『経典』に学ぶ

妙法蓮華経 如来寿量品第十六

経文

(われ)(ほとけ)()てより(このかた)()たる(ところ)(もろもろ)(こっ)(しゅ)()(りょう)(ひゃく)(せん)(まん)(おく)(さい)()(そう)()なり。(つね)(ほう)()いて。()(しゅ)(おく)(しゅ)(じょう)(きょう)()して。(ぶつ)(どう)()らしむ。(しか)しより(このかた)()(りょう)(こう)なり。(しゅ)(じょう)()せんが(ため)(ゆえ)に。(ほう)便(べん)して()(はん)(げん)ず。(しか)(じつ)には(めつ)()せず。(つね)(ここ)(じゅう)して(ほう)()く。(われ)(つね)(ここ)(じゅう)すれども。(もろもろ)(じん)(づう)(りき)(もっ)て。(てん)(どう)(しゅ)(じょう)をして。(ちか)しと(いえど)(しか)()ざらしむ。(しゅ)()(めつ)()()て。(ひろ)(しゃ)()()(よう)し。(ことごと)(みな)(れん)()(いだ)いて。(かつ)(ごう)(こころ)(しょう)ず。(しゅ)(じょう)(すで)(しん)(ぶく)し。(しち)(じき)にして(こころ)(にゅう)(なん)に。(いっ)(しん)(ほとけ)()たてまつらんと(ほっ)して。(みずか)(しん)(みょう)(おし)まず。(とき)(われ)(およ)(しゅ)(そう)(とも)(りょう)(じゅ)(せん)()ず。(われ)(とき)(しゅ)(じょう)(かた)る。(つね)(ここ)にあって(めっ)せず。(ほう)便(べん)(りき)(もっ)ての(ゆえ)に。(めつ)()(めつ)ありと(げん)ず。()(こく)(しゅ)(じょう)の。()(ぎょう)(しん)(ぎょう)する(もの)あれば。(われ)(また)()(なか)(おい)て。(ため)()(じょう)(ほう)()く。(なん)(だち)()れを()かずして。(ただ)(われ)(めつ)()すと(おも)えり。(われ)(もろもろ)(しゅ)(じょう)()れば。()(かい)(もつ)(ざい)せり。(かるがゆえ)(ため)()(げん)ぜずして。()れをして。(かつ)(ごう)(しょう)ぜしむ。()(こころ)(れん)()するに()って。(すなわ)()でて(ため)(ほう)()く。(じん)(づう)(りき)(かく)(ごと)し。()(そう)()(こう)(おい)て。(つね)(りょう)(じゅ)(せん)(およ)()(もろもろ)(じゅう)(しょ)にあり。(しゅ)(じょう)(こう)()きて。(だい)()()かるると()(とき)も。()()()(あん)(のん)にして。(てん)(にん)(つね)(じゅう)(まん)せり。(おん)(りん)(もろもろ)(どう)(かく)(しゅ)(じゅ)(たから)をもって(しょう)(ごん)し。(ほう)(じゅ)()()(おお)くして。(しゅ)(じょう)()(らく)する(ところ)なり。(しょ)(てん)(てん)()()って。(つね)(もろもろ)()(がく)()し。(まん)()()()()らして。(ほとけ)(およ)(だい)(しゅ)(さん)ず。()(じょう)()(やぶ)れざるに。(しか)(しゅ)()()きて。()()(もろもろ)()(のう)(かく)(ごと)(ことごと)(じゅう)(まん)せりと()る。()(もろもろ)(つみ)(しゅ)(じょう)は。(あく)(ごう)(いん)(ねん)(もっ)て。()(そう)()(こう)()ぐれども。(さん)(ぼう)(みな)()かず。(もろもろ)(あら)ゆる()(どく)(しゅ)し。(にゅう)()(しち)(じき)なる(もの)は。(すなわ)(みな)()()(ここ)にあって(ほう)()くと()る。(ある)(とき)()(しゅ)(ため)に。(ぶつ)寿(じゅ)()(りょう)なりと()く。(ひさ)しくあって(いま)(ほとけ)()たてまつる(もの)には。(ため)(ほとけ)には()(がた)しと()く。()()(りき)(かく)(ごと)し。()(こう)(てら)すこと()(りょう)に。寿(じゅ)(みょう)()(しゅ)(こう)(ひさ)しく(ごう)(しゅ)して()(ところ)なり。(なん)(だち)()あらん(もの)(ここ)(おい)(うたがい)(しょう)ずることなかれ。(まさ)(だん)じて(なが)()きしむべし。(ぶつ)()(じつ)にして(むな)しからず。()()(ほう)便(べん)をもって。(おう)()()せんが(ため)(ゆえ)に。(じつ)には()れども(しか)()すというに。()()(もう)()くものなきが(ごと)く。(われ)(また)()()(ちち)(もろもろ)()(げん)(すく)(もの)なり。(ぼん)()(てん)(どう)せるを(もっ)て。(じつ)には()れども(しか)(めっ)すと()う。(つね)(われ)()るを(もっ)ての(ゆえ)に。(しか)(きょう)()(こころ)(しょう)じ。(ほう)(いつ)にして()(よく)(じゃく)し。(あく)(どう)(なか)()ちなん。(われ)(つね)(しゅ)(じょう)の。(どう)(ぎょう)(どう)(ぎょう)ぜざるを()って。()すべき(ところ)(したが)って。(ため)(しゅ)(じゅ)(ほう)()く。(つね)(みずか)()(ねん)()す。(なに)(もっ)てか(しゅ)(じょう)をして。()(じょう)(どう)()り。(すみや)かに(ぶっ)(しん)(じょう)(じゅ)することを()せしめんと。

