『経典』に学ぶ

無量義経 十功徳品第三

経文

(ほとけ)(のたま)わく、(ぜん)(なん)()(だい)(いち)に、()(きょう)()()(さつ)(いま)(ほっ)(しん)せざる(もの)をして()(だい)(しん)(おこ)さしめ、()(にん)なき(もの)には()(しん)(おこ)さしめ、(せつ)(りく)(この)(もの)には(だい)()(こころ)(おこ)さしめ、(しっ)()(しょう)ずる(もの)には(ずい)()(こころ)(おこ)さしめ、(あい)(じゃく)ある(もの)には(のう)(しゃ)(こころ)(おこ)さしめ、(もろもろ)慳貪(けんどん)(もの)には布施(ふせ)(こころ)(おこ)さしめ、(きょう)(まん)(おお)(もの)には()(かい)(こころ)(おこ)さしめ、(しん)()(さか)んなる(もの)には忍辱(にんにく)(こころ)(おこ)さしめ、()(だい)(しょう)ずる(もの)には(しょう)(じん)(こころ)(おこ)さしめ、(もろもろ)(さん)(らん)(もの)には(ぜん)(じょう)(こころ)(おこ)さしめ、()()(おお)(もの)には()()(こころ)(おこ)さしめ、(いま)(かれ)()すること(あた)わざる(もの)には(かれ)()する(こころ)(おこ)さしめ、(じゅう)(あく)(ぎょう)ずる(もの)には(じゅう)(ぜん)(こころ)(おこ)さしめ、()()(ねが)(もの)には()()(こころ)(こころざ)さしめ、退(たい)(しん)ある(もの)には()退(たい)(こころ)()さしめ、()()()(もの)には()()(こころ)(おこ)さしめ、(ぼん)(のう)(おお)(もの)には(じょ)(めつ)(こころ)(おこ)さしむ。(ぜん)(なん)()()れを()(きょう)(だい)(いち)()(どく)()()()(ちから)(なづ)く。

