『経典』に学ぶ

仏説観普賢菩薩行法経

経文

()(げん)(こん)(あく)あって。(ごう)(しょう)(まなこ)()(じょう)ならば。(ただ)(まさ)(だい)(じょう)(じゅ)し。(だい)(いち)()()(ねん)すべし。()れを(まなこ)(さん)()して。(もろもろ)()(ぜん)(ごう)()くすと(なづ)く。()(こん)(らん)(しょう)()いて。()(ごう)()()(らん)す。()れに()って(おう)(しん)(おこ)すこと。()(おろか)なる(おん)(こう)(ごと)し。(ただ)(まさ)(だい)(じょう)(じゅ)し。(ほう)(くう)()(そう)(かん)ずべし。(なが)(いっ)(さい)(あく)()くして。(てん)()をもって(じっ)(ぽう)()かん。()(こん)(しょ)(こう)(じゃく)して。(ぜん)(したが)って(もろもろ)(そく)(おこ)す。(かく)(ごと)(おう)(わく)(はな)(ぜん)(したが)って(しょ)(じん)(しょう)ず。()(だい)(じょう)(きょう)(じゅ)し。(ほう)(にょ)(じっ)(さい)(かん)ぜば。(なが)(もろもろ)(あく)(ごう)(はな)れて。()()(また)(しょう)ぜじ。(ぜっ)(こん)()(しゅ)の。(あっ)()()(ぜん)(ごう)(おこ)す。()(みずか)調(じょう)(じゅん)せんと(ほっ)せば。(つと)めて()()(しゅ)し。(ほう)(しん)(じゃく)()(おも)うて。(もろもろ)(ふん)(べつ)(おもい)なかるべし。(しん)(こん)(おん)(こう)(ごと)くにして。(しばら)くも(とど)まる(とき)あることなし。()(しゃく)(ぶく)せんと(ほっ)せば。(まさ)(つと)めて(だい)(じょう)(じゅ)し。(ほとけ)(だい)(かく)(しん)(りき)()()(しょ)(じょう)(ねん)じたてまつるべし。()()()(かん)(しゅ)(ちり)(かぜ)(したが)って(てん)ずるが(ごと)し。(ろく)(ぞく)(なか)()()して。()(ざい)にして(さわ)()なし。()()(あく)(めっ)して。(なが)(もろもろ)(じん)(ろう)(はな)れ。(つね)()(はん)(しろ)(しょ)し。(あん)(らく)にして(こころ)(たん)(ぱく)ならんと(ほっ)せば。(まさ)(だい)(じょう)(きょう)(じゅ)して。(もろもろ)()(さつ)(はは)(ねん)ずべし。()(りょう)(しょう)(ほう)便(べん)は。(じっ)(そう)(おも)うに()って()(かく)(ごと)()(ろっ)(ぽう)を。(なづ)けて(ろく)(じょう)(こん)とす。(いっ)(さい)(ごう)(しょう)(かい)は。(みな)(もう)(ぞう)より(しょう)ず。()(さん)()せんと(ほっ)せば。(たん)()して(じっ)(そう)(おも)え。(しゅ)(ざい)(そう)()(ごと)し。()(にち)()(しょう)(じょ)す。()(ゆえ)()(しん)に。(ろく)(じょう)(こん)(さん)()すべし。

