『経典』に学ぶ
普回向・唱題・回向
経文
願わくは此の功徳を以て
普く一切に及ぼし
我等と衆生と
皆共に仏道を成ぜん
現代語訳
「私たちの願いといたしますところは、この供養の功徳をあまねく一切のものにおよぼし、私たちすべての衆生が、みんな同じように仏の境地に達したい、ということでございます」
意味と受け止め方
仏教徒の願と行
普回向は化城諭品に出てくる一節で、梵天の王(天上界や娑婆世界などを守護する神)たちが、仏さまにさまざまな供養を捧げながら述べる誓いの言葉です。宗派を超え、ほとんどすべての仏教者が読経供養の結びとして唱える文句であるため結願の文とも呼ばれています。
文中に「この供養の功徳を」とありますが、これは供養のなかでもいちばん重要な「行供養(仏の教えを受持し、修行すること)によって得られる功徳をもって」という意味です。
功徳というと、「病気が治った」「試験に受かった」というような現世利益をまず思い浮かべる人もいるかもしれません。しかし、ほんとうの功徳とは、「信仰によって心境が変わり、心境が変わることによって人生そのものが変わる」ことをいいます。
真理・法にそったものの見方や考え方ができるようになれば、その人の雰囲気や言動は自然と明るい、調和のとれたものとなっていきます。それにつれて身のまわりの環境も、縁起の法によってよりよく変わっていくのです。
供養には「利供養」「敬供養」「行供養」の三つがあります。
花や食べ物などのお供物をそなえる「利供養」、そして仏さまを礼拝し讃歎する「敬供養」も帰依と感謝の真心の表われですから、もちろん尊い供養です。しかし、最も大切な供養は、仏さまの教えを受持し、日常生活のなかで実践する「行供養」です。
「行供養」はつまるところ、貪欲(自己中心の執着心)を捨て、無我となって仏の道を行ずることです。私たちがご宝前でお経を読誦するのは、敬供養と行供養を兼ねています。この読経供養は、貪欲に振り回されがちな小さな「我」を忘れ、ひたすら仏さまの懐に溶け込み、また仏さまの教えを全身全霊に溶け込ませる行ですから、とても大きな供養なのです。
それも、決して自分の生活の安楽や心の安らぎ・救わればかりを願ってするのではありません。その功徳があまねく一切の人びとにおよぶようにというのが、ほんとうの願いなのです。「自分もほかの人も一人残らず仏道を成じられますように」と祈るのです。
私たちは、自利(心の成長・向上を図る)と利他(苦しみ悩む人を救う)を成就し、仏の境地に達することを目的に生まれてきました。一歩でも仏に近づくため、世のため人のためにつくせる人間となるために自分を成長・向上させるのであり、自分の成長・向上を図るために利他行に励んでいます。
したがって普回向にも、すべての人が自分が生まれてきたほんとうの意味に気づき、ともに仏道を歩んでいきたいという仏教徒の大きな「願」と「行」の精神が凝縮されています。
こうした意味をしっかりとつかみ、心を込めて普回向を読み上げると「この肉体が自分である」と無意識に考える心の殻がいつのまにか破れて、すべての人びとと同じ尊い一つのいのちを、生かされながら生きているという感覚を味わえます。そして、自分という存在が無限に大きく広がっていく爽快感を覚えることができるでしょう。
真理・法に溶け込む
唱題では、「南無妙法蓮華経」のお題目を十回唱えます。南無というのは、梵語(古代インドの言葉)の音をそのまま漢字に当てはめたもので「帰命」という意味です。
「帰命」とは、全身全霊を投げ出して仏さまの懐に飛び込んでいく、すなわち、すべてのものを生かしている真理・法のなかに純粋に溶け込んでいくことです。そして、その瞬間に身が震えるほどに感じる「ありがたい」という法悦感も、この二音のなかに込められています。