現代語訳

(ほとけ)さまはこのようにお()きになりました。『この(きょう)には第一(だいいち)に、(つぎ)のような()(どく)があります。まず、(だい)(じょう)(おし)えを(まな)んでいても、まだ心底(しんそこ)から(ほとけ)()()()たいという(こころ)(ほっ)(しん))を()こしていない(もの)に、心底(しんそこ)から(ほとけ)(さと)りを()たいという(こころ)()(だい)(しん))を()こさせます。
また、(ひと)(しあわ)せにしてあげようという気持(きも)ち(()(にん))のない(もの)には、(なさ)(こころ)()(しん))を()こさせます。(ひと)(くる)しめたり、()(もの)(ころ)したりすること((せつ)(りく))を(この)(もの)には、かわいそうだと(おも)(こころ)や、(くる)しんでいる(ひと)(たす)けてあげたいという(こころ)(だい)()(こころ))を()こさせます。
自分(じぶん)よりすぐれた(ひと)幸福(こうふく)そうに()える(ひと)(ねた)(ごころ)(しっ)())を(かん)じるくせのある(もの)は、(ほとけ)さまの(まえ)ではみな平等(びょうどう)人間(にんげん)であるということがわかり、その真理(しんり)発見(はっけん)(たい)する(こころ)からの(よろこ)び((ずい)())が()こるために、(ひと)(ねた)気持(きも)ちがなくなります。さらに、地位(ちい)財産(ざいさん)(あい)する(ひと)などに必要(ひつよう)以上(いじょう)(しゅう)(ちゃく)(あい)(じゃく))しているため、(あやま)った(おこ)ないをしたり、自分(じぶん)(こころ)(くる)しめている(もの)は、()てるときにはいつでも()てることができるという、とらわれのないのびのびとした気持(きも)ち((のう)(しゃ)(こころ))を()つようになります。
また、もの()しみする(こころ)や、むやみに()しがる(こころ)(けん)(どん))が(つよ)かった(もの)は、(ひと)のために(ほどこ)そうという(こころ)()())がわいてきます。《自分(じぶん)(さと)っている》《(おこ)ないにもまちがいはない》というおごり(たか)ぶった(こころ)(きょう)(まん))の(おお)(もの)も、この(おし)えを()けば、自分(じぶん)(こころ)(おこ)ないのまちがいが()えてくるために、(ほとけ)(おし)えられた(いまし)めを(まも)って修行(しゅぎょう)しようという謙虚(けんきょ)(こころ)()(かい))になります。
自己(じこ)中心(ちゅうしん)(こころ)から、すぐ(はら)をたてるくせのある((しん)()(もの)は、どんなことが()きても(いか)りや(うら)みの(こころ)()こさなくなります((にん)(にく))。(なま)けたり、つまらぬことに()()んでいる(()(だい)(もの)も、自分(じぶん)(すす)むべき(みち)真剣(しんけん)(あゆ)むようになります((しょう)(じん))。
まわりの状況(じょうきょう)変化(へんか)するたびに(こころ)(みだ)れ、動揺(どうよう)する((さん)(らん)(もの)も、この(おし)えを()けば、変化(へんか)している現象(げんしょう)もその本質(ほんしつ)においては(つね)大調和(だいちょうわ)しているという真実(しんじつ)がわかってくるので、いつも(しず)かで安定(あんてい)した(こころ)(ぜん)(じょう))になります。()(まえ)のことしか()えず、あとさきの分別(ふんべつ)ができない(()()(もの)は、智慧(ちえ)(こころ)(はたら)くことで(えん)()道理(どうり)がよくわかり、(こころ)(あたま)()みきってきます。
ほかの(ひと)(すく)ってあげよう((かれ)()する)という(こころ)をまだ()こしたことがない(もの)でも、自分(じぶん)だけがこの()()きているのではないということがわかるので、自分(じぶん)他人(たにん)一緒(いっしょ)(すく)われなければ、ほんとうの(しあわ)せはないという真実(しんじつ)目覚(めざ)め、ほかの(ひと)(すく)おうという気持(きも)ちが自然(しぜん)とわいてきます。また、いろいろな(わる)(おこ)ない((じゅう)(あく))をする(もの)には、それらの悪行(あくぎょう)をすべて(はら)()った(きよ)らかな境地(きょうち)(たっ)しようという(こころ)(じゅう)(ぜん)(こころ))を()こさせます。
現象面(げんしょうめん)幸福(こうふく)ばかりを()って右往(うおう)左往(さおう)している(()()(ねが)う)(もの)は、現象(げんしょう)世界(せかい)(おく)にある(おお)いなるいのちに()かされているという事実(じじつ)目覚(めざ)め、自己(じこ)中心(ちゅうしん)ではない(こころ)()()(こころ))が(しょう)じます。信仰心(しんこうしん)があともどりする(退(たい)(しん)傾向(けいこう)のある(もの)は、一歩(いっぽ)退(しりぞ)くことのない不動(ふどう)信仰心(しんこうしん)()退(たい)(こころ))が()きてきます。
(ぼん)(のう)のおもむくままにものごとを(おこ)なう(()()()す)(もの)は、真理(しんり)にそってものごとを(おこ)なう(こころ)()()(こころ))が()こります。さらに、煩悩(ぼんのう)(おお)く、(みずか)(こころ)(くる)しめている(もの)には、真理(しんり)()つめることによって、煩悩(ぼんのう)をなくしてしまおうという(こころ)(じょ)(めつ)(こころ))を()こさせます。これがこの(きょう)第一(だいいち)功徳(くどく)(ちから)なのです』」

