、ご供養をあげさせていただくその場においでいただくわけです。なぜかというと、私たちはいつもご本仏さまに見守られて精進させていただいているんだという、その自覚を深めるためなんです。そして、私たちの揺るぎない信仰心と菩薩行をご覧くださいとお願いするためなんですね。私たちがご本仏さまにいつも見守られているという自覚を深めていくと、その大きな慈悲に生かされている自分に気づくことができて、そこから、人さまにも仏さまの縁にふれて幸せになっていただきたいという大きな慈しみの心が生まれてくるんです」
その晩、タカエさんはしっかりとした手どりの心構えと、ご守護のなかで修行させていただいているという自覚を持って、ユミコさんの家を訪れました。
≪ご本仏さまがいつもそばにいて、ご守護くださっている。だから、彼女の幸せだけを念じさせていただこう≫
玄関の戸が開きました。
「こんばんは。お元気でしたか?」
──結局、その晩も仏教講座に参加するという返事はもらえませんでした。
≪でもユミコさん、元気そうだったな≫
タカエさんは、そのことがうれしく思えたのでした。

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