現代語訳

(わたし)(ほとけ)となってから、これまでに()った()(かん)()(りょう)()(げん)です。そのあいだ(わたし)は、(つね)(しん)(じつ)(おし)えを()き、()(すう)(しゅ)(じょう)(きょう)()して(ぶつ)(どう)(みちび)きました。そのときからもまた、()(りょう)(つき)()()っているのです。
(わたし)(しゅ)(じょう)(すく)(しゅ)(だん)(ひと)つとして、この()から姿(すがた)()したこともありますが、(じっ)(さい)(めつ)()(にゅう)(めつ))したのではなく、(つね)にこの(しゃ)()()(かい)にいて(ほう)()いているのです。 (わたし)(つね)にこの()(かい)にいるのですが、()(ゆう)()(ざい)(じん)(づう)(りき)によって、(てん)(どう)している((なに)ごとも()(ぶん)(ちゅう)(しん)(かんが)え、ものごとの(しん)(じつ)()ようとしない)(しゅ)(じょう)には姿(すがた)()えないようにするのです。
(しゅ)(じょう)は、(わたし)(にゅう)(めつ)したのを()て、(しゃ)()をまつって()(よう)をし、そこではじめて(しん)(けん)(ほとけ)(おし)えを(もと)めようという(こころ)()こします。()(どう)(こころ)()こした(しゅ)(じょう)は、(おし)えを(こころ)から(しん)じ、(やわ)らかく()(なお)(こころ)で、(ほとけ)とともにいるという()(かく)()ようと、(いのち)をも()しまないほどの(しん)(けん)さで()(りょく)します。
このような(ひと)びとが(おお)くなれば、(わたし)()()たちとこの()()てきて、『(わたし)(つね)にここにいますが、(きょう)()(しゅ)(だん)として(ひつ)(よう)だと(おも)われるときに(にゅう)(めつ)()せるのです。また、この()(かい)()(がい)()(しょ)でも、(ただ)しい(おし)えを(うやま)い、(しん)じ、()きたいと(ねが)(ひと)たちがいれば、(わたし)はその(ひと)たちの(まえ)にも(あら)われて()(じょう)(ほう)()きます』と(しゅ)(じょう)(かた)ります。(おお)くの(ひと)は、このことを()らないために、(わたし)(めつ)()するのだと(おも)()んでいるのです。
(ほとけ)(まなこ)(しゅ)(じょう)()ると、(おお)くの(ひと)()(うみ)(しず)んで、(くる)しみもがいています。さればこそ、(わたし)はわざと()(あら)わさないで、(しゅ)(じょう)(みずか)(ほとけ)(もと)める()()ちを()こさせるのです。
(ほとけ)(れん)()する(こころ)(ひと)びとに()これば、すぐに()(あら)わして、その(ひと)たちのために(ほう)()きます。(ほとけ)(じん)(づう)(りき)とはこのようなものであって、()(げん)()()から()(げん)()(らい)まで、(しゃ)()()(かい)およびその()()(かい)(ほとけ)(そん)(ざい)しているのです。
(しゅ)(じょう)()()ると、()(かい)(ぜん)(たい)(たい)()()かれてしまうような()(だい)になっても、(ほとけ)(くに)(あん)(のん)であって、(てん)(じょう)(かい)(もの)(にん)(げん)(かい)(もの)がたくさん(あつ)まり、(たの)しい(せい)(かつ)(おく)っています。(うつく)しい(はな)(ぞの)(しず)かな(はやし)(ひかり)(かがや)(ほう)(ぎょく)によって(かざ)られた(りっ)()(たて)(もの)がたくさんあります。()()には(うつく)しい(はな)()き、(ゆた)かな()がなっていて、その(した)(ひと)びとは(なん)(うれ)いもなく(あそ)んでいます。(てん)(にん)(たえ)なる音楽(おんがく)(かな)で、(まん)()()()(はな)びらを(あめ)のように、(ほとけ)(ひと)びとの(うえ)(さん)じています。
(ほとけ)(まなこ)から()()(かい)は、このように(へい)()(うつく)しいのですが(しゅ)(じょう)()から()ると、あたかも(たい)()()かれるがごとく、()(あん)(きょう)()()ちているように()えるのです。このような(しゅ)(じょう)は、よくない(おこ)ないを()(かさ)ねるために、(なが)(ねん)(げつ)()っても(さん)(ぼう)(ぶつ)(ほう)(そう))の()()くことができません。
(はん)(たい)に、()のため(ひと)のためにさまざまな(ぜん)(こう)をなし、(こころ)(にゅう)()()(なお)(もの)は、(わたし)がいつもそばにいて(つね)(ほう)()いている姿(すがた)()る(()(かく)する)ことができるのです。そのような(ひと)びとに(たい)して、あるときは『(ほとけ)寿(じゅ)(みょう)(かぎ)りないものであって、()()()(しゅう)である』と()きます。(なが)いあいだかかって、ようやく(ほとけ)(そん)(ざい)()った(ひと)には、『(ほとけ)()()うことは(むずか)しいのだから、いま()()えた(よろこ)びを(むね)(きざ)んで、(おこた)らず(はげ)むのですよ』と()くこともあるのです。
(ほとけ)()()(ちから)はこのように(おお)きいものであり、その()()(ひかり)()らしだす()(かい)()(りょう)です。また、(ほとけ)寿(じゅ)(みょう)()(りょう)であって、それは(なが)いあいだ(ぜん)(ごう)()んで()寿(じゅ)(みょう)なのです。
ほんとうの()()(もと)めようとしているみなさんは、(ほとけ)寿(じゅ)(みょう)(えい)(えん)であり、()()(ちから)()(げん)であることを(うたが)ってはなりません。もし、(うたが)いを()こすような(まよ)いの(こころ)があれば、(えい)(きゅう)()()ってしまわなければなりません。(ほとけ)(こと)()は、すべて(しん)(じつ)なのです。
(さき)()べた(たと)(ばなし)において、(どく)()んで(ほん)(しん)(うしな)ってしまった()どもたちを(なお)すために、()()()(ほう)便(べん)をもって、(じっ)(さい)()んでいないのに『()んだ』と()げさせたことを、だれもとがめたりしないのと(おな)じように、(ほとけ)姿(すがた)()えなくするのも(けっ)してうそ、(いつわ)りではありません。
(わたし)(ちち)です。()(ちち)です。さまざまな()(のう)(かか)える(しゅ)(じょう)(すく)(もの)です。いつも(しゅ)(じょう)のそばにいて、その(くる)しみを(のぞ)こうとしているのですが、(ぼん)()(こころ)(てん)(どう)しているので、その(しん)(じつ)()ることができません。そこで、その()()まさせるために、(じっ)(さい)はそばにいても『()()がくれば姿(すがた)()すのだ』と()げるのです。
もし、いつでも(ほとけ)()えるのだということになれば、(しゅ)(じょう)にわがままな(こころ)(しょう)じて()(よく)(しゅう)(ちゃく)する((おのれ)(よく)(ぼう)にとらわれる)ため、(しゅ)()(あらそ)いの()(かい))や()(ごく)(いか)りの()(かい))などもろもろの(あく)(どう)(くる)しみが(じん)(せい)(あら)われてくるのです。
(わたし)(しゅ)(じょう)のすべてを(つね)()とおして、ある(もの)はよく(ほとけ)(みち)(ぎょう)じており、ある(もの)(ぎょう)じていないということを()()くしていますから、(しゅ)(じょう)(こころ)がけや(おし)えを()(かい)する(ちから)(おう)じて、(てき)(せつ)(ほう)(ほう)(えら)び、さまざまに(ほう)()いてあげるのです。とはいえ、どんな(しゅ)(じょう)(たい)しても、(わたし)(ほん)(しん)(すこ)しも()わりません。どうしたら(しゅ)(じょう)(ほとけ)(みち)(みちび)()れることができるだろうか、どうしたら(すみ)やかに(ほとけ)(きょう)()(たっ)せしめることができるだろうかと、(つね)にそれのみを(ねん)じているのです」

