『経典』に学ぶ

妙法蓮華経 譬諭品第三

経文

(いま)()(さん)(がい)は。(みな)()()()なり。()(なか)(しゅ)(じょう)は。(ことごと)()()()なり。
(しか)(いま)()(ところ)は。(もろもろ)(げん)(なん)(おお)し。(ただ)(われ)(いち)(にん)のみ。()()()()す。

現代語訳

「この宇宙(うちゅう)(わたし)のものです。その(なか)にいる(しゅ)(じょう)は、すべて(わたし)()です。しかも、この世界(せかい)には、いろいろな(くる)しみが()ちています。それを(すく)うものは、(わたし)だけしかいないのです」

()()なり〉──ここでいう「(わたし)」とは、(しゃく)(そん)一人(ひとり)のことだけをさしているのではありません。真理(しんり)(ほう)意味(いみ)する「(ほとけ)」のことであり、「真理(しんり)(さと)ったもの」という意味(いみ)です。

意味と受け止め方

みんな(ほとけ)()

(しゃく)(そん)は、(ほう)便(べん)(ぽん)のなかで「もろもろの(ほとけ)がさまざまな方法(ほうほう)方便(ほうべん))をもって(おし)えを()かれるのは、(しゅ)(じょう)(しょ)(ほう)(じっ)(そう)(さと)る仏の()()()させたいためです。(ほとけ)は、すべての(ひと)平等(びょうどう)(ほとけ)境地(きょうち)(みちび)くという、ただ(ひと)つの目的(もくてき)のために(ほう)()くのです」と()かれました。
つまり、(ほとけ)さまは「すべての(ひと)が、自分(じぶん)本質(ほんしつ)(ぶっ)(しょう)であることを自覚(じかく)し、自分(じぶん)他人(たにん)()けて自己(じこ)中心(ちゅうしん)(かんが)える『()』の(こころ)()(のぞ)きながら、いのちの(おお)(もと)である『(ひと)つの(おお)きな(かがや)くいのち(本仏(ほんぶつ))』と(つね)一体感(いったいかん)(あじ)わえる境地(きょうち)成仏(じょうぶつ))に(たっ)してほしい」と(ねが)われているのです。
この説法(せっぽう)()いた(しゃ)()(ほつ)は、いままで(ほとけ)さまという存在(そんざい)は、自分(じぶん)たちとは(とお)(はな)れた特別(とくべつ)存在(そんざい)だと(おも)ってきたけれども、自分(じぶん)たちも努力(どりょく)しだいで(ほとけ)になれることがわかり、大感激(だいかんげき)します。
()()(ほん)は、「すべての存在(そんざい)仏性(ぶっしょう)であり、みんな(ほとけ)のいのちの(はたら)きなんだ」と(かん)()した舎利(しゃり)(ほつ)が、釈尊(しゃくそん)にお(れい)(もう)()げるとともに、いままでの自分(じぶん)のいたらなさを(さん)()する場面(ばめん)から(はじ)まります。
釈尊(しゃくそん)舎利(しゃり)(ほつ)懺悔(ざんげ)をたいへん(よろこ)ばれ、「あなたがその気持(きも)ちを(たも)(つづ)け、(ただ)しい(おこ)ないを(つづ)けていくならば、(かなら)(ほとけ)境地(きょうち)(たっ)することができますよ」と成仏(じょうぶつ)保証(ほしょう)(じゅ)())を(あた)えられます。
授記(じゅき)をいただいた舎利(しゃり)(ほつ)は、()()がらんばかりに(よろこ)びますが、釈尊(しゃくそん)に「いままで(おのれ)(こころ)(ぼん)(のう)()()ることが修行(しゅぎょう)目的(もくてき)だと(おも)()んできましたが、それだけではなく、衆生(しゅじょう)のためにつくそうという菩薩(ぼさつ)(こころ)()こし、その(おこ)ないをずっと(つづ)けることで、最高(さいこう)(さと)りに(たっ)せられることがわかりました。また、(ほとけ)さまと(わたし)たちの関係(かんけい)も“親子(おやこ)”であるとわからせていただきました。しかし、(おお)くの修行者(しゅぎょうしゃ)たちは、まだそのことがハッキリと理解(りかい)できずにいます。どうか、この(ひと)たちにもわかるようにお()きください」と(もう)()げます。
そこで釈尊(しゃくそん)は、「(さん)(しゃ)()(たく)(たと)え」をお()きになられます。(たと)えのおおよその内容(ないよう)(つぎ)のとおりです。

