『経典』に学ぶ

妙法蓮華経 普賢菩薩勧発品第二十八

経文

(ほとけ)()(げん)()(さつ)()げたまわく、()(ぜん)(なん)()(ぜん)(にょ)(にん)()(ほう)(じょう)(じゅ)せば(にょ)(らい)(めつ)()(おい)(まさ)()()()(きょう)()べし。(いち)には(しょ)(ぶつ)()(ねん)せらるることを()()には(もろもろ)(とく)(ほん)()え、(さん)には(しょう)(じょう)(じゅ)()り、()には(いっ)(さい)(しゅ)(じょう)(すく)うの(こころ)(おこ)せるなり。(ぜん)(なん)()(ぜん)(にょ)(にん)(かく)(ごと)()(ほう)(じょう)(じゅ)せば、(にょ)(らい)(めつ)()(おい)(かなら)()(きょう)()ん。()(とき)()(げん)()(さつ)(ほとけ)(もう)して(もう)さく、()(そん)(のち)()(ひゃく)(さい)(じょく)(あく)()(なか)(おい)て、()()(きょう)(でん)(じゅ)()することあらん(もの)は、(われ)(まさ)(しゅ)()して()(すい)(げん)(のぞ)き、(あん)(のん)なることを()せしめ、(うかが)(もと)むるに()便(たより)()(もの)なからしむべし。

現代語訳

(ほとけ)さまは()(げん)()(さつ)()かってお(こた)えになります。
「もし(しん)(こう)(ぶか)(だん)(じょ)が、(つぎ)(よっ)つのことがらを(じょう)(じゅ)すれば、(にょ)(らい)(めつ)()においてもこの(おし)えをつかみ、()()(きょう)(しん)()(どく)()ることができるでしょう。その(だい)(いち)とは、(しょ)(ぶつ)(まも)られ、(おも)われているのだということを(かく)(しん)することです。(だい)()には、いつも()(おこ)ないをすることを(こころ)がけることです。(だい)(さん)は、いつも(ただ)しい(おし)えを(じっ)(せん)する(ひと)びとの(しゅう)(だん)(なか)()(はい)っていることです。(だい)()は、いつも(しゃ)(かい)(ぜん)(たい)をよくすること、(ひと)のためにつくすことをめざすことです。もし、(しん)(こう)(ぶか)(だん)(じょ)がこの(よっ)つのことがらを(まん)(ぞく)(おこ)なえば、(にょ)(らい)がこの()()ったのちにおいても、(かなら)()()(きょう)()(ぶん)のものにすることができるでしょう」
そのとき()(げん)()(さつ)は、(ほとけ)さまに(もう)()げました。
()(そん)、ありがとうございます。よくわかりました。(わたし)はお(ちか)いいたします。(のち)()(ひゃく)(さい)()()(ちゅう)(しん)(ひと)(おお)くなり、()(ぶん)()(えき)のことばかり(しゅ)(ちょう)するため、(だい)(しょう)(あらそ)いが()えない(まっ)(ぽう)())の(にご)りきった(わる)(しゃ)(かい)のなかで、この(おし)えを(じゅ)()する(もの)がおりましたならば、その(もの)をしっかり(しゅ)()いたしましょう。もろもろの(さわ)りを()(のぞ)き、いつも(あん)(のん)(ほう)(おこ)なえるようにいたしましょう。(なに)かの(すき)をねらって()りつき、(しゅ)(ぎょう)(さまた)げたり、(はく)(がい)(くわ)えようとする(もの)たちに、その()がかりを(あた)えないように(まも)ってやりましょう」