(じん)(づう)(りき)──ここで()(じん)(づう)(りき)とは、(しゅ)(ぎょう)などによって()られる()()()(ちから)ということではありません。()(おん)(じつ)(じょう)(ほん)(ぶつ)は、()(ちゅう)(いっ)(さい)のものを()かしている(こん)(げん)(だい)(せい)(めい)ですから、()(ゆう)()(ざい)(ちから)()っておられます。その(ちから)(ひょう)(げん)しているのです。
(りょう)(じゅ)(せん)──(しゃく)(そん)()()(きょう)()かれた()(しょ)(りょう)(じゅ)(せん)であったために、こうおっしゃられたのであって、(まこと)()()は「この()」ということです。(わたし)たちが(ほとけ)(おし)えを()くところは、どんな()(しょ)であっても、そこが(りょう)(じゅ)(せん)なのです。
()(こく)──(しゃ)()()(かい)()(がい)国土(こくど)ということですが、宇宙(うちゅう)のありとあらゆる()(しょ)という()()にとらえるといいでしょう。
(まん)()()()──(てん)(じょう)(かい)()(はな)で、()(ひと)(こころ)(よろこ)ばせずにはおかない、(うつく)しい(はな)のことです。
(つみ)(しゅ)(じょう)──(ぶっ)(きょう)でいう(つみ)とは、(かなら)ずしも(わる)いことをしたという()()だけではなく、(ぼん)(のう)()(まわ)されて、(みずか)らの(ぶっ)(しょう)をくらましてしまっていることもいいます。
(さん)(ぼう)(みな)()かず〉 ──(ほとけ)さまに()うことも、(ほとけ)さまの(おし)えにふれることも、(おし)えを(もと)める(なか)()()れてもらう()(かい)にも(めぐ)まれないということです。
()(こう)(てら)すこと()(りょう)に〉──(ほとけ)()()(ひかり)()らしだす()(かい)()(りょう)であるということは、いつ、いかなる()(しょ)でも、(まよ)いの(やみ)にいる(しゅ)(じょう)(すく)いの(ちから)(あた)え、(ぶっ)(しょう)(かがや)かせる(はたら)きをするということです。したがって、すべての(ひと)(かなら)(しん)()()()めることができるという()()です。