現代語訳

「もし、()(ぶん)のものの()(かた)(あやま)っていたと()づいたならば、(いっ)(しん)(だい)(じょう)(おし)えを(どく)(じゅ)し、(しょ)(ほう)(じっ)(そう)(だい)(いち)()(くう))ということに(こころ)をそわせることが(たい)(せつ)です。これが(まなこ)(さん)()であり、(いっ)(さい)のよくない(おこ)ないを(しょう)(めつ)()くす(おお)(もと)(ちから)です。
また、(まよ)いがあるがゆえに、ものごとを(ただ)しく()くことができないと、(にん)(げん)(かん)(けい)()()(しょう)じさせる(げん)(いん)となります。(あやま)った()(かた)をすれば、(あやま)った(かんが)えを()こし、あたかも(ほん)(のう)のみによって(うご)(さる)のように、あられもないことをしてしまうのです。
ですから、(いっ)(しん)(だい)(じょう)(おし)えを(どく)(じゅ)し、すべてのものごとは「(くう)」であり、()(てい)した(すがた)はないことをしっかりと(かん)じ、すべての(にん)(げん)()(ぶっ)(しょう)()つめることを(こころ)がけなければなりません。そうすれば、(えい)(きゅう)(いっ)(さい)(あく)()せつけず、すべてのものごとが(ただ)しく(みみ)(はい)ってくるようになるでしょう。
(かん)(かく)(こころよ)さのみに(しゅう)(ちゃく)すれば、その(もう)(ねん)によってさまざまなまちがった(かん)(じょう)()こし、その(まよ)いのためにいろいろな(ぼん)(のう)(ちり)が生じます。そのときに(だい)(じょう)(きょう)(どく)(じゅ)(しょ)(ほう)(じっ)(そう)(かん)じるならば、(えい)(えん)にもろもろの(あく)(ごう)から(はな)れることができ、(ふたた)(おな)じことをくり(かえ)すことはないでしょう。
(した)は、(わる)(くち)(あら)(あら)しい(こと)()など、(くち)(あく)をつくるもとです。(ただ)しい(こと)()(かた)りたいと(おも)うならば、(つね)()()(おこ)ないをし、(ひと)びとの(ぶっ)(しょう)というものに(おも)いをこらし、()()(ちゅう)(しん)(こころ)から()けへだてをする(かんが)(かた)()ててしまわなければなりません。
(こころ)というものは、(えだ)から(えだ)()(うつ)(さる)のように、しばらくもじっとしていません。
もしその(あく)(かたむ)いた(こころ)をおさえ、(ただ)しい(みち)()()れようと(おも)うならば、つとめて(だい)(じょう)(おし)えを(どく)(じゅ)し、天地(てんち)(しん)()(さと)った()であり((だい)(かく)(しん))、(ばん)(ぶつ)(すく)(ちから)(そな)え((りき))、(なに)ものをも(おそ)れはばかることなく(ほう)()く(()())、(ほとけ)(わざ)(こころ)にありありと(おも)()かべることが(たい)(せつ)です。
(にん)(げん)(しん)(しん)(はたら)きは、まるで(ちり)(かぜ)()ばされるように、(しゅう)()()(じょう)によっていかようにも(へん)()します。そのなかには(げん)()()(ぜつ)(しん)()(こころ))の(ろっ)(こん)のわがままな(よく)(ぼう)(あば)れまわっています。この(あやま)った(よく)(ぼう)(めっ)して(つね)()(はん)(きょう)()にいたいと(おも)うならば、(だい)(じょう)(きょう)(どく)(じゅ)して(ほとけ)()()()()()(さつ)(はは))を(ねん)じなければなりません。