意味と受け止め方

(おお)いなるいのち

()(りょう)()(きょう)は、(しゃく)(そん)妙法(みょうほう)蓮華経(れんげきょう)法華経(ほけきょう))をお()きになる直前(ちょくぜん)説法(せっぽう)された(おし)えです。法華経(ほけきょう)無量(むりょう)義経(ぎきょう)から(はい)ってこそ、ほんとうによく理解(りかい)できることから、法華経(ほけきょう)(かい)(きょう)()ばれています。
無量(むりょう)義経(ぎきょう)(とく)(ぎょう)(ほん)第一(だいいち)(せっ)(ぽう)(ほん)第二(だいに)(じっ)()(どく)(ほん)第三(だいさん)(さん)(ぽん)構成(こうせい)されています。
徳行品(とくぎょうほん)は、釈尊(しゃくそん)完全(かんぜん)円満(えんまん)な「(とく)」と(しゅ)(じょう)(すく)いきる「(ぎょう)」のすばらしさを(さん)(たん)した(ほん)です。説法品(せっぽうほん)は、釈尊(しゃくそん)(じっ)(そう)ということをお()きになった、無量(むりょう)義経(ぎきょう)理論(りろん)的中心(てきちゅうしん)となる(ほん)です。(じっ)功徳品(くどくほん)は、説法品(せっぽうほん)()かれた(おし)えをほんとうに理解(りかい)し、実践(じっせん)した(ひと)()ける功徳(くどく)(じゅう)()けて()かれます。『経典(きょうてん)』に(ばっ)(すい)されているのは第一(だいいち)功徳(くどく)部分(ぶぶん)ですが、第一(だいいち)功徳(くどく)だけでも、これほどたくさんあるのです。
説法品(せっぽうほん)()かれた(おし)えとは、
人間(にんげん)()には()えない、ただ(ひと)つの真実(しんじつ)世界(せかい)実相(じっそう))によって、この()()こるさまざまな現象(げんしょう)()()されている。(どう)(よう)に、すべての(おし)えも実相(じっそう)というただ(ひと)つの真理(しんり)(ほう)から()()されているのである。したがって、この()のあらゆるものごとのありようは、一切(いっさい)平等(びょうどう)で、しかも(おお)きな調和(ちょうわ)(たも)っている。ところが、そのことを()らない(おお)くの(ひと)は、現象(げんしょう)(こころ)をまどわされて(くる)しんでいる。そうした(ひと)びとを、(だい)()()(こころ)をもって(すく)ってあげなさい」
ということです。
その実相(じっそう)とは、いままで(まな)んできた「宇宙(うちゅう)(おお)いなるいのち」のことです。すべての存在(そんざい)は、その(おお)いなるいのちの(あら)われであり、お(たが)いに関係(かんけい)()いながら変化(へんか)し、変化(へんか)しながら関係(かんけい)()って宇宙(うちゅう)全体(ぜんたい)大調和(だいちょうわ)(たも)っているのです。それが真実(しんじつ)姿(すがた)です。
この(おお)いなるいのちを本仏(ほんぶつ)といいます。本仏(ほんぶつ)は、すべてを()かす根源的(こんげんてき)ないのちであり、いつ、いかなるときでも(わたし)たちを見守(みまも)り、(わたし)たちがよりよく成長(せいちょう)できるよう、さまざまな(えん)をとおして後押(あとお)ししてくださっているのです。本仏(ほんぶつ)のみ(こころ)は、いわば()一心(いっしん)(おも)(おや)(こころ)そのものです。(わたし)たちは、この真実(しんじつ)をしっかりと(こころ)(きざ)()まなければなりません。
そのためには、(ちょう)(せき)のご供養(くよう)をはじめとする菩薩(ぼさつ)(ぎょう)をとおして、日々(ひび)本仏(ほんぶつ)(こころ)(かよ)()わせることが大事(だいじ)です。本仏(ほんぶつ)絶対(ぜったい)なる愛情(あいじょう)実感(じっかん)することができたとき、ほんとうの(だい)(あん)(じん)()られ、現代(げんだい)語訳(ごやく)にあるような、さまざまな()(こころ)がふつふつとわき()こってきます。
これは、倫理(りんり)道徳(どうとく)とは根本的(こんぽんてき)(こと)なります。(みずか)らのいのちの(おお)(もと)目覚(めざ)めることで、おのずから()られるすがすがしい心境(しんきょう)です。これこそが、(ただ)しい信仰(しんこう)のもたらす大功徳(だいくどく)なのです。

