『経典』に学ぶ
仏説観普賢菩薩行法経
経文
若し眼根の悪あって。業障の眼不浄ならば。但当に大乗を誦し。第一義を思念すべし。是れを眼を懺悔して。諸の不善業を尽くすと名く。耳根は乱声を聞いて。和合の義を壊乱す。是れに由って狂心を起すこと。猶お癡なる猿猴の如し。但当に大乗を誦し。法の空無相を観ずべし。永く一切の悪を尽くして。天耳をもって十方を聞かん。鼻根は諸香に著して。染に随って諸の触を起す。此の如き狂惑の鼻。染に随って諸塵を生ず。若し大乗経を誦し。法の如実際を観ぜば。永く諸の悪業を離れて。後世に復生ぜじ。舌根は五種の。悪口の不善業を起す。若し自ら調順せんと欲せば。勤めて慈悲を修し。法の真寂の義を思うて。諸の分別の想なかるべし。心根は猿猴の如くにして。暫くも停まる時あることなし。若し折伏せんと欲せば。当に勤めて大乗を誦し。仏の大覚身。力・無畏の所成を念じたてまつるべし。身は為れ機関の主。塵の風に随って転ずるが如し。六賊中に遊戯して。自在にして罣礙なし。若し此の悪を滅して。永く諸の塵労を離れ。常に涅槃の城に処し。安楽にして心憺怕ならんと欲せば。当に大乗経を誦して。諸の菩薩の母を念ずべし。無量の勝方便は。実相を思うに従って得。此の如き等の六法を。名けて六情根とす。一切の業障海は。皆妄想より生ず。若し懺悔せんと欲せば。端坐して実相を思え。衆罪は霜露の如し。慧日能く消除す。是の故に至心に。六情根を懺悔すべし。
現代語訳
「もし、自分のものの見方が誤っていたと気づいたならば、一心に大乗の教えを読誦し、諸法実相(第一義空)ということに心をそわせることが大切です。これが眼の懺悔であり、一切のよくない行ないを消滅し尽くす大本の力です。
また、迷いがあるがゆえに、ものごとを正しく聞くことができないと、人間関係に不和を生じさせる原因となります。誤った聞き方をすれば、誤った考えを起こし、あたかも本能のみによって動く猿のように、あられもないことをしてしまうのです。
ですから、一心に大乗の教えを読誦し、すべてのものごとは「空」であり、固定した相はないことをしっかりと観じ、すべての人間が持つ仏性を見つめることを心がけなければなりません。そうすれば、永久に一切の悪を寄せつけず、すべてのものごとが正しく耳に入ってくるようになるでしょう。
感覚の快さのみに執着すれば、その妄念によってさまざまなまちがった感情を起こし、その迷いのためにいろいろな煩悩の塵が生じます。そのときに大乗経を読誦し諸法の実相を観じるならば、永遠にもろもろの悪業から離れることができ、再び同じことをくり返すことはないでしょう。
舌は、悪口や荒々しい言葉など、口の悪をつくるもとです。正しい言葉で語りたいと思うならば、常に慈悲の行ないをし、人びとの仏性というものに思いをこらし、自己中心の心から分けへだてをする考え方を捨ててしまわなければなりません。
心というものは、枝から枝へ飛び移る猿のように、しばらくもじっとしていません。
もしその悪へ傾いた心をおさえ、正しい道に引き入れようと思うならば、つとめて大乗の教えを読誦し、天地の真理を悟った身であり(大覚身)、万物を救う力を具え(力)、何ものをも畏れはばかることなく法を説く(無畏)、仏の業を心にありありと思い浮かべることが大切です。
人間の心身の働きは、まるで塵が風に飛ばされるように、周囲の事情によっていかようにも変化します。そのなかには眼・耳・鼻・舌・身・意(心)の六根のわがままな欲望が暴れまわっています。この誤った欲望を滅して常に涅槃の境地にいたいと思うならば、大乗経を読誦して仏の智慧と慈悲(菩薩の母)を念じなければなりません。
人間を向上させる勝れた方法は、このように大乗の教えによって、諸法の実相を思うことから生まれてくるのです。いま説いた六つの教えもその例であって、これらは人間の心の働きを正しくして実相を見きわめるようになる方法にほかならないのです。