ある(くに)のある(まち)に、長者(ちょうじゃ)がいました。屋敷(やしき)広大(こうだい)なものでしたが、ひどく()()てていました。
その(いえ)突然(とつぜん)火事(かじ)になりました。(いえ)(なか)には()どもたちが大勢(おおぜい)います。そのことに()づいた長者(ちょうじゃ)(おどろ)いて()(かえ)し、(なか)にいる()どもたちに()かって、「このままでは()()んでしまうよ。(はや)(そと)()てきなさい」と(さけ)びました。
ところが、()どもたちは(あそ)びに夢中(むちゅう)で、()(さか)()()づきません。思案(しあん)にあまった長者(ちょうじゃ)はふと、()どもたちがいつも(くるま)()(もの))をほしがっていたことを(おも)()しました。そこで長者(ちょうじゃ)は、「ここに、お(まえ)たちがほしがっていた(ひつじ)()(くるま)や、鹿(しか)()(くるま)や、(うし)()(くるま)があるぞ。()きなものをあげるから、(はや)()てきなさい」と()びかけました。
長者(ちょうじゃ)(こえ)()いた()どもたちは、それいけとばかりに、次々(つぎつぎ)(みずか)(そと)()てきました。無事(ぶじ)(たす)かったことを見届(みとど)けた長者(ちょうじゃ)は、()どもたちがほしがっていた(くるま)ではなく、(しろ)(おお)きな(うし)()く、しかもたくさんの宝物(たからもの)(かざ)られた立派(りっぱ)(くるま)(だい)(びゃく)()(しゃ))を、みんなに(ひと)しく(あた)えたのです。()どもたちは、(おも)いがけないすばらしい(くるま)(あた)えられて、(おお)いに(よろこ)びました。
この(たと)えにある長者(ちょうじゃ)とは、(ほとけ)さまのことです。()どもたちは(わたし)たち衆生(しゅじょう)をさし、()()てた(いえ)(くる)しみに()ちた現実(げんじつ)人間(にんげん)社会(しゃかい)火事(かじ)(わたし)たちの煩悩(ぼんのう)意味(いみ)しています。また、()どもたちがそれぞれにほしがっていた(ひつじ)()(くるま)(しょう)(もん)(じょう)鹿(しか)()(くるま)(えん)(がく)(じょう)(うし)()(くるま)()(さつ)(じょう)のことです。すなわち、人間(にんげん)にはさまざまなタイプがあり、修行(しゅぎょう)(みち)をたどるにも、自分(じぶん)()った方法(ほうほう)声聞乗(しょうもんじょう)縁覚乗(えんがくじょう)菩薩乗(ぼさつじょう))を(えら)べばいいのです。しかし、その(みち)のずっと(さき)(ひと)つにつながっています。それが(ほとけ)になる(みち)(いち)(ぶつ)(じょう))です。
いままで、自分(じぶん)(ある)いている(みち)最高(さいこう)境地(きょうち)へとつながっているとは、だれも()りませんでした。()うなれば、自分(じぶん)(この)みによる(ひつじ)鹿(しか)(うし)()(くるま)をもらえれば、それで最高(さいこう)だと(おも)っていたのです。ところが、()どもたちは(おも)いがけず、大白(だいびゃく)牛車(ごしゃ)(ほとけ)になる(みち))を、みんな(ひと)しく(あた)えられて大歓喜(だいかんき)します。この(みち)が、(ほとけ)境地(きょうち)()るための(みち)につながっていたことがわかったからです。
つまり、「三車(さんしゃ)火宅(かたく)(たと)え」は、どのような境遇(きょうぐう)にある(ひと)でも、()(まえ)(あら)われてくる(くる)しみや(なや)みを(ほとけ)さまの(おし)えにそって(ひと)(ひと)()()えていけば、やがて(かなら)最高(さいこう)(さと)りを()ることができることを(おし)えてくださっているのです。