大安心(だいあんじん)()るために

(わたし)たち一人(ひとり)ひとりを(ふく)むすべてのものは本仏(ほんぶつ)のいのちの(あら)われですから、表面的(ひょうめんてき)には(ちが)い(差別(さべつ))があるように()えても、その本質(ほんしつ)においてはみな平等(びょうどう)です。ところが、この真実(しんじつ)()づかないために、この()現実(げんじつ)のいろいろな現象(げんしょう)にとらわれてしまい、(くる)しみや(なや)みを(つぎ)から(つぎ)へと()()なく(かん)じてしまうのです。
しかし、苦悩(くのう)のまっただ(なか)にいる(ひと)であっても、(わたし)たちのいのちの大本(おおもと)である本仏(ほんぶつ)(こころ)(かよ)()わせ、本仏(ほんぶつ)絶対(ぜったい)なる愛情(あいじょう)大慈(だいじ)悲心(ひしん))を実感(じっかん)することができると、それまで()(たね)(かん)じられていた現象(げんしょう)が、じつは(みずか)らが成長(せいちょう)するための(おお)きなチャンスであることに()づけるのです。
()のまわりに()きるすべての現象(げんしょう)を、このように()けとめられるようになることこそが、大安心(だいあんじん)確立(かくりつ)にほかなりません。では、どのようにしたら本仏(ほんぶつ)(こころ)(かよ)()わせることができるかということを、この(ほん)第一(だいいち)功徳(くどく)()かれている()()(りょう)(しん)(ろく)()()(みつ)(おし)えをとおして(まな)びましょう。(じっ)功徳品(くどくほん)には、無量(むりょう)()理解(りかい)し、実践(じっせん)すると、(つぎ)のような()(こころ)功徳(くどく))が自然(しぜん)(こころ)にわいてくると(しめ)されています。
はじめに「()(だい)(しん)」を()こさせるとあります。菩提心(ぼだいしん)、すなわち(ほとけ)(さと)り、(ほとけ)()()()たいと(ねが)(こころ)仏道(ぶつどう)修行(しゅぎょう)出発点(しゅっぱつてん)です。ですから、最初(さいしょ)()げられているのです。
そして、「()(しん)」「(だい)()(こころ)」「(ずい)()(こころ)」「(のう)(しゃ)(こころ)」を()こさせると(つづ)きます。この「()()()(しゃ)」の(よっ)つの(こころ)が、(ほとけ)さまのみ(こころ)そのものを(あら)わした()無量心(むりょうしん)です。「()」とは、(ひと)(しあわ)せにしてあげたいと(おも)(こころ)です。「()」とは、(くる)しんでいる(ひと)()()(のぞ)いてあげたいと(おも)(こころ)です。「()」は、(ひと)(よろこ)びをともに(よろこ)気持(きも)ちです。「(しゃ)」は、(ひと)(ほどこ)した(おん)も、(ひと)から()けた(がい)(わす)れ、一切(いっさい)(むく)いを()()(こころ)です。
しかし、()無量心(むりょうしん)は、(ほとけ)さまだけが()っている(こころ)ではありません。(わたし)たち一人(ひとり)ひとりにも、その(こころ)宿(やど)っているのです。なぜならば、(わたし)たちは(おお)いなる(ひと)つのいのち(本仏(ほんぶつ))の(あら)われ=(ぶっ)(しょう)=であり、本仏(ほんぶつ)(ひと)つのいのちにつながっているからです。
(わたし)たちが「()()()(しゃ)」の(こころ)(ひと)さまとふれあっていくと、(こころ)奥底(おくそこ)(ねむ)っていたいのちの真実(しんじつ)本仏(ほんぶつ)(かん)(のう)し、いきいきと(かがや)きはじめます。そのとき(あじ)わう、えもいわれぬ心地(ここち)よさが本仏(ほんぶつ)との一体感(いったいかん)です。