意味と受け止め方

(わたし)たちへの(はげ)まし

この(ほん)は、()()(きょう)(せっ)(ぽう)()めくくる(だい)()(ほん)です。『(きょう)(でん)』に(ばっ)(すい)されている(きょう)(もん)は、(しゃく)(そん)()(げん)()(さつ)(しつ)(もん)(こた)える()(めん)から(はじ)まっています。その(しつ)(もん)は、「どうか(わたし)どものためにも、(おし)えをお()きください。(ほとけ)さまがこの()をお()りになりましたのち、(しん)(こう)(ぶか)(ひと)びとは、どうしたらこの()()(きょう)(おし)えの(しん)()(どく)()ることができましょうか」というものです。
()(げん)()(さつ)は、(わたし)たちに「(じっ)(せん)」の()(ほん)(しめ)してくださる()(さつ)で、(つぎ)(はたら)きを()っています。
(みずか)()()(きょう)(おし)えを(じっ)(せん)する」
()()(きょう)(おし)えをあらゆる(はく)(がい)から(しゅ)()する」
()()(きょう)(おし)えを(じっ)(せん)する(もの)(みずか)(まね)()(どく)と、それを(はく)(がい)する(もの)(みずか)(まね)(ばつ)(しょう)(めい)する」
()()(きょう)(おし)えに(そむ)いた(もの)も、(さん)()することによって(つみ)から(かい)(ほう)されることを(しょう)(めい)する」
これらの(はたら)きを(そな)えた()(げん)()(さつ)()()(きょう)(さい)()(とう)(じょう)することに、(ふか)()()()められています。それはこの(ほん)が、(しゃく)(そん)(にゅう)(めつ)()()()()(きょう)(ぎょう)(じゃ)に「みなさん、(なに)(しん)(ぱい)することはありません。どんな(こん)(なん)があろうとも、()(げん)()(さつ)(かなら)ずあなたがたを(しゅ)()してくれます。だから(あん)(しん)して(しゅ)(ぎょう)しなさい」という(おお)きな(はげ)まし((かん)(ぼつ))を(あた)える(ない)(よう)になっているからです。この(しゃく)(そん)(わたし)たちに(たい)する(はげ)ましの(せっ)(ぽう)(ちゅう)(しん)()(ほう)(じょう)(じゅ)(おし)えです。

(しん)(こう)(よう)(てん)