意味と受け止め方

(えい)(えん)のいのちに()きる

これまでに(しゃく)(そん)は、(たと)(ばなし)()()()(もの)(がたり)などを(もち)いながら、「(にん)(げん)(ほん)(しつ)(ぶっ)(しょう)である」ということを、くり(かえ)しお()きになられました。(せっ)(ぽう)()いていた(ひと)びとも(じゅん)(じゅん)に、(みずか)らが(ほん)(ぶつ)のいのちの(あら)われであることに()()め、()(ぶん)(ほとけ)()であるという()(かく)()つことができるようになってきました。
(ひと)びとの(しん)(きょう)(たか)まったことを()きわめられた(しゃく)(そん)は、いよいよ(さい)(こう)(しん)(じつ)()()けるときが(おとず)れたと(はん)(だん)されます。そして、(ほとけ)(ほん)(たい)(ほとけ)(ちから)(はたら)き)について(あき)らかにされるのです。
つまり、(ほとけ)(ほん)(たい)()(げん)()()から()(げん)()(らい)まで(()(おん)(じつ)(じょう))、あまねく()(ちゅう)(へん)(まん)している(おお)いなる(えい)(えん)のいのち((ほん)(ぶつ))であり、(ほん)(ぶつ)(ばん)(ぶつ)()かす(ちから)は、いつでもどこでも()わることなく(えい)(えん)(そん)(ざい)することを(おし)えられるのです。
これは「(ほとけ)」についてだけ(おし)えられたものではありません。(わたし)たちのいのちもまた(えい)(えん)であることを(しめ)してくださっているのです。なぜならば、(わたし)たちはみな(ほん)(ぶつ)のいのちの(あら)われであり、(ほん)(ぶつ)(ひと)つのいのちにつながっているからです。
(にん)(げん)としての(にく)(たい)は、やがて(かなら)()(むか)えます。それはちょうど、どんなに(たい)(せつ)にしている(ふく)でも、いつかは(ふる)び、(やぶ)れて、()てるときがくるのと(おな)じです。しかし、(わたし)たちのいのちの(ほん)(しつ)(にく)(たい)ではありません。(ぶっ)(しょう)、すなわち(ほん)(ぶつ)一体(いったい)(えい)(えん)のいのちです。
(かい)(ちょう)(せん)(せい)は、ご(ちょ)(しょ)(しん)(でん)(たがや)す』のなかで、このように()べられています。
(にん)(げん)のいのちは(ゆう)(げん)ですが、(わたし)たちは()(じょう)(ほう)(えい)(えん)なる(しん)()(ほう)(にん)(しき)できる(のう)(りょく)(そな)えています。それは、(わたし)たちが(ゆう)(げん)(そん)(ざい)でありながら()(げん)にふれることができ、つまり(えい)(えん)のいのちにジョイント((れん)(けつ))できるということです。()(じょう)(ほう)(にん)(しき)することは、(えい)(えん)のいのちを()ることに(つう)じます。(ゆう)(げん)なる(にん)(げん)()(げん)なる(ほう)にふれ、(けち)(えん)することによって、(えい)(えん)()(つづ)けているのです」
(ばん)(ぶつ)()かす(ほん)(ぶつ)(はたら)きとは、(しん)()(ほう)(はたら)きそのものです。その(はたら)きは、(わたし)たちの()(そと)(がわ)にも(うち)(がわ)にも(あら)われています。ですから、(えい)(えん)なる(しん)()(ほう)は、(わたし)たちのいのちそのものなのです。
この(しん)(じつ)(こころ)(そこ)から(かく)(しん)できたとき、(わたし)たちは「(にく)(たい)()」という、(にん)(げん)としての(こん)(ぽん)(てき)(きょう)()()(のう)から()(はな)たれます。そして、(おお)いなる(えい)(えん)のいのちに()かされて()きる(よろこ)びを(あじ)わいながら、(にん)(げん)として()まれた(しん)(もく)(てき)である、「(みずか)らの(せい)(ちょう)(こう)(じょう)」と「()(ひと)びとへの(こう)(けん)」に()かって、いきいきと(あゆ)()すことができるのです。
(にょ)(らい)寿(じゅ)(りょう)(ほん)()()(きょう)(ぜん)(たい)(がん)(もく)とされる()(ゆう)は、ここにあります。

(ひと)つになる

(おお)いなる(えい)(えん)のいのち・(ほん)(ぶつ)(おな)(ひと)つのいのちにつながっているのは、(なに)(にん)(げん)だけではありません。(はな)(とり)も、ありとあらゆるすべての(そん)(ざい)が、(ほん)(ぶつ)のいのちの(あら)われです。お(たが)いに、さまざまに(かん)(れん)()って()かされて()きているのです。
このことを(ふか)()つめてみると、(わたし)たちは()きとし()けるものと(ひと)つのいのちを()きているということがわかります。ですから、(えい)(えん)(おお)いなる(ひと)つのいのちを()きるということは、すべての(そん)(ざい)(ひと)つにつながっていく((だい)調(ちょう)())ということなのです。
では、(おお)いなる(ひと)つのいのちを()きている(わたし)たちは、なぜ(にん)(げん)()まれてきたのでしょうか。それは(ほっ)()(ほん)でも(まな)ばせていただいたように、(こころ)(せい)(ちょう)(こう)(じょう)をめざし(()())、(ほとけ)(おな)(きょう)()(いた)るためです。
(ほとけ)(おな)(きょう)()ということですから、()(かた)()えると、(くる)しみ(なや)(ひと)びとを(すく)うため(()())に()まれてきたともいえるでしょう。()のため(ひと)のためにつくせる(にん)(げん)となるために()(ぶん)(せい)(ちょう)させるのであり、()(ぶん)(せい)(ちょう)(こう)(じょう)(はか)るために()()(ぎょう)(はげ)
──つまり()()()()(ひょう)()(いっ)(たい)(ぎょう)なのです。

(おや)()(かん)(けい)

(わたし)たちが()()()()(はげ)姿(すがた)を、(ほとけ)さまは、わが()(せい)(ちょう)(たの)しみにしている(おや)(おな)(こころ)で、()(ほそ)めて見守(みまも)ってくださっています。そのお姿(すがた)を、(しゃく)(そん)は「(ろう)()(たと)え」によって、わかりやすくお()きくださいます。

あるところに一人(ひとり)(めい)()がいました。()()にはたくさんの()どもがおり、(ちち)(しょ)(よう)()(こく)()かけているあいだに、(あやま)って(どく)(やく)()んでしまいました。いつもは(けっ)してそんなことはしない()どもたちですが、(ちち)()()のあいだに、やりたいほうだいの(せい)(かつ)をしていたので、このような()(たい)になってしまったのです。
()どもたちが()べたをはって(くる)しんでいるところへ、(ちち)(かえ)ってきました。()どもたちは、(ちち)姿(すがた)()(よろこ)び、「お(とう)さん、(わたし)たちは(おろ)かにも(どく)(やく)()んでしまいました。どうか(たす)けてください」と(うった)えました。
(ちち)は、よく()(しゅ)(じゅ)(やく)(そう)から、(いろ)(かお)りもよいものを(えら)んで調(ちょう)(ごう)し、()どもたちに(あた)えました。(くすり)()んだ()どもはすぐに(なお)りましたが、(どく)(まわ)りが(はや)く、(くる)しみの(はげ)しさに(ほん)(しん)(うしな)っている()どもは()もうとしません。
そこで(ちち)(いっ)(けい)(あん)じ、「みんな、よく()きなさい。(わたし)はもう(とし)をとって(からだ)(よわ)っているので、いまのうちに()かねばならない(ところ)がある。これからまた()かけるが、(くすり)をここに()いておくから()(ぶん)()むのだよ」と()って、(いえ)(あと)にしました。そして、(たび)(さき)から使(つか)いを()し、「(ちち)(うえ)()くなられました」と()げさせたのです。
()どもたちはたいへん(なげ)き、(かな)しみました。(ほん)(しん)(うしな)っている()どもも、そのショックではっとわれに(かえ)り、(ちち)(のこ)してくれた(くすり)()んで、(どく)()すことができました。()どもたち(ぜん)(いん)(なお)ったことを()(とど)けた(ちち)は、(ふたた)姿(すがた)(あら)わして()どもたちを(よろこ)ばせました。