物を拝むのでもなく、人を拝むのでもありません。尊いのは法華経の教えですから、私たちが「南無妙法蓮華経」と唱えるのは、法華経に示されている真理・法に「南無」と帰命し、法華経の受持と実践の信念を心に深く植えつけるためなのです。
唱題の意味を理解しているならば、一回唱えるだけでもよさそうなものですが、修行のうえでは、くり返すということが大切な意義をもっているのです。くり返すことは、感銘を深くすることにつながります。しかも心を込めてくり返せば、その感銘に深い実感が伴ってきます。
ですから、お題目も、心を込めてくり返し唱えることが大切です。くり返すことによって、心の奥底に帰命の念が深く深くしみわたっていくのです。
『経典』には、十唱(十回くり返す)と示されていますが、一人で唱えるときには、回数にこだわらなくてもよいでしょう。十回、二十回と、仏さまのいのちに全身全霊を飛び込ませるような気持ちで一心に唱えていると、やがて仏さまに抱かれているような安らぎと法悦感を味わえるにちがいありません。
経文
謹んで読誦し奉る大乗妙法蓮華経
集むる処の功徳を以て
南無久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊
南無証明法華の多宝如来
南無十方分身三世の諸仏
南無上行・無辺行・浄行・安立行の四大菩薩
南無文殊・普賢・弥勒等の菩薩摩訶薩
南無高祖日蓮大菩薩
南無開祖日敬一乗大師
南無脇祖妙佼慈道菩薩
本部勧請の御守護尊神
信者一同の御守護尊神
十方無量の諸天善神に回向し慈恩に報酬す。
仰ぎ願わくは先祖代々過去帳一切の精霊
今日命日に当る精霊
十方法界有縁無縁の諸精霊
何卒回向供養の法味を納受し
疾く無上菩提の妙果を成就せしめ給え。
総じては、一切衆生仏性開顕・世界平和達成等の御守護を賜りまするよう、偏に願い上げ奉る。
現代語訳
「いまここに謹んで読誦させていただきました大乗の教え・妙法蓮華経に集められた功徳のすべてを、
『私たちが絶対の存在として帰依する、宇宙の大生命である久遠実成の本仏釈尊と、久遠本仏の現われとして人類救済のために真理を説いてくださった大恩ある教主釈尊』
『法華経の教えの真実を証明される多宝如来』
『宇宙の大生命の分身であり、過去・現在・未来を通じて、この世のあらゆる所にお出でくださる諸仏』
『すべての人を教化、救済しようと誓願された上行・無辺行・浄行・安立行の四大菩薩』
『釈尊のお徳(智慧・実践・慈悲)の働きを象徴する文殊・普賢・弥勒をはじめとする菩薩方』
『多くの困難を乗り越えて、法華経を説き広めてくださった日蓮大菩薩』
『法華経の一仏乗の世界を信受して本会を創立してくださり、真の菩薩行に徹し、法華経広宣流布の大導師であられた開祖日敬一乗大師』
『開祖さまの教導のもと、人心救済の教化に身命を惜しまず、菩薩行を行じてご法を証明された脇祖妙佼慈道菩薩』
『菩薩行の実践が進むようにと守護してくださる神々』
『この世のあらゆる所にいらっしゃり、人びとを護ってくださる神々』
に回向し、その慈悲と大恩に深く感謝いたします。
そして、ご先祖さま、今日が命日にあたる霊位、宇宙の一切の万物(精霊)よ、どうか私たちの真心の回向供養をお受けください。
最後に、本仏釈尊をはじめ、一切の諸仏・諸菩薩・諸天善神に心からお願い申し上げます。何とぞ、本会創立の目的であり、仏さまの本願である『一切衆生の仏性開顕と世界平和の実現』が速やかに成就いたしますよう、私たちの菩薩行実践をご守護くださいませ」
意味と受け止め方
大乗精神の表白
普回向で、功徳とは「信仰によって心境が変わり、心境が変わることによって人生そのものが変わる」ことであると学びました。しかし、その信仰も現象にまどわされぬほんとうの信仰でなければ、人生に対する確固とした希望や自信を持つことができません。なぜなら、仕事が順調だったり家庭が円満であっても、ひとたび何らかの不幸に見舞われると、これまで幸せと感じていたものが、あっというまに消え去ってしまうからです。