()(ほう)(じょう)(じゅ)(おし)えは、()()(きょう)(しん)()(どく)()るための(よう)(てん)であり、(しゃく)(そん)()()(きょう)(さい)()(せっ)(ぽう)で「いままでいろいろと(むずか)しい(おし)えを()いてきたけれども、それを(じっ)(こう)するには、この(よっ)つを(こころ)がければいいんだよ」と、(わたし)たちに(へい)()(しめ)してくださったものです。
その(いち)(ばん)()()げられているのが、「(わたし)たちは(しょ)(ぶつ)(まも)られ、(たい)(せつ)(おも)われているのだ」という(ぜっ)(たい)(しん)(ねん)()つことです。
(ほとけ)さまと(わたし)たちは(おや)()(かん)(けい)です。(ほとけ)さまは、いのちの(おお)(もと)(おや)として、(わたし)たち一人(ひとり)ひとりに(ぜっ)(たい)(あい)(じょう)(そそ)いでくださっています。(にん)(げん)()まれてきた(さい)(だい)(もく)(てき)である「()()(せい)(ちょう)(こう)(じょう)」と「()(しゃ)への(こう)(けん)」が(すす)むように、いつも()(まも)り、(てき)(せつ)(まな)びの()(えん)(あた)えてくださっているのです。この(しん)(じつ)(こころ)(そこ)から(じっ)(かん)することが、()()(きょう)をほんとうに()(ぶん)のものとするための(こん)(ぽん)(じょう)(けん)です。
しかし、さまざまなかたちで(あた)えられる(ほとけ)さまの()()()(えん)を、(わたし)たちが(まな)びの()(えん)として()(なお)()けとめられるようになるには、(にょ)(らい)寿(じゅ)(りょう)(ほん)(まな)んだように、(ほとけ)さまの()()(かん)じとるアンテナを(みが)いていくことが(たい)(せつ)になってきます。
()()(せい)(かつ)のなかで、まずはうれしいとか、よかったと(おも)える()()(ごと)()(のが)さずにしっかりと(あじ)わうことから(はじ)めます。こうした(あじ)わいを()(かさ)ねていくと、アンテナは(かん)()()していき、やがては()(ぶん)()()(ごう)(おも)える()()(ごと)(ふく)めたすべての(げん)(しょう)(たい)して、《これも(ほとけ)さまの()()(あら)われだ。ありがたい》と(げん)()にチャレンジできるようになります。
このように、(ほとけ)さまの(ぜっ)(たい)(あい)(じょう)(つつ)まれて、(わたし)たちはお(たが)いさまに()かされて()きているんだという(しん)(じつ)(かく)(しん)することができれば、()(ほう)(じょう)(じゅ)()(ばん)()(しめ)されている、()(おこ)ないをしようという(こころ)()(ぜん)とわいてきます。
()(おこ)ないとは、(ほとけ)さまのみ(おし)えにそって(みずか)らを(りっ)しながら(せい)(かつ)することであり、(ひと)さまの(やく)()(おこ)ないをしていくことです。また、()(こころ)(おお)きく(そだ)てていくことも(ふく)まれます。ところが、いつまでもそうした()()ちを()(つづ)けることは(むずか)しいものです。
そこで、(さん)(ばん)()(しめ)されているように、()(おこ)ないをする(あつ)まりに(はい)ったり、()(おこ)ないをする(なか)()をふやすことが(ひつ)(よう)になってくるのです。
(なか)()がいれば、お(たが)いに(はげ)まし()ったり、(ささ)()うことができます。(どう)(しん)()(ひろ)がれば、(さい)()(しめ)されている()(じん)(きゅう)(さい)(しゃ)(かい)への(こう)(けん)も、より(おお)きな(えい)(きょう)(りょく)()って(てん)(かい)することができます。(しん)(こう)(めん)から()ても、()(ぶん)だけが(すく)われればそれでいいというのは、()(ぶん)(ほん)()(しん)(こう)です。(みや)(ざわ)(けん)()が「()(かい)がぜんたい(こう)(ふく)にならないうちは()(じん)(こう)(ふく)はあり()ない」と()っているように、(わたし)たちの(しゅう)()()(こう)(ひと)がいれば、()(ぶん)(しあわ)せだけを(よろこ)ぶことはできません。みんなとともに(すく)われることこそ(だい)(じょう)(せい)(しん)であり、(しん)()(どく)(じつ)(げん)なのです。
このように、()(ほう)(じょう)(じゅ)(しめ)されている(よっ)つの(よう)()は、(たが)いに(ふか)くかかわっています。しかし、いちばん(じゅう)(よう)なことは、(ほとけ)さまに()かされ、(まも)られ、(おも)われているという(しん)(じつ)への()()め・(かく)(しん)であることは()うまでもないでしょう。

事例から学ぶ

事例編(じれいへん)では、各品(かくほん)()められた(おし)えを、(わたし)たちが日々(ひび)生活(せいかつ)のなかで、どのように()かしていけばよいかを、具体的(ぐたいてき)事例(じれい)をとおして(かんが)えていきます。

鈴木さん一家を紹介します。

おばあちゃん・ミチコさん(75)…佼成会の青年部活動も経験している信仰二代目会員
アキオさん(45)…一家の大黒柱。ミチコさんの末息子
アキオさんの妻・夕カエさん(38)…婦人部リーダー。行動派お母さん
長女・ケイコさん(16)…やさしい心の持ち主の高校一年生。吹奏楽部
長男・ヒロシくん(9)…元気いっぱいの小学三年生