宇宙(うちゅう)はわがもの

経典(きょうてん)』に(ばっ)(すい)されている譬諭品(ひゆほん)(きょう)(もん)は、釈尊(しゃくそん)が「三車(さんしゃ)火宅(かたく)(たと)え」に(つづ)いて(かた)られた部分(ぶぶん)です。(たと)えのすぐあとには、このように(しる)されています。
(しゃ)()(ほつ)よ、(わたし)もこの長者(ちょうじゃ)(おな)立場(たちば)にいるのです。一切(いっさい)衆生(しゅじょう)は、みんなかわいいわが()です。その()どもたちは、世間(せけん)(たの)しみに(しゅう)(ちゃく)しているために、ものごとのほんとうのすがたを(さと)智慧(ちえ)()けています。この世界(せかい)は、ちょうど()のついた(いえ)のようなもので、いろいろな(くる)しみに()ちて、(おそ)ろしいかぎりです」
このあとに、「この宇宙(うちゅう)(わたし)のものである──」と経文(きょうもん)(つづ)きます。経文(きょうもん)にある「(わたし)」とは「真理(しんり)(さと)ったもの」という意味(いみ)ですから、この一節(いっせつ)は、「真理(しんり)(さと)ったものにとっては、全宇宙(ぜんうちゅう)がその(ひと)のものだ」ということです。
宇宙(うちゅう)真理(しんり)(さと)り、本仏(ほんぶつ)一体(いったい)になることができれば、まったくこの()は「わがもの」です。しかし、この言葉(ことば)は「宇宙(うちゅう)自分(じぶん)のものだ」という所有権(しょゆうけん)主張(しゅちょう)するものではありません。反対(はんたい)に、自分(じぶん)宇宙(うちゅう)()()んでしまったと(かん)じることなのです。
宇宙(うちゅう)()()んでしまうと(かん)じることは、()()になることです。(ちい)さな(われ)()てると、宇宙(うちゅう)のすべてに()かされている自分(じぶん)発見(はっけん)できます。すると、自分(じぶん)という存在(そんざい)が、みるみる宇宙(うちゅう)全体(ぜんたい)(ひろ)がっていきます。無我(むが)こそ「宇宙(うちゅう)はわがもの」に(つう)じる、ただ(ひと)つの(みち)なのです。
宇宙(うちゅう)がわがものであれば、その(なか)()衆生(しゅじょう)は、すべてわが()であり、兄弟(きょうだい)姉妹(しまい)であり、仲間(なかま)です。すると自然(しぜん)と、(ひと)びとのために親身(しんみ)になってつくさずにはいられなくなります。これがほんとうの()()(しん)なのです。
釈尊(しゃくそん)には(とお)(およ)ばないにしても、(しず)かに()をつぶり、(こころ)()まして「宇宙(うちゅう)はわがもの」と(ねん)じただけでも、(なん)とも()えない広々(ひろびろ)とした心持(こころも)ちになってきます。このように、日常(にちじょう)のなかのふとした折々(おりおり)に、宇宙(うちゅう)との一体感(いったいかん)大調和(だいちょうわ))を(あじ)わっていくことも、(こころ)成長(せいちょう)させるための大切(たいせつ)(ぎょう)(ひと)つなのです。

(よっ)つの(さと)

