仏教とはどのような教えか
四諦
苦諦
四諦の教えは、初転法輪からご入滅の直前まで、釈尊が一貫して説かれた人生の真理です。智慧第一といわれた高弟の舎利弗が説いた《象跡喩大経》というお経がありますが、そのなかで舎利弗はこういっています。「象の足跡は最も大きくて、あらゆる動物の足跡が象の足跡のなかにおさまる。それと同じように、仏さまの教えのすべては、四諦の法門のなかにおさまるのである」
それほど重大なこの法門は、人間という人間にかならずつきまとう苦というものについて、〈苦諦・集諦・滅諦・道諦〉という四段階に分けて説かれたものであります。
〈諦〉とは、〈真理〉という意味です。〈真理の諦り〉という意味に用いられることもあります。ここでは、その両方の意味に考えていいとおもいます。
まず、第一の〈苦諦〉から考えていくことにしましょう。
苦の尽きるときはない
人間の歴史が始まってからこのかた、一貫して人間が行なってきたことは、苦からのがれる努力でした。ひどい暑さ寒さの苦しみ、天災地変の苦しみ、飢饉や疫病の苦しみ、老いの苦しみ、死の苦しみ、貧乏の苦しみ、そして人間関係の苦しみに至るまで、あらゆる苦しみからのがれよう、あるいはそれを追放しようという戦いが、人類のいちばん基本的な努力でした。
しかし、何万年ものそういった努力によって、人間が苦から解放されたかといえば、答えはもちろんノーです。今後も、未来永劫にわたって、一切の苦しみからのがれきることはありますまい。もっとも、寒暑の苦しみや、天災地変の苦しみや、病の苦しみや、貧困の苦しみなどは、科学と技術の進歩によって少しずつ軽減させていくことができるでしょう。また、そういう努力は、どこまでも続けていかなければなりません。それでも、死に対する恐怖からのがれることは絶対に不可能ですし、人間関係においても、次から次へと新しい苦しみが生まれてきて、尽きることはありますまい。
苦を苦と感じなければよい
それならば、いったいどうすればよいのでしょうか。道はただ一つしかありません。苦を苦と感じないようにすればよいのです。苦が永劫に人間に付きまとうものであるかぎり、これが、苦を克服する唯一の道なのであります。苦しいと感じなくなれば、すでに苦は消滅したわけであるからです。
人間の知恵も、月旅行ができるまでに進んだのですから、苦からのがれようとするムダなあがきはもういいかげんにやめて、〈苦を苦と感じない〉という精神的大革命を試みたらどうでしょうか。
それでは、苦を苦と感じなくなるのには、どんな方法があるのかということが問題になります。その第一の道として教えられたのが、〈苦諦〉ということです。すなわち、人生は苦であると悟ることです。初転法輪において、釈尊は次のようにお説きになっておられます。
「比丘たちよ。わたしはこのように苦というものを諦かにした。すなわち、生は苦である。老は苦である。病は苦である。死は苦である。怨み憎むものに会うのは苦である。愛するものに別れるのは苦である。求めるものの得られないのは苦である。一言にしていえば、この人間の存在はすべて苦なのである」
たいていの人は、楽が常態であって、苦は異常態であると思っています。ですから、苦を非常に強く感ずるのです。たとえば、朝四時か五時に起きるのを常態だと考えているお百姓さんたちは、そんな早起きがちっとも苦痛ではありません。ところが、七時、八時まで寝ていることを常態だと考えている都会人が、たまたま四時に起きねばならぬことになると、「つらいなあ」と感ずるのです。
そして、苦が異常態であると思っていると、いつも「苦からのがれたい」とあくせくすることになります。あくせくするために、いつも苦という観念が心にくっついて離れません。それゆえ、ますます苦を感ずるのです。
苦を直視すると苦はなくなる
ところが、心の持ち方をがらりと変えて、「この世界は苦界である。苦が常態なのである」と悟れば、肚がすわってきます。「逃げだそうとしても逃げられないのだ。それならば、苦と対決するよりしかたがない。よし、対決しよう」と居直ることができるのです。こうして、肚を据え、苦を直視することができますと、たいていの苦は向こうからスーッとしぼんでしまうものです。
犬にほえつかれた時、こわがって逃げようとすれば、犬はかえって猛りたち、追いかけてきます。へたをすると、ガブリとやられます。ところが、犬の前に仁王立ちになって、正面からじっと見すえますと、けっして飛びかかってはきません。ほえるのをやめて、立ち去っていくこともあります。
これが苦を撃退する方法なのです。逆説のようですが、のがれようと思えばのがれられず、「逃げないぞ」と居直れば、のがれられるのです。