この(たと)えにある(ちち)()()とは(ほとけ)さまのことであり、()どもたちは(わたし)たち(しゅ)(じょう)をさします。(どく)()(よく)(しゅう)(ちゃく)する(ぼん)(のう)のことであり、(くすり)(ほとけ)さまの(おし)えです。(ほとけ)さまのみ(おし)えを()(なお)(こころ)(じゅ)()し、()(おこ)なえば、だれでも(かなら)(すく)われることが(しめ)されています。
(ほとけ)さまのような(だい)(どう)()がいつも()(ぢか)にいて(わたし)たちを(みちび)いてくださっているときは、(おし)えの(とうと)さがわかり、(おし)えにそった生活(せいかつ)(おく)ることができます。しかし、()(どう)(しゃ)がいなくなってしまうと、(おし)えはちゃんとそこにあるのに、ついわがままな(こころ)がわき()こり、()()(ちゅう)(しん)のものの()(かた)(かんが)(かた)による(しゅう)(ちゃく)(しん)(とん)(よく))によって(みずか)()(のう)(しょう)じさせてしまうのです。(たと)えのなかで、()どもたちが(どく)()んで(くる)しんでいる姿(すがた)は、このことを(あら)わしています。
(ちち)が、さまざまな(やく)(そう)調(ちょう)(ごう)して()みやすい(くすり)をつくってくれたというのは、(わたし)たち(しゅ)(じょう)理解(りかい)できるようにと、(ほとけ)さまがさまざまに(ほう)()()けてくださったということです。しかし、()(かん)(たの)しみに(おぼ)れ、(ぼん)(のう)()(まわ)されていのちの(ほん)(しつ)をくらましている(にん)(げん)は、(おし)えを(じゅ)()し、(じっ)(せん)しようという()()ちになりません。それが(ほん)(しん)(うしな)っている()どもたちの姿(すがた)です。
ところが、(ちち)()どもたちの(くち)()()()けて(くすり)()ませることはせず、(みずか)らの()()()むまで()ちます。それは、(しん)(こう)には「(みずか)ら」ということが(なに)よりも(だい)()だからです。
たとえば、(べん)(きょう)をする()のない()どもに、いくら(おや)が「(べん)(きょう)しなさい」とくり(かえ)()っても、(じゅく)(かよ)わせても、(ほん)(にん)にやる()がなければ(なに)()につきません。()(ぶん)(もと)め、()(ぶん)でつかんでこそ()になるのです。
(ほとけ)さまは、(おし)えを(もと)める()()ちのない(ひと)びとをも(けっ)して()(はな)したりせず、あらゆる(しゅ)(だん)(もち)いて(すく)ってあげようとされます。そこで(ほとけ)さまは、(ひと)びとの()()まさせるために、(いち)()()(かく)されるのです。すると、いままで()()(しき)のうちに(ほとけ)さまの()()(あま)えっぱなしでいた(ひと)たちにも、(みずか)らの(もん)(だい)()(ぶん)たちで(かい)(けつ)しなければならないという()()ちがふつふつと()こってきます。どんな(ひと)でも、いのちの(ほん)(しつ)(ぶっ)(しょう)なのですから、やがて(しん)(けん)(おし)えを(もと)めていこうという()()ちになっていくのです。
こうして()どもたちがすっかり(なお)ったあとで、(ちち)(ふたた)姿(すがた)(あら)わしたということに、また(おお)きな()()があります。これは、(わたし)たちが(ほとけ)(おし)えを(こころ)から(じゅ)()し、(おし)えにそった()(かた)をすれば、(ほとけ)さまの姿(すがた)()えてくるということです。もちろん、(じっ)(さい)(にく)(がん)(ほとけ)さまの姿(すがた)()えるということではありません。()(ぶん)にふれるさまざまな(えん)のなかに、(ほとけ)さまの(おお)きな()()(たし)かに()えてくるのです。その(けっ)()、「(つね)(ほとけ)さまといっしょにいるんだ。(ほとけ)さまに()(まも)られているんだ」ということが()(かく)できるわけです。
(ほとけ)さまと(にん)(げん)(かん)(けい)は、()(はい)(しゃ)()(はい)される(もの)というものではありません。(しゃく)(そん)は、この(たと)えによって、(ほん)(ぶつ)(わたし)たちが(おや)()であること、(わたし)たちが(ほん)(ぶつ)(ふか)()()(いだ)かれて、()かされて()きていることを(あき)らかにされたのです。
(ほとけ)さまは(ふか)()()(こころ)(わたし)たち一人(ひとり)ひとりを(あん)じ、どうしたらよりよく(せい)(ちょう)(こう)(じょう)できるかを(ねん)じてくださっています。そして、(わたし)たちの(せい)(ちょう)()()いに(おう)じて、(もっと)(てき)(せつ)な「(まな)びの()(えん)」を(あた)えてくださるのです。

すべてが(せい)(ちょう)(たね)