ところが「万物を生かす宇宙の大いなるいのち(真理・法=久遠本仏)と私たちは親子の関係であり、親が子を思う絶対の愛情で、いつも守られて生かされている」という心境になると、どんなことに遭遇しても動じることはありません。目の前に現われる現象がどのような出来事であっても、「自分を成長・向上させる機縁を仏さまが与えてくださっているんだ」と、喜びと感謝で受けとめることができるからです。
このような心境になると、精神的、肉体的、物質的にも、よりよき変化が生じてきます。
では、「功徳を回向する」とは、どのようなことなのでしょうか。
回向の「回」は回す、「向」は向けるということですから、回向とは「ふり向ける」という意味です。すなわち、本来自分が受けるはずの功徳を、他へふり向けることです。
『経典』の最後に記された回向は、法華経精神の発露そのものです。それは、「読経供養によっていただける大きな功徳を、自分だけのものとせず、神仏をはじめ宇宙全体のあらゆる存在にふり向けて幸せになっていただこう」という、広やかな大乗精神の表白だからです。このような回向の精神は、深まるほどに行動となって表われます。それは、他者を生かす菩薩行を実践して仏性を磨き、自らを成長・向上させていくことです。
そうした私たちの姿を見て、ご本仏さまはもとより、身近な先祖も、どれだけ喜ばれるかわかりません。真の先祖供養の意味は、ここにあります。
真実への目覚め
『経典』の最後に回向が記されている意義を整理してみましょう。
第一は「私たちが法華経を読誦させていただいた感謝の真心を諸仏・諸菩薩、開祖さま・脇祖さま、ご守護くださる神々に捧げさせていただく」ことです。
第二は「先祖をはじめとする亡くなった方々に、読経の功徳を回向する」ことです。
第三は「法華経に基づく菩薩行を実践して、自らの成長を図りながら、すべての人びとに仏性の自覚を呼び覚まし、いつかは世界平和を実現させるというお誓いを申し上げる」ことです。
回向は、ひとえに他者に布施することですが、自利・利他の行(自分の成長と他者への貢献)は表裏一体ですから、功徳は必ず自分に返ってきます。功徳は自分から他者へ、他者から自分へと循環しているのです。
法華経は、自らの仏性に気づき、仏になるための実践の教えです。実践を促すその原動力は、「自分は久遠本仏に生かされているのだ」という真実への目覚めです。生かされているという喜びと感謝の心が自らの成長を促し、他者への貢献へとつながっていきます。
真実に目覚めること──それが「あなたがあなたらしく輝く」ための秘けつなのです。
事例から学ぶ
事例編では、各品に込められた教えを、私たちが日々の生活のなかで、どのように生かしていけばよいかを、具体的な事例をとおして考えていきます。
鈴木さん一家を紹介します。
おばあちゃん・ミチコさん(75)…佼成会の青年部活動も経験している信仰二代目会員
アキオさん(45)…一家の大黒柱。ミチコさんの末息子
アキオさんの妻・夕カエさん(38)…婦人部リーダー。行動派お母さん
長女・ケイコさん(16)…やさしい心の持ち主の高校一年生。吹奏楽部
長男・ヒロシくん(9)…元気いっぱいの小学三年生
温泉旅行
ときおり「胃のあたりが痛い」とこぼしていたおばあちゃんのミチコさんが、病院で検査を受けた結果、十二指腸炎と診断されました。医師から「薬を飲めばよくなりますよ」と言われた本人はけろりとした顔をしていますが、病院に付き添った嫁のタカエさんは、それでも安心することはできませんでした。
しかし、ミチコさんは元気いっぱい。
検査から一週間後には、家族の心配もよそに、友人らと2泊3日の温泉旅行に出かけてしまったのです。タカエさんは、おばあちゃんの快活さに、半ばあきれてしまいました。
ミチコさんが旅行に出かけたその晩のことです。家族で食卓を囲んでいるときに、タカエさんがひとり言のようにつぶやきました。