絶対の愛を感じ取る

今年1月から毎月1回、道場で行なわれてきた婦人部リーダー教育が、12回目を迎えたきょう、無事終了しました。
午前中は「四法成就」の研修、午後は修了式が行なわれ、毎回欠かさず参加してきたタカエさんは、すべて終わったという充実感を味わいながら、北支部の岸本ノリコさんとともに研修室から出てきました。
「いまから思うと、あっというまに12回の教育が終わったように感じますね」
テキストやノート、ご供養要具、お弁当箱などを詰め込んで、パンパンにふくれた手さげバッグを胸に抱えた岸本さんがタカエさんに言いました。
岸本さんは、五歳と三歳の男の子の母親です。研修のときは、夫の実家に子どもを預けてきます。その実家がタカエさんの家の近くなので、二人はいつも一緒に帰るのです。
「毎回、宿題の復習・予習プリントがたくさん出されたから、ちょっと辛いなあと感じたこともあったけど、何とか最後まで乗り切れてよかったわ」
「私は、根本仏教や法華経を学ばせていただくのは青年女子部のとき以来二度目なんですが、今回はとても新鮮に感じられました」
「それは、岸本さんの置かれている環境や学ぼうという姿勢が、以前とは違うからだと思うわ」
「そうかもしれませんね。たとえば午前中の四法成就の研修ですが、法華経の真の功徳を得るための一番目の要点として『私たちは諸仏に護られ、大切に念われていることに、絶対の信念を持つことが大事』と教えていただきましたよね」
「ええ。仏さまと私たちは親子の関係であり、仏さまは、いのちの大本の親として、私たち一人ひとりに無条件の愛情を注いでくださっているという真実に目覚め、心の底から確信することが重要なんだということね」
「はい。実際に母親となって、私は初めて子どもに絶対の愛情を注ぐ親の気持ちが理解できたんです。仏さまは、こうした思いで、私たちを見守り、よりよく成長できるようにと、折にふれて適切な学びの機会をくださっているんだと、実感としてとらえることができたんです」

心を育てる

「私たちは辛いことや悲しいことをたびたび経験するけど、それは仏さまが私たちを苦しめるために、そういう現象を与えているわけではないものね。私たちをよりよく成長・向上させてあげたい、心豊かで人さまの役に立てるような人間に育ってほしいと願って、さまざまな現象をくださっているのよね」
「ほんとうにそうですよね。研修が始まってまもないころは、子どもを夫の実家に迎えに行くたびに、義母から文句を言われたんです。『子どもたちがまだ箸を上手に使えないんで驚いた。どういうしつけをしているの』『服や靴下がこんなにほころびているのに、平気で着せている親がありますか』というのはまだ序の口のほうで・・・・・。
でも研修で学ばせていただいているうちに、義母は一人前の母親気取りになっている私に、子どもに対する目配りや、ふれあい方を真剣に教えてくださっているんだ。仏さまは義母をとおして、私を育ててくださっているんだと思えるようになったんです」
「目の前に起きていることを、仏さまの慈悲の表われだと、瞬時には思えないときもあるけれど、その慈悲を見逃さないで、あとからでも確実にキャッチして、味わっていくことが大切なのね。その味わいのなかに、仏さまに護られているという安らぎを感じられるんだわ」
「はい。それともう一つ、きょうは新しい発見があったんです。四法成就の二番目の要点に『いつも善い行ないを心がける』が挙げられていますが、私はいままで経典にある『諸の徳本を植え』とは、「単に善いことを実践することだと思っていたんです。でも、善い行ないとは、善い心を育てることでもあると教えていただいて、なるほどと思ったんですよ」
「岸本さん、私も同じことを感じたの。講師さんが言っていたように、本を読もうと思うから本を手にするし、水を飲みたいから水の入ったコップを口にもっていくのよね。このように人間は、まず心に思ったことを行動に移す。だから、善い行ないを実践するには、善い心を育てていくことが大事ということね」
「ええ。その善い心というのが『慈=人を幸せにしてあげたいと思う心』『悲=人の苦しみを取り除いてあげたいと思う心』『喜=人の喜びを一緒に喜んであげられる心』『捨=どんなことに出会ってもありのままに受けとめて、怒ったり驚いたり過剰に反応しない安らかな心。すなわち、人に施した恩も、人から受けた害も忘れ、一切の報いを捨て去る心』の四無量心のことだったんですね」
「私は以前、四無量心とは仏さまと同じいのちのはたらきである仏性のことだと学んだことがあるの。仏性を育てていくためにも、四法成就の三番目である『同信の仲間に入る』ことが必要であり、仏性を育てていくほど、四番目の『すべての人の幸せを願って行動すること』が自然とできるようになっていくのね」
「心のあり方ということが、最も大事なんですね」

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