()(ちゅう)はわがもの」という境地(きょうち)は、宇宙(うちゅう)(つらぬ)真理(しんり)(ほう)自分(じぶん)のものとして、本仏(ほんぶつ)一体感(いったいかん)(あじ)わっていくことでもあります。
そして、真理(しんり)(ほう)をつかむということは、()(こころ)()(のぞ)くことです。()とは、(みず)をにごらせる(ちり)にたとえられます。にごりのもとである(ちり)をすっかり()(のぞ)いてやると、(みず)(きよ)()んできます。つまり、()()てることによって、(こころ)()みわたり、ものごとのほんとうのすがた((そう))を見通(みとお)(ちから)智慧(ちえ))を()ることができるのです。これが本質的(ほんしつてき)(すく)われということです。
()()てきれないと、(くる)しみや(なや)みの世界(せかい)から()()すことはできません。そこで釈尊(しゃくそん)は、譬諭品(ひゆほん)のなか(『経典(きょうてん)』に抜粋(ばっすい)されている部分(ぶぶん)(すこ)しあと)で、(くる)しみの世界(せかい)にいる(ひと)びとを(すく)うために()(たい)(おし)えを()くのだと(かた)られます。
四諦(したい)とは、「()(たい)(しっ)(たい)(めっ)(たい)(どう)(たい)」の(よっ)つの(さと)りです。
第一(だいいち)(さと)りである「苦諦(くたい)」とは、(ほとけ)(おし)えを()かない(ひと)びとにとっては、この()のすべてが(くる)しみであるということです。人生(じんせい)精神的(せいしんてき)肉体的(にくたいてき)、その(ほか)いろいろな(くる)しみに()ちています。その人生(じんせい)()から()(かく)れしないで、()実体(じったい)直視(ちょくし)し、()きわめることが苦諦(くたい)です。
たとえば注射(ちゅうしゃ)()つとき、(おさな)()どもは注射器(ちゅうしゃき)()ただけで、()いたり、(のが)れようと抵抗(ていこう)します。ところが大人(おとな)は、注射(ちゅうしゃ)必要(ひつよう)なものであり、(いた)いのも一瞬(いっしゅん)だということがわかっているために平気(へいき)でいられます。(おな)(いた)みを(かん)じることに()わりはないのですが、(はら)()えて()直視(ちょくし)すれば、たいていの()()でなくなってしまうのです。
第二(だいに)(さと)りである「集諦(しったい)」とは、さまざまに()きてくる人生(じんせい)()が、なぜ()きたのかという原因(げんいん)探究(たんきゅう)し、反省(はんせい)し、それをハッキリと(さと)ることです。
(くる)しみのさなかにいるときは、その原因(げんいん)がどこにあるのかを冷静(れいせい)()きわめることが大事(だいじ)です。どのような(いん)が、どのような(えん)出会(であ)って、どのような()(ほう)()んだのかということを、(ほう)からさかのぼって()つめていくと、(そう)(しょう)(たい)(りき)()(そな)えた(いん)が、いかにあったかに()づくことができます。それが集諦(しったい)(さと)りです。
第三(だいさん)(さと)りである「滅諦(めったい)」は、さまざまな苦悩(くのう)消滅(しょうめつ)した(やす)らぎの境地(きょうち)です。一時的(いちじてき)(やす)らぎではなく、どんなことが()きてもグラつくことのない、ほんとうの(やす)らぎは、釈尊(しゃくそん)(さと)られた(しょ)(ぎょう)()(じょう)(しょ)(ほう)()()()(はん)(じゃく)(じょう)(さん)(ぽう)(いん)(さと)ることができて、はじめて()られるものです。
ところが、この三法印(さんぽういん)、すなわち三大(さんだい)真理(しんり)(さと)ることは容易(ようい)ではありません。日々(ひび)生活(せいかつ)のなかで、(おし)えに()らし()わせた(おこ)ないに(はげ)むことが大切(たいせつ)です。
すなわち、(あと)()べる(はっ)(しょう)(どう)と、(さき)(まな)んだ(ろく)()()(みつ)精進(しょうじん)することによって、自己(じこ)中心(ちゅうしん)だった自分(じぶん)のものの見方(みかた)(かんが)(かた)(ひと)とのふれあい(かた)()えていく努力(どりょく)をすることです。これが第四(だいよん)(さと)りである「道諦(どうたい)」です。
四諦(したい)要約(ようやく)すると、人生(じんせい)()世界(せかい)であることを直視(ちょくし)し(苦諦(くたい))、()のほんとうの原因(げんいん)をつかみ(集諦(しったい))、日々(ひび)修行(しゅぎょう)によって自己(じこ)中心(ちゅうしん)のものの見方(みかた)(かんが)(かた)()えていくことで(道諦(どうたい))、あらゆる苦悩(くのう)(かなら)解決(かいけつ)できる(滅諦(めったい))という(おし)えなのです。