このことは、けっして意志の強さ弱さのみによるものではありません。理性の悟りによって、そういう力はできてくるものです。たとえば、にがい薬を飲む時、まだ理性の発達していない子どもは、よく泣いたりわめいたりして、飲むことを拒否しようとします。まだ飲まないのに、もうにがさを予想して苦しんでいるのです。それに反して、「薬はにがいものだ」と悟っているおとなは、覚悟をしてぐっと飲みこみます。一瞬にしてことは終わるのです。舌に感ずるにがさは、子どもとおとなと別に違いはないのですが、おとなは理性の力によって苦を苦と感じないですむわけです。この理性の悟り、それが〈苦諦〉というものであります。
集諦
次の段階が〈集諦〉です。〈集〉というのは、〈集起〉の略で、〈原因〉という意味です。見かけは簡単なものごとでも、その奥を探ってみると、いろいろな力が集まって起こっていることがわかります。それゆえ、ものごとの原因を集または集起というわけです。
ところで、人生苦にも必ず原因があります。その原因を探究し、反省し、それをはっきりと悟らねばならぬと、釈尊は教えられているのです。その悟りを〈集諦〉といいます。
初転法輪に際しては、
「比丘たちよ。苦の集について、わたしはこのように諦かにした。それは常に満足を求めてやまぬ渇愛である」
と説かれ、《法華経》の《譬諭品第三》には、
〈諸苦の所因は 貪欲これ本なり〉
と説かれています。
渇愛というのは、のどの渇いたものが激しく水を求めるように、凡夫がもろもろの欲望の満足を求めてやまぬことです。貪欲というのも似たような意味で、無制限にものごとを貪り求めることをいいます。本能そのものは善悪以前の自然なものであると釈尊は説かれているのですが、それを必要以上に増長させ、ひとの迷惑などにはおかまいなく欲望を増大させる貪欲が、もろもろの不幸を呼び起こすのだと教えられるのです。
そこで、「人生苦に悩んでいる人は、その原因を探究し、反省してみるとよい。そうすれば、それが必ず渇愛・貪欲に基づくものであることに気がつくであろう」ということになります。それが集諦の悟りにほかなりません。
また、集諦、すなわち人生苦をその根本から探究するのに最も適した法門が、〈十二因縁〉です。この法門については、後に詳しく説明します。
滅諦
初転法輪に際しては、次に、
「比丘たちよ。苦の消滅について、わたしはこのように諦かにした。渇愛を余すところなく捨て去り、それから解脱し、執着を断ち切った時に、苦は消滅するのである」
と説かれ、《譬諭品第三》には、
〈諸苦を滅尽するを 第三の諦と名く〉
とあります。
第二の集諦によって、苦の原因は人間の心の持ち方にあるのだということがわかりました。とすれば、当然「心の持ち方を変えることによって、あらゆる苦は必ず消滅するものである」ということになります。この真理、この悟りを第三の諦、すなわち〈滅諦〉というのです。
それでは、どうしたら「渇愛を余すところなく捨て去り、それから解脱し、執着を断ち切る」ことができるのでしょうか。ただ、捨て去ろう、解脱しよう、執着を断とうと努力するだけでは、なかなか目的を達することは困難です。それどころか、そういった努力が、かえってそのものごとへの心のひっかかりを強めてしまう恐れもじゅうぶんありえます。
そこで釈尊は、次に述べる〈道諦〉の真理をお説きになったのです。
道諦
この第四の諦りについて、初転法輪においては、
「比丘たちよ。苦を滅する道について、わたしはこのように諦かにした。それは正しい八つの道である。すなわち、正見・正思・正語・正行・正命・正精進・正念・正定がそれである」
と説かれています。
すなわち、ほんとうに苦を滅する道は、苦からのがれようと努力することではなく、正しくものごとを見、正しく考え、正しく語り、正しく行為し、正しく生活し、正しく努力し、正しく念じ、正しく心を決定させることであると教えられたのです。そうすれば、苦は自然と雲散霧消してしまうというのです。この八つの正しい道については、章を改めて詳しく説明することにいたしましょう。
前にも述べたように、この四諦の法門は、非常に重要な教えであり、《法華経》でも《譬諭品第三》に次のように説かれています。
〈若し人小智にして 深く愛欲に著せる 此れ等を為ての故に 苦諦を説きたもう 衆生心に喜んで 未曽有なることを得 仏の説きたもう苦諦は 真実にして異ることなし 若し衆生あって 苦の本を知らず 深く苦の因に著して 暫くも捨つること能わざる 是れ等を為ての故に 方便して道を説きたもう 諸苦の所因は 貪欲これ本なり 若し貪欲を滅すれば 依止する所なし 諸苦を滅尽するを 第三の諦と名く 滅諦の為の故に 道を修行す〉
これまでの解説と考え合わせながら、熟読玩味していただきたいものであります。