「おばあちゃん大丈夫かしら」
すると、夫のアキオさんが、ご飯をほおばりながら言いました。
「自分の体のことは、本人がいちばんよくわかるんだから、母さんも無理はしないだろう。心配ないさ」
旅行に行く前は、あんなに心配していたアキオさんが、こうものんびりしたことを言うので、タカエさんは少しムッとしました。
そのときです。長男で小学四年のヒロシくんがタカエさんに聞きました。
「ねえ、お母さん。おばあちゃんみたいにまじめに信仰していても、仏さまは護ってくれないときもあるの?」
その問いに答えたのは、高校二年生の長女・ケイコさんでした。
「あのねえ、信仰している、していないにかかわらず、人間はだれでも病気になるし、いつかは必ず死ぬの。宗教というのは、病気になりませんように、長生きできますように、商売がうまくいきますようになんていう自分勝手な頼みごとを神さまや仏さまにお願いするんじゃなくて、自分の生き方を見つめ、教えにそって正していくものなのよ」
アキオさんとタカエさんは、ケイコさんがこんなにしっかりとした宗教観を持っていることに驚いて、思わず顔を見合わせました。
宗教の功徳
「ヒロシ、お姉ちゃんの言うとおりだ。宗教は、人間がいかに生きるべきかを教えるものなんだよ。ヒロシは功徳という言葉を知ってるかい?」
ヒロシくんは父親に向かって、うんとうなずきました。
「たとえば、お金持ちになったとか、病気が治ったということが宗教の功徳ではないんだね。ほんとうの功徳とは、みんなが自分の持っている力を出しきり、生きがいのある人生を歩めるようになることなんだ。貧しいから、病気だから不幸だという、そういう単純なものではなくて、仏さまの教えに出遇い、生活のなかで教えを生かしていくことで、人は人生に生きがいを見いだし、ほんとうの幸せを味わうことができるようになるんだ。佼成会が布教伝道するのは、一人でも多くの人に、ほんとうの幸せとは何かに気づいていただきたいからなんだね。お父さんの言うこと、ちょっとむずかしかったかな」
首を横に振るヒロシくんに、タカエさんが言いました。
「お経典の終わりのほうに『願わくは此の功徳を以て……我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん』とあるでしょう。あれは、自分だけが教えにふれて幸せになればいいというのではなく、みんなと一緒に最高の幸福といえる仏さまの境地に達したいということを誓っている言葉なの。そのためにはやはり、仏さまの教えをしっかりと自分のものにして、教えを実践することが大事でしょう。それでご供養では、この誓いの言葉である普回向のあとに『南無妙法蓮華経』と一心に唱えて、仏さまの懐に無条件で溶けこみ、仏さまの教えが体の芯まで染みこむようにと念じるのよ」
「ふーん。そうだったんだあ」
「あんた、何もわかってなくて、ご供養していたの?あきれちゃうわね」
お姉ちゃんのこの言葉に、カチンときたヒロシくんが言い返しました。
「ぼくだって知っているよ。お経典のいちばん最後の回向は、ぼくたちがよいことをして仏さまからいただく功徳を、ご先祖さまにそのまま差し上げますっていうことなんだよ。少年部で教えてもらったもん!」
「ヒロシ、よく知っているじゃないか」
アキオさんが茶わんを置きながら言いました。
「ひいおばあちゃんたちがご縁をいただいて、佼成会に入会してくれたおかげさまで、私たち家族は仏さまの教えにふれることができた。つまり、おばあちゃんをはじめ、私たちはすでに、大きな功徳をいただいているんだ。だから、病気になったり、ときには苦しいことや辛いことも経験するけど、そういう一つ一つの出来事をとおして、仏さまの教えを深く学ばせていただける環境にいるんだね。こんなにありがたいことはないと、お父さんは思うよ」
「うん、ほんとうにそうだね。おばあちゃん、温泉で楽しんでいるといいね」