(つぎ)(しめ)されているのが、「()()()(かい)(にん)(にく)(しょう)(じん)(ぜん)(じょう)智慧(ちえ)」の六波(ろくは)羅蜜(らみつ)です。六波(ろくは)羅蜜(らみつ)は、(ひと)さまを(すく)いつつ(ほとけ)境地(きょうち)をめざす菩薩(ぼさつ)(ぎょう)です。
布施(ふせ)」には、金銭(きんせん)(もの)(ほどこ)財施(ざいせ)仏法(ぶっぽう)一般(いっぱん)知識(ちしき)(ただ)しく(つた)える(ほう)()自分(じぶん)()使(つか)って(ひと)さまの(やく)()(おこ)ないをする(しん)()があります。このように()くと(むずか)しいことのように(かん)じられますが、ご宝前(ほうぜん)一輪(いちりん)(はな)(ささ)げる、(ひと)自分(じぶん)()っていることを(おし)えてあげる、相手(あいて)(おも)いやる言葉(ことば)(もち)いる、笑顔(えがお)()せることなども、真心(まごころ)のこもった立派(りっぱ)布施(ふせ)なのです。
持戒(じかい)」は、(ほとけ)さまの(いまし)めを(まも)って、(ひと)のために役立(やくだ)(ひと)となるよう(つと)めることです。(ひと)(やく)()(おこ)ないをすること(()())によって、その(ぶん)だけ自分(じぶん)成長(せいちょう)向上(こうじょう)し(()())、成長(せいちょう)向上(こうじょう)することによってさらに(ひと)(やく)()(おこ)ないができるようになります。このように、自利(じり)利他(りた)(ぎょう)無限(むげん)循環(じゅんかん)していくものであり、そのために「持戒(じかい)」は()かせません。
忍辱(にんにく)」とは、(つね)()(たい)して寛容(かんよう)であり、()められても有頂天(うちょうてん)にならない平常心(へいじょうしん)()つことです。また、(ひと)(たい)してだけではなく、天地(てんち)のあらゆるものに(たい)して不平(ふへい)不満(ふまん)()たない(こころ)をいいます。
(どう)(げん)(ぜん)()は「(はる)(はな) (なつ)ほととぎす (あき)(つき) 冬雪(ふゆゆき)さえて すずしかりけり」と(うた)()みました。(はる)には(はる)のよさがあり、(なつ)には(なつ)(あき)には(あき)(ふゆ)には(ふゆ)のよさがあるというのです。この(うた)から(おし)えられることは、天地(てんち)一切(いっさい)のものはすべて様相(ようそう)(こと)なっているけれども、それぞれが絶対(ぜったい)価値(かち)ある存在(そんざい)であるということです。(わたし)たちは(あめ)はいやだ、真夏(まなつ)太陽(たいよう)(きら)いだなどと不平(ふへい)不満(ふまん)()ったりします。しかし、それは人間(にんげん)一方的(いっぽうてき)価値観(かちかん)にほかなりません。「忍辱(にんにく)」とは、こうした一切(いっさい)周囲(しゅうい)変化(へんか)(こころ)がとらわれないこともいうのです。
精進(しょうじん)」は、自分(じぶん)がめざす目的(もくてき)目標(もくひょう)()かって、(いち)()にくり(かえ)努力(どりょく)(つづ)けることです。「(しょう)」という()は、()じりけのない、純粋(じゅんすい)なという意味(いみ)ですから、まずは目的(もくてき)(ただ)しく()たなくてはなりません。