(にん)(げん)(こう)(じょう)させる(すぐ)れた(ほう)(ほう)は、このように(だい)(じょう)(おし)えによって、(しょ)(ほう)(じっ)(そう)(おも)うことから()まれてくるのです。いま()いた(むっ)つの(おし)えもその(れい)であって、これらは(にん)(げん)(こころ)(はたら)きを(ただ)しくして(じっ)(そう)()きわめるようになる(ほう)(ほう)にほかならないのです。
すなわち、(いっ)(さい)(おこ)ないの(あやま)ち((ごう)(しょう))はみな、ありもしないことをあると(おも)(もう)(そう)から()こるのです。もし()(ぶん)(ごう)(しょう)(さん)()しようと(おも)うならば、(しず)かに(すわ)って(しょ)(ほう)(じっ)(そう)(ふか)(おも)(ねん)じることです。もろもろの(つみ)というものは、ちょうど(しも)(つゆ)のような(かり)のあらわれに()ぎず、(じっ)(そう)()()()(ひかり)()えば、たちまち(しょう)(めつ)してしまうのです。ですから、ひたすら(じっ)(そう)(おも)うことによって、(ろく)(じょう)(こん)(あら)(きよ)めなければなりません」
()(こん)(しょ)(こう)(じゃく)して〉──(にん)(げん)のすべての(かん)(かく)()(こん)(だい)(ひょう)させています。したがってこの(いっ)(せつ)は、(きゅう)(かく)(こう)(むさぼ)るように、(かん)(かく)(こころよ)さのみを(つい)(きゅう)することを()()しています。
(ぜん)(したが)って〉──(ぜん)」とは、(せん)(しょく)などが(ぬの)にしみ()んで(はな)れないように、ものごとに(しゅう)(ちゃく)する(もう)(ねん)()()します。
(そく)(おこ)す〉──(そく)」とは(かん)(じょう)のことです。
(ほう)(しん)(じゃく)()──(しん)」は(きゅう)(きょく)(しん)(じつ)、「(じゃく)」は()(どう)(しん)()という()()ですから、(だい)(いち)()(くう)(しょ)(ほう)(じっ)(そう))ということです。(だい)(いち)()(くう)(にん)(げん)にあてはめると、すべての(ひと)は「(ぶっ)(しょう)(みずか)らのいのちの(ほん)(しつ)とする」という(てん)において(びょう)(どう)であるということになります。
(しゃく)(ぶく)──(わる)(みち)にそれてしまった(こころ)(ただ)しい(みち)()()れることです。
(ろく)(ぞく)──(げん)()()(ぜつ)(しん)()(こころ))の(ろく)(じょう)(こん)(りゃく)して(ろっ)(こん))が、それぞれ(ぼん)(のう)のおもむくままに(はたら)いていることを()()しています。
()(さつ)(はは)──()(さつ)(ぎょう)(げん)(どう)(りょく)()()()()です。そこで、(ほとけ)さまと(おな)じような()()()()()たいと(ねん)ずることが、()(さつ)()()(はは)であるというのです。