ここで(わたし)たちは、(ほとけ)さまがくださる「(ほん)(しつ)(てき)(すく)い」の(しん)()()をはっきりと(こころ)(きざ)まなければなりません。(ほとけ)さまの(ほん)(しつ)(てき)(すく)いとは、「(わたし)たちの(にく)(たい)(せい)(めい)(ゆう)(げん)であっても、()(ちゅう)(えい)(えん)のいのちを(にん)(しき)することによって、(わたし)たち一人(ひとり)ひとりのいのちが、かけがえのないいのちであることに()づくこと。そして、(しん)()(ほう)にそいながら、(みずか)らの(せい)(ちょう)()(しゃ)への(こう)(けん)(よろこ)びを(まん)(きつ)できるような(きょう)(がい)になること」です。では、そうした(もく)(てき)()けて、(ほとけ)さまはどのように(みちび)いてくださるのでしょうか──
()(きゅう)には、(ろく)(じゅう)(おく)(にん)(げん)(せい)(かつ)していますが、(ほとけ)さまはその一人(ひとり)ひとりをわが()として()(まも)り、いのちの(おお)(もと)(おや)として、(ぜっ)(たい)()()(そそ)いでくださっています。(ほとけ)さまの()()のみ(こころ)は、ちょうど(つぎ)のような(こと)()(あら)わせるでしょう。
「わが()よ、いつも(こころ)(やす)らかであれ。そして、(おお)いなる()(ぼう)()って(せい)(ちょう)(かい)(だん)(いっ)()(いっ)()()みしめよ。(ほとけ)はそのために(ひつ)(よう)な、あらゆる(えん)(あた)えるであろう」
こうして(わたし)たちに(あた)えられる(えん)は、うれしいことや(たの)しいこと((じゅん)()()())も、(かな)しいことや(つら)いこと((ぎゃっ)()()())も、すべてが(わたし)たちを(せい)(ちょう)(こう)(じょう)させるための(ほとけ)さまのお(みちび)きであり、(わたし)たちにとって()(ちょう)(まな)びの()(えん)なのです。
しかも、この(まな)びの()(えん)は、(わたし)たち一人(ひとり)ひとりの(せい)(ちょう)()()いに(おう)じて、いまの()(ぶん)(いっ)()(こう)(じょう)するために(もっと)(こう)()(てき)なかたちで、また(ぜつ)(みょう)のタイミングで(あた)えられるのです。これを(ほとけ)さまの()(だい)(ほう)便(べん)(ただ)しい(きょう)()(しゅ)(だん))といいます。(ひと)のやさしさや(うつく)しい(おん)(がく)(そう)()()(ふう)ができる()(ごと)などのうれしい(えん)は、(わたし)たちの(こころ)(ゆた)かにし、(やく)(どう)させながら(せい)(ちょう)()(えん)となってくれます。(どう)()に、(びょう)()(けい)(ざい)(てき)()(にん)(げん)(かん)(けい)(なや)みなどといった(つら)(えん)も、いままでの()(ぶん)をひとまわりも、ふたまわりも(おお)きく(せい)(ちょう)させてくれるのです。
(なや)みのなかで、(わたし)たちは()(にん)(こころ)(いた)みを()(かい)できるようになり、(おお)くの(ひと)(ささ)えられていることに()づき、(ひと)(しん)じること、(ゆる)すことの(とうと)さを()っていきます。()(まえ)(あら)われるすべての(えん)には()()があります。その()()(わたし)たちが()づき、(おお)きな(まな)びを()ることを、(ほとけ)さまはじっと(ねん)じてくださっているのです。

アンテナを(みが)

いま、(わたし)たちは(ほとけ)さまと()(ぶん)(かん)(けい)、そして、(ほとけ)さまの(おお)いなる()()(なか)()()ることができました。ところが、(じっ)(さい)()(ちょく)(めん)すると「これも(ほとけ)さまのお()()」とは、なかなか()けとめられないものです。どんな()()(ごと)()(なお)(ほとけ)さまの()()として()けとめられるようになるには、ただ(ひと)つ、()()(かん)じとる(こころ)のアンテナを(みが)いていくほかにありません。
()(たい)(てき)()うと、()()(せい)(かつ)のなかで《ありがたい》と(おも)える()()(ごと)()())を()(のが)さないで、しっかりと(あじ)わっていくことです。
すばらしい(しょ)(もつ)()()えた、おいしい(しょく)()をいただけた、(せき)(ゆず)って()()ちよかった……。こうした()()(ごと)があるたびに、「うれしいなあ。(ほとけ)さまは(わたし)をほんとうにかわいがってくださっているんだ」と(あじ)わっていきます。
すると、(じょ)(じょ)に「(ほとけ)さまはいつ、いかなるときも、(わたし)(おや)としての(ぜっ)(たい)のお()()(そそ)いでくださっている」という(しん)(じつ)が、()(しき)ではなく(じっ)(かん)として(なっ)(とく)できるようになるのです。
しかし、()()(きん)(もつ)です。たとえば、(みち)(ころ)んだとき、《ついていないな、ひどい()にあった》と(おも)ったとしたら、それはそれでいいのです。ただし、そのあとにうれしい()()(ごと)があったら、そこは()(のが)さないで、《また(ほとけ)さまにかわいがられた》と(あじ)わっていきます。(まえ)()こった()()(ごと)と、そこから()まれた(かん)(じょう)をいつまでも()きずってはいけません。それは“とらわれ”であり、アンテナの(かん)()(にぶ)くするもとです。()()ちをすっきりと()()えましょう。
こうして()()なく、しかも(ちゅう)()(ぶか)(ほとけ)さまの()()(あじ)わっていくうちに、アンテナはしだいに(かん)()()していきます。すると、それに(ともな)って「きのうまではありがたくなかったことが、きょうはありがたく(かん)じる」という(げん)(しょう)(つぎ)(づぎ)()きてくるのです。そして、たとえ(まえ)(おな)じように(みち)(ころ)んでも、《ひざを()りむいたけど、この(てい)()ですんでよかった。ありがたい》と()(ぜん)(おも)えるようになっていきます。
()どもが(おや)(あい)()ごろから()()えるかたちで(あじ)わっていれば、ときに(きび)しく(しか)られても、そこに()められた(おや)のほんとうの()()ちを()(かい)して、(みずか)らの(せい)(ちょう)(かて)とすることができます。しかし、(おや)(あい)をふだん(かん)じていない()どもは、(しか)られると(らく)(たん)し、(はん)(ぱつ)(しん)すら(いだ)くことがあります。
(わたし)たちも、(おや)である(ほとけ)さまの(そん)(ざい)とその(ぜっ)(たい)(あい)()())を、()ごろから()(ぢか)(あじ)わっていくことが(たい)(せつ)です。そうすれば、(こころ)のアンテナは(かん)()()(つづ)け、()()(おも)える(げん)(しょう)(はん)()はどんどん(ひろ)がり、ついには()(まえ)(あら)われるすべての(えん)(たい)して「これも(おや)である(ほとけ)さまがくださった(ぜっ)(たい)のお()()なんだ。よし、また(いっ)()(せい)(ちょう)するぞ」と、(げん)()にチャレンジできるようになるのです。