目的(もくてき)をハッキリとさせたら、(つぎ)()余計(よけい)なことに(こころ)(うば)われることなく、ただひと(すじ)(すす)んでいくことが大事(だいじ)です。一生懸命(いっしょうけんめい)努力(どりょく)していても、すぐに満足(まんぞく)結果(けっか)(あら)われるとは(かぎ)りません。(かべ)()()たったり、妨害(ぼうがい)()けることも往々(おうおう)にしてあります。しかし、そうした逆境(ぎゃっきょう)こそ、自分(じぶん)成長(せいちょう)向上(こうじょう)させるチャンスなのです。ですから、こうと()めたからには、目的(もくてき)をしっかりと()つめて前進(ぜんしん)することが大切(たいせつ)です。しかし、めざす目的(もくてき)目標(もくひょう)達成(たっせい)されたらそれで努力(どりょく)しなくなるというのでは「精進(しょうじん)」とはいえません。人生(じんせい)本来(ほんらい)目的(もくてき)というのは、一切(いっさい)変化(へんか)(よく)心奪(こころうば)われず真理(しんり)にそってひたすら(あゆ)むことであり、「精進(しょうじん)」とはつまるところ、それをいのちある(かぎ)前進(ぜんしん)させていくことなのです。
禅定(ぜんじょう)」は、どんなことが()こっても、(まよ)ったり動揺(どうよう)することなく、(つね)真理(しんり)(こころ)(さだ)まっていることです。ただやみくもに()(すす)むのではなく、ときには(こころ)()ちつけて周囲(しゅうい)をじっくりと()(かんが)えることも必要(ひつよう)です。すると、(せま)くなりがちな視野(しや)(ひろ)げることができます。(しず)かな(いけ)表面(ひょうめん)には、(つき)がスッキリと(うつ)()されるように、(こころ)(しず)かであれば、ものごとのほんとうの姿(すがた)()えるものです。
そのほんとうの姿(すがた)見通(みとお)(ちから)が「智慧(ちえ)」です。諸法(しょほう)実相(じっそう)、すなわち宇宙(うちゅう)のありのままの(すがた)()きわめ、実生活(じっせいかつ)のなかで()きるさまざまな出来事(できごと)(たい)して、自己(じこ)中心(ちゅうしん)(おも)いより(しょう)じる(しゅう)(ちゃく)(しん)(とん)(よく))からではなく、真理(しんり)(ほう)にそって対応(たいおう)できる(ちから)です。
この「智慧(ちえ)」を()るために、「布施(ふせ)」にはじまる六波(ろくは)羅蜜(らみつ)をくり(かえ)(ぎょう)じるのです。「布施(ふせ)」は、自分(じぶん)さえよければいいという貪欲(とんよく)()(のぞ)(ぎょう)でもあります。貪欲(とんよく)()(のぞ)いた(ぶん)だけ「持戒(じかい)」「忍辱(にんにく)」「精進(しょうじん)」「禅定(ぜんじょう)」の(ぎょう)(ふか)まっていきます。そういう意味(いみ)では、「布施(ふせ)」こそ(ほとけ)智慧(ちえ)()るための基本(きほん)(ぎょう)であり、中心(ちゅうしん)(ぎょう)であるといえるでしょう。
()無量心(むりょうしん)六波(ろくは)羅蜜(らみつ)実践(じっせん)をとおして、本仏(ほんぶつ)感応(かんのう)するときの心地(ここち)よさは、(つぎ)なる善行(ぜんこう)へと(わたし)たちを()()てずにはおきません。お(たが)いに貪欲(とんよく)()(のぞ)き、(ひと)さまのために(せい)いっぱい(こころ)(からだ)使(つか)いながら、日々(ひび)新鮮(しんせん)(よろこ)びを(あじ)わっていきたいものです。