意味と受け止め方

(せい)(ちょう)するための(こん)(ぽん)(ぎょう)

この(きょう)は、(しゃく)(そん)(りょう)(じゅ)(せん)()()(きょう)をすべて()()えられたのちに、(だい)(りん)(しょう)(じゃ)という()(しょ)()かれたものです。()()(きょう)(せい)(かつ)()かすために(もっと)大切(たいせつ)(さん)()について(てっ)(てい)して()かれているため、(べつ)(めい)(さん)()(きょう)とも()ばれています。
(わたし)たちがふれる()()(ごと)は、すべて()()(せい)(ちょう)(こう)(じょう)のために(ひつ)(よう)あって(あら)われますが、その(さい)()()(ごう)()()(ごと)にどう()()むかが、()()(せい)(ちょう)()(そく)するか(げん)(そく)するかの()かれ(みち)となります。
たとえば、(いく)()()(ろう)()()えた人は、()(にん)(かな)しみ、(つら)さ、(よろこ)びなどの(おも)いを、わがことのようにわかる(かん)(じゅ)(せい)(みが)かれています。そして、(どう)()(どう)()()(さつ)(ぎょう)()(ぜん)(じっ)(せん)しています。
しかし、その(いっ)(ぽう)で、()(ろう)(こころ)(あか)となり、(おも)いやりの(こころ)(うしな)ってしまう(ひと)もいます。()(ぶん)(せい)(ちょう)させるチャンスであるはずの()(ろう)から(まな)びそこね、()(れん)()()えそこなったときにそうなるのです。
()()(ごう)()()(ごと)(じん)(せい)のマイナスにせず、またとない(まな)びの()(えん)とするための(こん)(ぽん)(ぎょう)、それが(さん)()です。
(さん)()というと、(くら)いイメージを(れん)(そう)してしまいがちですが、(ほん)(らい)はまったく(ちが)います。たとえばゴルフで、()ったボールがいつも()()(はん)して()がってしまう(ひと)は、スイングを()(なお)して(わる)かった()(しょ)(はっ)(けん)することが(だい)()です。フォームを(しゅう)(せい)していくことによってボールがまっすぐに()ぶようになれば、もっとゴルフが(たの)しくなるでしょう。
ですから、(さん)()は、(じん)(せい)(たの)しく、前向(まえむ)きに()きていくために()かせない(だい)()(ぎょう)なのです。
(さん)()には、(おお)きく()けて(ふた)(とお)りあります。(ひと)つは、(にく)(しん)(ゆう)(じん)(どう)(しん)(ひと)たちに、()(ぶん)()(あやま)ち、(こころ)(あやま)ちを()()けることです。
(しょ)()(ぶっ)(きょう)(きょう)(だん)では、()()(しゅっ)()(そう))たちは(はん)(つき)ごとに(おこ)なわれる「()(さつ)」という(しゅう)(かい)において、(さん)()することのある()()(おお)(ぜい)(まえ)(むね)(うち)をさらけ()し、(しゃく)(そん)(ちょう)(ろう)たちから()(どう)()けました。(こう)(せい)(かい)(ほう)()でも(おな)じことが(おこ)なわれています。
もう(ひと)つは、いのちの(おお)(もと)(おや)である(ほん)(ぶつ)()かい()い、()(きょう)(しょう)(だい)(はん)(せい)()(ごころ)()める(さん)()です。
(ほん)(ぶつ)は、(わたし)たち一人(ひとり)ひとりの(ぶっ)(しょう)がどのような(じょう)(たい)にあるか、すべてを()てくださっています。それはあたかも、わが()(いっ)(きょ)(しゅ)(いっ)(とう)(そく)()(ほそ)め、あるいはハラハラしながら()つめ(つづ)ける(おや)姿(すがた)そのものです。
その(おや)(むね)にわれを(わす)れて()()み、(みずか)らの(つみ)(こく)(はく)()いてもらう──それだけでも(こころ)(あら)われ、(やす)らぎが()ちてきます。これは、(しん)(こう)(しゃ)ならではの(とうと)くありがたい(さん)()だといえるでしょう。

(さい)(こう)(さん)()