()根本(こんぽん)原因(げんいん)貪欲(とんよく)にある

人生(じんせい)()には(かなら)原因(げんいん)があります。釈尊(しゃくそん)は、この(ほん)のなかで「(しょ)()(しょ)(いん)は、(とん)(よく)これ(もと)なり」として、()根本(こんぽん)原因(げんいん)貪欲(とんよく)であると()かれています。
貪欲(とんよく)とは、ものごとに「必要(ひつよう)以上(いじょう)執着(しゅうちゃく)する(こころ)」です。この執着(しゅうちゃく)自己(じこ)()かうと、(ひと)()(つよ)(こころ)になります。そして、()をつぶされると「自尊心(じそんしん)(きず)つけられた」などと(おも)って(はら)()てます。執着(しゅうちゃく)(そと)()かうと、他人(たにん)に「こうしてほしい」「こうでなければならない」「こうあるべきだ」などと要求(ようきゅう)する(こころ)(つよ)くなり、(もと)めるものが()られないとまた(はら)()てるのです。
このようにして貪欲(とんよく)から(しん)()(いか)りの(こころ))が()まれ、その(いか)りによってものごとをありのままに()智慧(ちえ)(おお)(かく)されてしまい、(しん)(おこ)ない)、()言葉(ことば))、()(こころ))に(おろ)かな行為(こうい)をくり(かえ)し(()())、結果的(けっかてき)(なや)み、(くる)しみが()きなくなるのです。
まさしく貪欲(とんよく)こそ、すべての()()()すもとです。人間(にんげん)は、この貪欲(とんよく)()原因(げんいん)だと()づかないために、欲望(よくぼう)執着(しゅうちゃく)して()から(はな)れられないでいるのです。ですから、自己(じこ)中心(ちゅうしん)()(かた)をほんとうにあらためること(道諦(どうたい))ができれば、()消滅(しょうめつ)滅諦(めったい))してしまうのです。
式典(しきてん)などで発表(はっぴょう)される体験(たいけん)説法(せっぽう)は、四諦(したい)(おし)えをこのように実践(じっせん)しましたという実例集(じつれいしゅう)です。あることで(くる)しみ(なや)んでいた(ひと)が、()から(のが)れたいために(おし)えの(えん)にふれ、サンガとともに(あゆ)むなかで()根本(こんぽん)原因(げんいん)()づき、自分のこれまでの生活(せいかつ)をあらため、(おし)えに()らし()わせた人生(じんせい)(あゆ)むようになる。いま、毎日(まいにち)がいきいきとしている──
体験(たいけん)説法(せっぽう)()かせていただくと、()一見(いっけん)マイナスのように()えますが、()があったおかげで仏法(ぶっぽう)(えん)にふれ、(おし)えを(まな)び、(おし)えにそった人生(じんせい)(あゆ)めるようになったことがわかります。ですから、()はマイナス要因(よういん)ではなく、(わたし)たちがよりよく成長(せいちょう)していくためのプラス要因(よういん)であるといえるのです。

生活(せいかつ)(ただ)(やっ)つの(みち)