すなわち、一切の行ないの過ち(業障)はみな、ありもしないことをあると思う妄想から起こるのです。もし自分の業障を懺悔しようと思うならば、静かに坐って諸法の実相を深く想い念じることです。もろもろの罪というものは、ちょうど霜や露のような仮のあらわれに過ぎず、実相を見る智慧の光に会えば、たちまち消滅してしまうのです。ですから、ひたすら実相を思うことによって、六情根を洗い清めなければなりません」
〈鼻根は諸香に著して〉──人間のすべての感覚を鼻根に代表させています。したがってこの一節は、嗅覚が香を貪るように、感覚の快さのみを追求することを意味しています。
〈染に随って〉──「染」とは、染色などが布にしみ込んで離れないように、ものごとに執着する妄念を意味します。
〈触を起す〉──「触」とは感情のことです。
〈法の真寂の義〉──「真」は究極の真実、「寂」は不動の真理という意味ですから、第一義空(諸法実相)ということです。第一義空を人間にあてはめると、すべての人は「仏性を自らのいのちの本質とする」という点において平等であるということになります。
〈折伏〉──悪い道にそれてしまった心を正しい道へ引き入れることです。
〈六賊〉──眼・耳・鼻・舌・身・意(心)の六情根(略して六根)が、それぞれ煩悩のおもむくままに働いていることを意味しています。
〈菩薩の母〉──菩薩行の原動力は智慧と慈悲です。そこで、仏さまと同じような智慧と慈悲を得たいと念ずることが、菩薩を生み出す母であるというのです。
意味と受け止め方
成長するための根本行
この経は、釈尊が霊鷲山で法華経をすべて説き終えられたのちに、大林精舎という場所で説かれたものです。法華経を生活に生かすために最も大切な懺悔について徹底して説かれているため、別名懺悔経とも呼ばれています。
私たちがふれる出来事は、すべて自己の成長・向上のために必要あって現われますが、その際、不都合な出来事にどう取り組むかが、自己の成長を加速するか減速するかの分かれ道となります。
たとえば、幾多の苦労を乗り越えた人は、他人の悲しみ、辛さ、喜びなどの思いを、わがことのようにわかる感受性が磨かれています。そして、同悲同苦の菩薩行を自然と実践しています。
しかし、その一方で、苦労が心の垢となり、思いやりの心を失ってしまう人もいます。自分を成長させるチャンスであるはずの苦労から学びそこね、試練を乗り越えそこなったときにそうなるのです。
不都合な出来事を人生のマイナスにせず、またとない学びの機縁とするための根本行、それが懺悔です。
懺悔というと、暗いイメージを連想してしまいがちですが、本来はまったく違います。たとえばゴルフで、打ったボールがいつも意思に反して曲がってしまう人は、スイングを見直して悪かった場所を発見することが大事です。フォームを修正していくことによってボールがまっすぐに飛ぶようになれば、もっとゴルフが楽しくなるでしょう。
ですから、懺悔は、人生を楽しく、前向きに生きていくために欠かせない大事な行なのです。
懺悔には、大きく分けて二通りあります。一つは、肉親や友人、同信の人たちに、自分の身の過ち、心の過ちを打ち明けることです。
初期の仏教教団では、比丘(出家僧)たちは半月ごとに行なわれる「布薩」という集会において、懺悔することのある比丘が大勢の前で胸の内をさらけ出し、釈尊や長老たちから指導を受けました。佼成会の法座でも同じことが行なわれています。
もう一つは、いのちの大本の親である本仏と向かい合い、読経や唱題に反省の真心を込める懺悔です。