しかし、そうした(さん)()(おく)にまだ、(こころ)(こん)(ぽん)(てき)(きよ)める(さい)(こう)(さん)()(そん)(ざい)します。それは、(もう)(ぞう)(しゅう)(じゃく)()て、(しょ)(ほう)(じっ)(そう)(すべての(そん)(ざい)のありのままの(すがた))を(ふか)(おも)(ねん)じることです。
わかりやすく()うと、(だい)(いち)に「()(ぶん)のいのちの(ほん)(しつ)(ぶっ)(しょう)であり、(えい)(えん)のいのちである(ほん)(ぶつ)(いっ)(たい)である」という(じっ)(そう)(じっ)(かん)するまで(おも)(ねん)じることです。そして、「この(にく)(たい)()(ぶん)である」という(もう)(そう)から(はな)れることです。そうすれば、「()肉体(にくたい)()」という(せい)(ぶつ)としての(もっと)(ほん)(のう)(てき)(きょう)()()(のう)から(かい)(ほう)されると(どう)()に、(ろっ)(こん)(かい)(らく)()(もと)めて(ぎゃく)(くる)しむ(ごう)(しょう)からも()(ゆう)になれるのです。
(だい)()に「()(まえ)(げん)(しょう)はこれからも()わらないだろう」という(もう)(そう)や「()わってほしくない」という(しゅう)(ちゃく)()て、「すべての(そん)(ざい)は、お(たが)いに(かん)(けい)しつつ(へん)()し、(へん)()しつつ(かん)(けい)()い、()(ちゅう)(ぜん)(たい)()(げん)(へん)()(りゅう)(どう)しながら(おお)きな調(ちょう)()(たも)っている」との(じっ)(そう)を、これも(じっ)(かん)(ともな)うまで(ふか)(おも)(ねん)じることです。
そうすれば、()()せぬ(おお)きな(へん)()でパニックにおちいったり、()(げん)(しょう)()(てい)(てき)()(ぜつ)(ぼう)することもなくなり、(せっ)(きょく)(てき)にチャレンジする(ゆう)()がこんこんとわいてきます。また、(きら)いな(あい)()(せい)(かく)()(てい)(てき)にとらえたり、(えん)()(ほう)(そく)()()した()()(ちゅう)(しん)(てき)(かんが)えや(こう)(どう)によって()(ぞう)(だい)する(ごう)(しょう)(つゆ)()えて、いきいきとした(じん)(せい)(あゆ)むことができるのです。
ときには(しず)かに(すわ)り、あるいは()(きょう)(しょう)(だい)をとおして(じっ)(そう)(おも)(ねん)じれば、(しん)()(ひかり)(こころ)(おく)(そこ)まで()()んできます。と(どう)()に、()()のご(えん)のなかで()(しき)(てき)(じっ)(そう)にそった()(かた)をし、(こと)()使(つか)い、(こう)(どう)することも(じっ)(そう)(おも)(ねん)じる(ぎょう)そのものです。
(たん)()して(じっ)(そう)(おも)い、(じっ)(そう)(おも)いながら(せい)(かつ)する──この(ふた)つは(ぶつ)(どう)(しゅ)(ぎょう)という(くるま)(りょう)(りん)であり、これらをともに(ぎょう)じることで、(こころ)(こん)(ぽん)(てき)(きよ)まっていきます。
それに(ともな)い、()()(ごう)(おも)える()()(ごと)からも(おお)きな(まな)びを()られるようになっていくのです。

事例から学ぶ

事例編(じれいへん)では、各品(かくほん)()められた(おし)えを、(わたし)たちが日々(ひび)生活(せいかつ)のなかで、どのように()かしていけばよいかを、具体的(ぐたいてき)事例(じれい)をとおして(かんが)えていきます。

鈴木さん一家を紹介します。

おばあちゃん・ミチコさん(75)…佼成会の青年部活動も経験している信仰二代目会員
アキオさん(45)…一家の大黒柱。ミチコさんの末息子
アキオさんの妻・夕カエさん(38)…婦人部リーダー。行動派お母さん
長女・ケイコさん(16)…やさしい心の持ち主の高校二年生。吹奏楽部
長男・ヒロシくん(9)…元気いっぱいの小学三年生