事例から学ぶ1

事例編(じれいへん)では、各品(かくほん)()められた(おし)えを、(わたし)たちが日々(ひび)生活(せいかつ)のなかで、どのように()かしていけばよいかを、具体的(ぐたいてき)事例(じれい)をとおして(かんが)えていきます。

鈴木さん一家を紹介します。

おばあちゃん・ミチコさん(75)…佼成会の青年部活動も経験している信仰二代目会員
アキオさん(45)…一家の大黒柱。ミチコさんの末息子
アキオさんの妻・夕カエさん(38)…婦人部リーダー。行動派お母さん
長女・ケイコさん(16)…やさしい心の持ち主の高校一年生。吹奏楽部
長男・ヒロシくん(9)…元気いっぱいの小学三年生

タロウくんが結婚

日曜日に、アキオさんの兄・ノブオさんが訪ねてきました。しばらく兄弟で話をしたあと、母親の部屋がある二階にあがっていきました。
「母さん、正月以来、顔を見せなくてすみませんでした。元気そうですね」
「あら、その口のひげ……。ますます父さんに似てきたわねえ。それはそうと、きょうは一人で来たの」
「ええ、ちょっと話がありまして」
「どうしたのよ、あらたまって。あなたらしくないじゃない」
「じつは、きょうは母さんにお詫びをしようと―」
「ノブオさんは、二男のタロウくんのことから話し始めました。タロウくんは大学院で海洋学を勉強していますが、先月になって突然、大学院をやめると言いだしたのです。外資系の商社に勤める、五つ年上の女性と結婚するために、どこかに就職したいというのが理由です。
ノブオさんと妻のユミコさんは、息子が女性と交際していることさえ知らなかっただけに、言葉が出ないほど驚きました。ノブオさんが心を落ちつけて話を聞くと、タロウくんは「学生のままで結婚したら、彼女に経済的な負担をかけてしまう」と言います。しかも「卒業まで待てない。どうしても年内に結婚したい」の一点張りです。
後日、ノブオさんはタロウくんとその女性に会いました。彼女の話では、二人のあいだで確かに結婚の話をした。彼の気持ちはとてもうれしい。しかし、早急に結婚しようとは考えていない。彼に大学院で勉強を続けてもらい、時期を見て結婚できる環境が整えばそうしたい、ということでした。
三人でじっくりと話し合った結果、一人あせっていたタロウくんは彼女の言い分を聞き入れ、勉強を続けることになりました。結婚のことは、これからお互いの家族を交えて、折々に話し合っていくということで合意を得たのです。

仏さまはそばにいる

「ユミコさんは、何て言っているの?」
「本心は結婚を許せないようですけど、タロウを信じて認めようと自分に言い聞かせているみたいですよ」
「ユミコさんの気持ちは痛いほどよくわかるわ。ノブオ、ユミコさんにやさしくしてあげるのよ」
「はい。タロウのことがあって、ぼくも母さんや父さんに、どれだけ心配をかけてきたかということが身にしみましてね。それでいまさら何ですが、そのことをお詫びしたいと思ったんです」
「まあ」
「ぼくは父さんの反対を押し切り、家を出て家具職人になりましたからね。父さんに、大学まで出てなぜだと怒鳴られたときのことを、いまでもハッキリと覚えていますよ。それに、母さんたちに内緒で結婚までしてしまって……。ずっと申しわけなかったと思っていたんです。でも、それを言いだすきっかけがなくて」
ノブオさんが顔をあげると、ミチコさんは眼鏡をずらし、ハンカチで目を押さえていました。
「母さん。勝手なことばかりしてきて、すみませんでした。父さんには今朝、お墓の前で手を合わせてきました。でも、父さんと母さんが信仰を伝えてくれたから、冷静にタロウと彼女の話を聞くことができ、いま、ぼくたち家族と彼女がどうすればいいのかを、仏さまの教えに基づいて考えられたんだと思います。仏さまがタロウのことをとおして、自分を見つめなさいと説法してくださっていることがよくわかるんです。これほど仏さまの存在を肌で感じたことはなかったですからね」
「いままでも、仏さまはノブオのそばにずっといてくださり、お慈悲をかけてくださっていたのよ。ノブオが気がつかなかっただけ。家を出てからのことをふり返ってごらん。たくさんのお慈悲をいただいていることがわかるはずだよ」
「いままでもずっと、お慈悲をかけてくださっていた?」
「そうよ。親方、いや社長さんの家に住み込みで働かせてもらい、一人前に育ててもらったんじゃない。結婚をして、子どもが三人も授かって……」
「そうですね。親方は厳しい人だったけど、そのお陰でぼくも工房を持てるようになったんですからね。ユミコにもだいぶ苦労をかけたけど、子どもたちがいたから……」
「これまでのノブオには、辛いことや苦しいことがたくさんあったと思うけど、ふり返ってみると苦労がみんな自分の人間形成の肥やしになっているんじゃない?仏さまは、そのときどきに、どうしたらこの人がよりよく成長・向上できるだろうかと、さまざまな方便を用いて現象を見せてくれるの。ノブオはいま仏さまの存在を感じると言ったけれど、仏さまはいつでもノブオを導いてくださっていたのよ。あなたが仏さまの存在を心の目で観ようとしていなかったから、その存在に気づけないでいただけ」
「仏さまは、いつでも私たち一人ひとりに説法してくださっている……」
「そう。私たちが仏さまを観ようとすれば、仏さまも姿を観せてくださるの」
「きょう母さんに会ってよかった。これからは、常に仏さまと対話していくよ。母さん、ありがとう」