滅諦(めったい)(さと)りは、(わたし)たちが日常(にちじょう)生活(せいかつ)のなかで直面(ちょくめん)する、さまざまな(くる)しみや(なや)みを根本的(こんぽんてき)解決(かいけつ)し、どんなことが()きてもグラつくことのない、ほんとうの(やす)らぎ((ぜっ)(たい)(あん)(のん))の境地(きょうち)です。この絶対(ぜったい)安穏(あんのん)境地(きょうち)(いた)るために、日々(ひび)生活(せいかつ)のなかで(おし)えに()らし()わせた(おこ)ないに(はげ)むことが道諦(どうたい)でした。その具体的(ぐたいてき)方法(ほうほう)(しめ)した(おし)えの(ひと)つが(はっ)正道(しょうどう)です。
この(ほん)後半(こうはん)(『経典(きょうてん)』に抜粋(ばっすい)されている部分(ぶぶん)(すこ)しあと)で釈尊(しゃくそん)は、「(めつ)(たい)(ため)(ゆえ)に、(どう)(しゅ)(ぎょう)す」と()かれます。この「(どう)」とは、(はっ)正道(しょうどう)をさしています。
(はっ)正道(しょうどう)は、「(しょう)(けん)(しょう)()(しょう)()(しょう)(ぎょう)(しょう)(みょう)(しょう)(しょう)(じん)(しょう)(ねん)(しょう)(じょう)」の(やっ)つの(ただ)しい(みち)であり、(ただ)しい生活(せいかつ)実践(じっせん)(ぎょう)です。「(ただ)しい」とは、真理(しんり)()ったという意味(いみ)で、ものごとを自分(じぶん)本位(ほんい)に、また固定(こてい)観念(かんねん)によって()たり(かんが)えたりしないことです。
正見(しょうけん)」は、自分(じぶん)中心(ちゅうしん)のものの見方(みかた)()てて、(ただ)しく公平(こうへい)にものごとを()ることです。
正思(しょうし)」は、むさぼる(こころ)貪欲(とんよく))や(いか)りの(こころ)瞋恚(しんに))、()()(とお)(こころ)(じゃ)(しん))を()て、すべてを(ただ)しく、(ほとけ)のような(おお)きな(こころ)(かんが)えることです。
正語(しょうご)」とは、うそ((もう)())、二枚舌(にまいじた)(りょう)(ぜつ))、わるぐち((あっ)())、でまかせな言葉(ことば)()())のない(ただ)しいものの()(かた)をすることであり、相手(あいて)(おも)いに()った言葉(ことば)をかけることです。
正行(しょうぎょう)」は、意味(いみ)なく動植物(どうしょくぶつ)生命(せいめい)()つ((せっ)(しょう))、(ぬす)みを(はたら)く((ちゅう)(とう))、(みち)ならぬ男女(だんじょ)(あやま)ち((じゃ)(いん))のない(ただ)しい(おこ)ないをすることです。
正命(しょうみょう)」は、(ひと)のために役立(やくだ)(ただ)しい仕事(しごと)()収入(しゅうにゅう)で、生活(せいかつ)必需品(ひつじゅひん)(もと)めることです。
正精進(しょうしょうじん)」とは、自分(じぶん)がめざす(ただ)しい目的(もくてき)目標(もくひょう)(たい)して、一途(いちず)努力(どりょく)(つづ)けることです。
正念(しょうねん)」は、(つね)(ただ)しい(こころ)()ち、(ただ)しい方向(ほうこう)(こころ)()(つづ)けることです。つまり、感謝(かんしゃ)(こころ)(ほとけ)さまに()かされていることを(こころ)(おも)いめぐらし、そのことを毎日(まいにち)習慣(しゅうかん)にすることです。
それにより、(こころ)周囲(しゅうい)変化(へんか)によってグラグラ(うご)かされないようになります。これが「正定(しょうじょう)」です。
人生(じんせい)には、人間(にんげん)関係(かんけい)経済的(けいざいてき)なことなど、さまざまな苦悩(くのう)次々(つぎつぎ)()きてきます。
しかし、いま自分(じぶん)()かれている環境(かんきょう)がどのようなものであっても、(はっ)正道(しょうどう)(しめ)されているように(こころ)()(かた)()えて生活(せいかつ)(ただ)すと、貪欲(とんよく)(うす)れていくため、日々(ひび)(こころ)()(かた)(おこ)ないが自然(しぜん)真理(しんり)にそい、意識(いしき)しなくても周囲(しゅうい)調和(ちょうわ)した()(かた)ができるようになります。すると、おのずと人生(じんせい)(たの)しく、いきいきと(おく)れるようになります。この周囲(しゅうい)調和(ちょうわ)した()(かた)こそ、宇宙(うちゅう)()()んでしまった(宇宙(うちゅう)はわがもの)という境地(きょうち)(いた)(みち)なのです。

事例から学ぶ

事例編(じれいへん)では、各品(かくほん)()められた(おし)えを、(わたし)たちが日々(ひび)生活(せいかつ)のなかで、どのように()かしていけばよいかを、具体的(ぐたいてき)事例(じれい)をとおして(かんが)えていきます。

鈴木さん一家を紹介します。

おばあちゃん・ミチコさん(75)…佼成会の青年部活動も経験している信仰二代目会員
アキオさん(45)…一家の大黒柱。ミチコさんの末息子
アキオさんの妻・夕カエさん(38)…婦人部リーダー。行動派お母さん
長女・ケイコさん(16)…やさしい心の持ち主の高校一年生。吹奏楽部
長男・ヒロシくん(9)…元気いっぱいの小学三年生