心配と怒り

時計の針は、夜の10時15分を指しています。しかし、高校二年生の長女・ケイコさんはまだ帰宅していません。
学校の帰りに、ケイコさんが隣町にある市立病院まで行くことは、母親のタカエさんも承知していました。中二のときに担任だった先生が出産したので、中学時代の友達と待ち合わせて、お祝いに行くためです。でも、市立病院までは電車で片道三十分ほどしかかかりません。
≪どうしたんだろう。事故か事件にでも巻き込まれたんじゃないかしら……≫
ケイコさんの帰宅が遅いのは、よからぬ出来事に遭遇したからに違いないと、タカエさんは次から次へと悪い状況ばかりを想像して、落ちつきません。同時に≪こんな時間になっているというのに、電話の一本もかけられないのかしら。家族が心配しているなんて、あの子は考えもしないんだから≫と、怒りがメラメラとわき起こってくるのでした。
10時半になって、それまで自室にいたおばあちゃんのミチコさんが居間に来ました。
「タカエさん、私は先に休ませてもらいます。ケイコちゃんが帰って来たら、怒らずに話を聞いてあげてくださいね」
タカエさんは「はい」とこたえたものの≪おばあちゃんにまで、こんなに心配せて≫と、怒りをさらに増大させるのでした。
それからすぐのことです。ガチャンと玄関でカギが開く音がしたあと、鼻のあたりまでマフラーを巻いたケイコさんが「ただいまー」と言いながら、コタツにさっと入ってきました。
タカエさんは、ケイコさんの顔を見るなり「いま何時だと思っているのよ。お父さんが出張で留守だからといい気になって。どこで何をしていたの!」と、思わず怒鳴ってしまいました。
ほんとうは声を荒らげずに、冷静に娘と話をしようと思っていたのですが、ケイコさんの悪びれた色もない態度に、ついカッとなってしまったのです。
ケイコさんにしてみれば、10時半という時間は少々遅いけれど、怒鳴られるほどの時間ではないという感覚がありました。しかも、久しぶりに会った友達のことについて、母親に聞いてもらいたいことがあったのですが、話のきっかけを失ってしまい、ショックでした。
「何よ。怒鳴ることはないじゃない!」
ケイコさんは立ち上がると、自分の部屋に駆け込み、ドアのカギを閉めてしまいました。そのあと、タカエさんが何を言っても返事はありませんでした。

真実を見る

翌日は土曜日で、ケイコさんは学校が休みです。タカエさんが教会道場に出かけたのを確認してから、やっと部屋から出てきました。
「ケイコちゃん、おはよう」
「あっ、おばあちゃん。おはよう……。きのうは遅くなって、ごめんなさい」
ケイコさんは、申しわけなさそうに言いましたが、ミチコさんは笑顔でした。
「さあ、おみそ汁を温めなおしてあげるから、顔を洗っておいで」
ケイコさんは、おばあちゃんが支度してくれた朝ごはんを食べながら、きのうの出来事を話しました。
久しぶりに会った友達の一人から、みんなと別れたあとで相談にのってほしいと言われたこと。両親が離婚することになって、どうしたらいいのかわからないと言う彼女の気持ちを、駅前のファミリーレストランでずっと聞いてあげていたこと。彼女の悩みが深刻なために、ケイコさんが「うちのお母さんだったら、きっといいアドバイスができるから、このことを話してもいい?」と聞くと、うんと言ってくれたこと。
話を聞いているうちに、あっというまに十時を過ぎてしまったこと……。
涙をこぼすケイコさんの手を、ミチコさんはやさしく握ってあげました。
一方、道場ではタカエさんが、池田支部長さんに昨日のことを聞いてもらっているところでした。
「親としては心配よね。私にも同じような経験があるわ。子どもが無事に帰ってきたら、よかったと素直に喜べばいいのに、なぜか怒ってしまうのよね」
「そうなんです。私もついカッとして」
「当時の支部長さんから、私はこう教えていただいたの。『なぜ怒るのでしょうか。それは、ものごとを悪い方へと自分勝手に想像し、妄想を大きくふくらませているからです。妄想はものごとの真実、つまり、なぜ、こうなっているのかという、ほんとうの姿を見えなくしてしまうために、頭のなかは混乱し心が苦しくなって、ついには怒りを生じさせるのです。仏説観普賢菩薩行法経に≪一切の業障海は。皆妄想より生ず≫とあるのは、そういうことを教えてくださっているんですよ』って。子どもの帰宅が遅いと、親は自分勝手に余計な妄想を大きくふくらませて心配を怒りの心でごまかしてしまうんだわ。ねえ鈴木さん。なぜケイコちゃんが遅くなったか、まだ聞いてあげていないんでしょう?早く帰って、聞いてあげなさい」
タカエさんは、はっとして立ち上がるときのう怒鳴ったことをケイコさんにまず謝ろうと心に誓い、道場をあとにしました。

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