事例から学ぶ2

事例編(じれいへん)では、各品(かくほん)()められた(おし)えを、(わたし)たちが日々(ひび)生活(せいかつ)のなかで、どのように()かしていけばよいかを、具体的(ぐたいてき)事例(じれい)をとおして(かんが)えていきます。

鈴木さん一家を紹介します。

おばあちゃん・ミチコさん(75)…佼成会の青年部活動も経験している信仰二代目会員
アキオさん(45)…一家の大黒柱。ミチコさんの末息子
アキオさんの妻・夕カエさん(38)…婦人部リーダー。行動派お母さん
長女・ケイコさん(16)…やさしい心の持ち主の高校一年生。吹奏楽部
長男・ヒロシくん(9)…元気いっぱいの小学三年生

中村さん親子の苦悩

その日の午後、タカエさんは道場に支部長さんを訪ねました。婦人部の中村レイコさんの一件を報告するためです。
「支部長さん、お昼前に中村さんと会ってきました。中村さんは一晩かけてじっくりと、これまでの自分をふり返り、母親としてのあり方を見つめ直すことができたと話してくれました。私はその話を聞いているうちに、とてもすばらしい気づきをされたなあと感動しました」
「まあ、それはよかった。これで娘さんとの関係も修復されていくわね」
タカエさんと支部長さんが話している中村さんの一件とは、おおよそ次のような出来事です。
夫が二年前から海外で単身赴任している中村さんは、大学三年生の長男と高校一年生の長女の三人暮らし。長女のミキさんは、全国にもその名が知られる有名・進学校に通っています。
そのミキさんが、きのうの夕方、大型書店でマンガ本を万引きしたのです。書店の店長から呼び出しを受けた中村さんはひどく動揺し、タカエさんに電話して、一緒について行ってもらいました。タカエさんが知っているミキさんは、どちらかといえば内気な性格でしたから、彼女が万引きをするなど、書店に着くまで信じられませんでした。
しかし、書店の事務室のいすに座っているミキさんの姿を見て、タカエさんは目を疑いました。まじめを絵に描いたような彼女が髪を染め、派手な化粧をしているではありませんか。ミキさんとは二か月ほど前に会ったきりですが、その変容ぶりに驚かされました。
店長に何度も頭を下げてミキさんを家に連れ帰った中村さんとタカエさんは、ミキさん自身から詳しい事情を聞こうとしましたが、本人は泣きじゃくるばかりで話をしてくれません。タカエさんは、声を荒らげて娘を詰問する中村さんをなだめ、ミキさんの部屋で二人だけで話しをすることにしました。
部屋に入るとミキさんは、これまでの母親との関係について話し始めました。ミキさんは、兄と同じ有名進学校に入学したものの、学校の授業についていけず、一学期の成績は学年のなかでも下位のほうでした。決してなまけているわけではなかったのですが、成績表を見た母親から厳しく叱られ、自信を失ってしまったのです。夏休みに入り、母親から毎日「あなたに遊んでいる時間などないはずよ。もっと勉強しなさい」と言われ続けたことで精神的に追い詰められ、さらには「こんな成績では、恥ずかしくて保護者会にも行けない。この学校で常にトップクラスだったお兄ちゃんの顔に泥を塗るつもりなの」と言われて、心に深い傷を負ったのでした。
ある日突然、ミキさんは髪を染め、細いまゆ毛姿で母親の前に立ちました。
以来、家族とは一切口をきかないようになったと言います。マンガ本を万引きしたのも、母親に対する反抗の表われだったのでしょう。
部屋から出てきたタカエさんは、ミキさんから聞いた話を、すべて中村さんに伝えました。
「そうだったの。私がガミガミ言ったのは、あの子に勉強する意欲がないからだと思っていたの」
「ミキちゃんも一生懸命にやっていたのよ。だけど、それが成績に結びつかなかったから、苦しんだと思うわ」
タカエさんと中村さんは、その晩遅くまで、ミキさんの気持ちや母親としてどのようにふれあっていけばよいかなどについて話し合いました。

仏さまのはたらき

「支部長さん。中村さんはミキちゃんの姿をとおして、仏さまが母親としてのあり方を教えてくださったと言うんです」
タカエさんと支部長さんは道場の法座席で、ご本尊さまを見上げるようにして座っています。
「中村さんは、優秀だったお兄ちゃんとミキちゃんを見比べて、お兄ちゃんがこれだけできたのに、どうしてミキちゃんにできないのかと、いつも責めていた自分の姿に気づいたそうです」
「きょうだいでも、一人ひとりは違う人格なのだから、その子の持っている個性を認めてあげることが大事なんだということに気がついたのね」
「はい。それから中村さんは、勉強のできる子どもを持っていることが自慢で、子ども自身を愛していたのではなく“よい成績”を愛していた愚かな母親だったと、涙を流されていました。母親としての絶対の愛情を子どもたちに注いでいなかった、ほんとうに申しわけなかったとも、おっしゃっていました」
「よかったわ。ミキちゃんのことをとおして、中村さんの心が開いたのね。『如来寿量品』に六或示現が示されているように、仏さまはさまざまな方便を用いて私たちを救おうとはたらいてくださっているの。避けて通りたいような出来事のなかにも、仏さまの慈悲がたくさんつまっている。中村さんも、ミキちゃんの一件をとおして、いままで見えなかった大事なものを、仏さまから教えてもらったのね」
「私たちは一つ一つの現象のなかから、仏さまの慈悲をしっかりとつかみとり、味わっていくことが大切なんですね」

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