事例から学ぶ

事例編(じれいへん)では、各品(かくほん)()められた(おし)えを、(わたし)たちが日々(ひび)生活(せいかつ)のなかで、どのように()かしていけばよいかを、具体的(ぐたいてき)事例(じれい)をとおして(かんが)えていきます。

鈴木さん一家を紹介します。

おばあちゃん・ミチコさん(75)…佼成会の青年部活動も経験している信仰二代目会員
アキオさん(45)…一家の大黒柱。ミチコさんの末息子
アキオさんの妻・夕カエさん(38)…婦人部リーダー。行動派お母さん
長女・ケイコさん(16)…やさしい心の持ち主の高校一年生。吹奏楽部
長男・ヒロシくん(9)…元気いっぱいの小学三年生

佼成会とは?

高校一年生の長女・ケイコさんが、吹奏楽部の部活を終えて帰宅したのは夜の七時半。しかし、きょうも母親のタカエさんは家を空けていました。玄関脇にきちんとそろえてある母親の赤い部屋履きのスリッパが、それを物語っています。靴を脱ぐとケイコさんは、深いため息をつきました。
これで四日連続です。ときには母親をうとましく思うこともあるケイコさんですが、やはり帰宅したときは、母親からやさしい声で「おかえりなさい」と迎えてもらいたいのです。わずか四日とはいえ、「早く手を洗ってらっしゃい。すぐにご飯にしてあげるからね」という、母親のいつもの決まりきったあのひとことが、とても懐かしく思えました。
自分の部屋に入る気にもなれず、制服姿のまま台所に行き、カバンを冷蔵庫の横に置きました。
「おばあちゃん、ただいま」
「おかえり。先にヒロシくんと夕飯をすませてしまったよ。いま準備しようね」
「ううん、自分でできるから大丈夫よ。それより、きょうもお母さん出かけているんだ」
「五時ごろ支部の婦人部員さんから電話がかかってきてね、何だかとても困っているらしいのよ。それでお母さんは大あわてで夕飯の支度をしてから、支部長さんと一緒に、その人の家に向かったの」
「ふーん。火曜の夜はヒロシのサッカークラブの保護者会だったけれど、おとといは佼成会の支部会議、きのうの晩は法華経の勉強会、そしてきょうは会員さんのためにと……。毎日よく佼成会のことばっかり考えていられるよね」
「お母さんもがんばっているのよ。だから応援してあげましょうよ」
ヒロシくんは、居間でミカンをほおばりながらテレビに夢中です。ケイコさんは、夕食のおかずを電子レンジで温めなおしてから、お茶をいれているおばあちゃんの背中に向かって言いました。
「ねえ、おばあちゃん。前から聞こうと思っていたんだけど、佼成会ってどういう宗教なの?」
「そうねえ。わかりやすく言うと、親孝行と先祖供養、そして人さまに喜んでもらえる行ないをしましょうという会かしらね」
「それなら前にも聞いたことがある。でも親や先祖を敬い、人の役に立つことをするっていうのは道徳と同じみたい」

よき心を育てる

「うん。道徳と仏さまの教えは、まったく違うものではないのよ。だけど、大きく違う点があってね。それは、仏教は人間の心を、その奥底からよきものにしていくというところにあるの。よい心を育てていくって言ってもいいかしら」
「よい心を育てる?」
「そうよ。仏さまはね、いつも慈・悲・喜・捨の四つの心で私たちを導いてくださっているの。慈というのは『人を幸せにしてあげたいと思う心』のことで、悲とは『人の苦しみを取り除いてあげたいと思う心』のことをいうのね。喜は『人の喜びを一緒に喜んであげる心』のことで、捨は『どんなことに出合ってもありのままに受けとめて、怒ったり驚いたり過剰に反応しない安らかな心』のことをいうの。たとえば、人に何かをしてあげたことに見返りを求める気持ちや、人から受けたいやなことを一切捨ててしまう心のことね。この仏さまの四つの心を、私たちも身につけていこうというのが、佼成会の修行の大切なポイントの一つだと、おばあちゃんは思うのよ」
「佼成会では、その四つの心を育てていくの?」
「そうよ。この心を『四無量心』っていうの。動物には生存競争に勝って生き抜いていくために、本能というものがあるけど、四無量心は本能とは正反対の心といえるかしらね。本能は、無意識のうちに出てくるものだけど、四無量心は、だれもがスッと表に出せる心じゃないの。だから大きく育てていかなければならないのね。そのために修行という努力が必要になってくるのよ」
「ふーん。でも何で四無量心を身につけることがそんなに大事なの?」
「人間はどうしても、まず自分が幸せになりたいと思うものなの。自分より不幸な人がいれば同情もするけど、自分よりいい生活をしている人が失敗すると『それみたことか』なんて思ったりするし、人にうれしい出来事が起きれば嫉妬したり、人に親切にしたら感謝してもらいたいと思うものなのよ。これらの気持ちはみんな、ふだんは心の奥底にしまわれている本能から出てくるものなの。でも、いつもこんな気持ちでいるなんて、ちょっと悲しいでしょう?四無量心のほうが気持ちいいし、楽しく生きられるんじゃないかしら?だからお母さんも、四無量心を大きく育てて身につけ、家族みんなで、そして世界の人たちみんなで幸せに生きていくために、こうしてがんばっているのよ」
「そうなんだ。私、自分のことばかり考えていたから、寂しくなって……」
「いいのよ。ケイコちゃんが寂しくなったその気持ちを、お母さんに正直に伝えてごらん。きっと喜ぶわよ」
「うん、ありがとう、おばあちゃん。私、お母さんを応援してあげる」

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