本仏は、私たち一人ひとりの仏性がどのような状態にあるか、すべてを見てくださっています。それはあたかも、わが子の一挙手一投足に目を細め、あるいはハラハラしながら見つめ続ける親の姿そのものです。
その親の胸にわれを忘れて飛び込み、自らの罪の告白を聞いてもらう──それだけでも心は洗われ、安らぎが満ちてきます。これは、信仰者ならではの尊くありがたい懺悔だといえるでしょう。
最高の懺悔
しかし、そうした懺悔の奥にまだ、心を根本的に浄める最高の懺悔が存在します。それは、妄想・執着を捨て、諸法の実相(すべての存在のありのままの相)を深く想い念じることです。
わかりやすく言うと、第一に「自分のいのちの本質は仏性であり、永遠のいのちである本仏と一体である」という実相を実感するまで想い念じることです。そして、「この肉体が自分である」という妄想から離れることです。そうすれば、「個の肉体の死」という生物としての最も本能的な恐怖・苦悩から解放されると同時に、六根の快楽を追い求めて逆に苦しむ業障からも自由になれるのです。
第二に「目の前の現象はこれからも変わらないだろう」という妄想や「変わってほしくない」という執着を捨て、「すべての存在は、お互いに関係しつつ変化し、変化しつつ関係し合い、宇宙全体が無限に変化・流動しながら大きな調和を保っている」との実相を、これも実感を伴うまで深く想い念じることです。
そうすれば、予期せぬ大きな変化でパニックにおちいったり、苦の現象を固定的に見て絶望することもなくなり、積極的にチャレンジする勇気がこんこんとわいてきます。また、嫌いな相手の性格を固定的にとらえたり、縁起の法則を無視した自己中心的な考えや行動によって苦を増大する業障も露と消えて、いきいきとした人生を歩むことができるのです。
ときには静かに座り、あるいは読経や唱題をとおして実相を想い念じれば、真理の光が心の奥底まで差し込んできます。と同時に、日々のご縁のなかで意識的に実相にそった見方をし、言葉を使い、行動することも実相を想い念じる行そのものです。
端座して実相を思い、実相を思いながら生活する──この二つは仏道修行という車の両輪であり、これらをともに行じることで、心は根本的に浄まっていきます。
それに伴い、不都合と思える出来事からも大きな学びを得られるようになっていくのです。
事例から学ぶ
事例編では、各品に込められた教えを、私たちが日々の生活のなかで、どのように生かしていけばよいかを、具体的な事例をとおして考えていきます。
鈴木さん一家を紹介します。
おばあちゃん・ミチコさん(75)…佼成会の青年部活動も経験している信仰二代目会員
アキオさん(45)…一家の大黒柱。ミチコさんの末息子
アキオさんの妻・夕カエさん(38)…婦人部リーダー。行動派お母さん
長女・ケイコさん(16)…やさしい心の持ち主の高校二年生。吹奏楽部
長男・ヒロシくん(9)…元気いっぱいの小学三年生
心配と怒り
時計の針は、夜の10時15分を指しています。しかし、高校二年生の長女・ケイコさんはまだ帰宅していません。
学校の帰りに、ケイコさんが隣町にある市立病院まで行くことは、母親のタカエさんも承知していました。中二のときに担任だった先生が出産したので、中学時代の友達と待ち合わせて、お祝いに行くためです。でも、市立病院までは電車で片道三十分ほどしかかかりません。
≪どうしたんだろう。事故か事件にでも巻き込まれたんじゃないかしら……≫
ケイコさんの帰宅が遅いのは、よからぬ出来事に遭遇したからに違いないと、タカエさんは次から次へと悪い状況ばかりを想像して、落ちつきません。同時に≪こんな時間になっているというのに、電話の一本もかけられないのかしら。家族が心配しているなんて、あの子は考えもしないんだから≫と、怒りがメラメラとわき起こってくるのでした。