ひとつのいのち

小学三年生のヒロシくんが学校から帰ってくるなり、居間で洗濯物をたたんでいる母親のタカエさんに言いました。
「お母さん。きょうね、学校でユニセフについて勉強したんだ」
「あら、よかったわね」
「ぼく、ユニセフのことは前に佼成会の少年部で教えてもらっていたから、たくさん発言したよ。駅前で募金箱を持って『ユニセフ募金へのご協力をお願いしまーす』って大きな声でお願いしたことも話したんだ」
「去年の五月の青年の日に、少年部のみんなで駅前やスーパーの前に立って、行き交う人たちにユニセフ街頭募金への協力を呼びかけたんだったわね」
「最初は声を出すのが恥ずかしかったけど、たくさんの人が募金箱にお金を入れてくれるから、うれしかったなあ」
「集められたお金は、世界の子どもたちの健康と教育のために役に立つのよ」
「でも、きょう思ったんだけど、なぜ佼成会はユニセフに協力するの?」
「世界には、戦争や地震などの災害で家を失ったり、寒さをしのぐ服や毛布を持っていなかったり、食べ物がなくてひもじい思いをしている人たちがたくさんいるでしょう」
「アフリカの難民キャンプの様子を映したビデオを、教会で見たことがある。ものすごくやせた子どもたちが、たくさんいたよ」
「もし、ヒロシが難民生活をしなくてはならない状況になったら、どんな気持ちになるかしら?」
「うーん……悲しくなるなあ」
「そうよね。そんな辛く悲しい思いをしているときに、だれかが援助をしてくれたら、うれしいと思わない?」
「うん、すごくうれしい。希望がわいてくる感じかな」
「だから佼成会は、『世界のみんなが幸せに暮らせますように』という願いのもと、日本国内はもちろん、世界の人びとの役に立つ行動を起こしているの。でも、佼成会だけでは、できることに限りがあるから、世界各地でさまざまな援助活動をしているユニセフを応援しているのよ」
「わかった!いいことをするのに佼成会とかユニセフとか、そんなことにとらわれることはないんだね」
「そのとおり。ヒロシは『同悲同苦』という言葉を知っている?」
「うん。少年部で教えてもらったよ。困っている人の気持ちになって、その人の役に立つ行ないをすることでしょう」
「そう。仏さまが『すべての人はみんな私の子どもだ』とお説きくださっているように、世界の人びとは、みんなきょうだい・親戚なのよ。むずかしく言えば、仏さまと同じ一つのいのちにつながっているのだから、悲しみや苦しみのさなかにいる人がいたら、他人ごととは思えなくて、その人の幸せを願ってともに歩んでいきたいというのが『同悲同苦』の考え方なのよ」

すべては一仏乗

ヒロシくんが「遊びに行ってくる」と玄関を元気に飛び出したあと、台所で話を聞いていたおばあちゃんのミチコさんがタカエさんに話しかけました。
「いまの話を聞いていて、むかしのことを思い出したよ」
「戦後、日本もユニセフから援助を受けていたということですか?」
「私が青年部のときのことよ。私の父親はね、はじめ信仰に反対だったの」
「まあ、たくさんの人をお導きした幹部さんだったと聞いていますけど」
「それがね、入会後しばらくは、母親も私も父親を説得するのがたいへんで、活動にほとんど参加できない時期があったの。これでは信仰をしている意味がないと思ったくらいよ。そのときにね、主任さんが、『活動に出ているから信仰をしているとは言えません。お父さんに仏さまとのご縁を結んでいただくお手伝いをするのも、立派な仏道修行です。それにはまず、自分が仏さまの弟子であるという自覚に立って、教えにそった身の振る舞いができているか、常に省みることが大事です』と教えてくださったの」
「まあ、そんなことがあったんですか」
「ええ。人格を完成するための仏道修行には、さまざまな形があるから、『これがほんとうの修行で、こっちは二次的、三次的なものだ』などということはないのね。譬諭品にあるように、自分の目の前のことを精いっぱいさせていただくことが、そのまま一つの道・成仏につながっていくんだと、私たちは父親のことをとおして学ばせていただいたの」
「ユニセフを支援するのも、家庭や職場でのご法の実践も、みんな同じように尊い仏道修行なんですね」
「譬諭品には、『すべての人は等しく仏の子である。自我をこえて一心に修行に励めば、その道が成仏の道につながっていることがわかり、さらに修行を重ねると仏との一体感、すべての存在との一体感を味わえる』と説かれているよね」
「ええ。大事なことは、私たちがすべて仏さまの子どもだという自覚に立つことですね」
「私もみんなも仏さまの子どもなんだと思うだけで、心があたたかく柔らかになった気がしてくるね」

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