10時半になって、それまで自室にいたおばあちゃんのミチコさんが居間に来ました。
「タカエさん、私は先に休ませてもらいます。ケイコちゃんが帰って来たら、怒らずに話を聞いてあげてくださいね」
タカエさんは「はい」とこたえたものの≪おばあちゃんにまで、こんなに心配せて≫と、怒りをさらに増大させるのでした。
それからすぐのことです。ガチャンと玄関でカギが開く音がしたあと、鼻のあたりまでマフラーを巻いたケイコさんが「ただいまー」と言いながら、コタツにさっと入ってきました。
タカエさんは、ケイコさんの顔を見るなり「いま何時だと思っているのよ。お父さんが出張で留守だからといい気になって。どこで何をしていたの!」と、思わず怒鳴ってしまいました。
ほんとうは声を荒らげずに、冷静に娘と話をしようと思っていたのですが、ケイコさんの悪びれた色もない態度に、ついカッとなってしまったのです。
ケイコさんにしてみれば、10時半という時間は少々遅いけれど、怒鳴られるほどの時間ではないという感覚がありました。しかも、久しぶりに会った友達のことについて、母親に聞いてもらいたいことがあったのですが、話のきっかけを失ってしまい、ショックでした。
「何よ。怒鳴ることはないじゃない!」
ケイコさんは立ち上がると、自分の部屋に駆け込み、ドアのカギを閉めてしまいました。そのあと、タカエさんが何を言っても返事はありませんでした。
真実を見る
翌日は土曜日で、ケイコさんは学校が休みです。タカエさんが教会道場に出かけたのを確認してから、やっと部屋から出てきました。
「ケイコちゃん、おはよう」
「あっ、おばあちゃん。おはよう……。きのうは遅くなって、ごめんなさい」
ケイコさんは、申しわけなさそうに言いましたが、ミチコさんは笑顔でした。
「さあ、おみそ汁を温めなおしてあげるから、顔を洗っておいで」
ケイコさんは、おばあちゃんが支度してくれた朝ごはんを食べながら、きのうの出来事を話しました。
久しぶりに会った友達の一人から、みんなと別れたあとで相談にのってほしいと言われたこと。両親が離婚することになって、どうしたらいいのかわからないと言う彼女の気持ちを、駅前のファミリーレストランでずっと聞いてあげていたこと。彼女の悩みが深刻なために、ケイコさんが「うちのお母さんだったら、きっといいアドバイスができるから、このことを話してもいい?」と聞くと、うんと言ってくれたこと。
話を聞いているうちに、あっというまに十時を過ぎてしまったこと……。
涙をこぼすケイコさんの手を、ミチコさんはやさしく握ってあげました。
一方、道場ではタカエさんが、池田支部長さんに昨日のことを聞いてもらっているところでした。
「親としては心配よね。私にも同じような経験があるわ。子どもが無事に帰ってきたら、よかったと素直に喜べばいいのに、なぜか怒ってしまうのよね」
「そうなんです。私もついカッとして」
「当時の支部長さんから、私はこう教えていただいたの。『なぜ怒るのでしょうか。それは、ものごとを悪い方へと自分勝手に想像し、妄想を大きくふくらませているからです。妄想はものごとの真実、つまり、なぜ、こうなっているのかという、ほんとうの姿を見えなくしてしまうために、頭のなかは混乱し心が苦しくなって、ついには怒りを生じさせるのです。仏説観普賢菩薩行法経に≪一切の業障海は。皆妄想より生ず≫とあるのは、そういうことを教えてくださっているんですよ』って。子どもの帰宅が遅いと、親は自分勝手に余計な妄想を大きくふくらませて心配を怒りの心でごまかしてしまうんだわ。ねえ鈴木さん。なぜケイコちゃんが遅くなったか、まだ聞いてあげていないんでしょう?早く帰って、聞いてあげなさい」
タカエさんは、はっとして立ち上がるときのう怒鳴ったことをケイコさんにまず謝ろうと心に誓い、道場をあとにしました。