行事
1月1日
元旦参り
立正佼成会では、新たな年を迎えたこの日に、世界平和と人類の幸福を祈念して法華経の読誦を行います。新年を無事に迎えることができたことに感謝し、世界平和への祈りを込めるとともに、自分の心を整え、新年を迎えての決意をかみしめ合います。
1月7日
御親教
(ごしんきょう)
年頭にあたり、庭野日鑛会長が全国の会員に1年の心構えを説き、年次目標や教団の活動を示します。
1月20日~2月3日
寒中読誦修行
(かんちゅうどくじゅしゅぎょう)
大寒の入りから節分までの期間、毎朝6時に『法華三部経』の読誦修行に入るのが寒中読誦修行です。この期間をとおして『法華三部経』全巻を読誦します。
※教会によっては期間、開始時間は異なります。
2月15日
涅槃会
(ねはんえ)
涅槃会は、釈尊の入滅した日に行われる法会のことで、降誕会、成道会とともに仏教三大行事の一つです。
釈尊は入滅の際、「私は行おうと思ったことを行い尽くし、語ろうと思ったことを語り尽くした」と言われました。一日一日を真剣に生きていく大切さをかみしめて、心新たに精進を誓い合います。
3月5日
創立記念日
立正佼成会は1938(昭和13)年3月5日、庭野日敬開祖、長沼妙佼脇祖によって創立されました。「立正」は正しい教えに立脚すること、「佼成」には多くの人が交わることによって、互いをいたわり、励まし合いながら人格の完成をめざす、という意味があります。釈尊の慈悲と智慧が中心に説かれた『法華三部経』を所依の経典とし、「久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊」(くおんじつじょうだいおんきょうしゅしゃかむにせそん)を本尊としています。
3月5日は「法華経に込められた真の仏教精神によって人を救い、世を立て直す」という創立の精神に立ち返り、釈尊の教えを家庭や職場、地域などあらゆる生活の場に生かし、多くの人々と助け合いながら思いやりに満ちた社会の建設をめざすことを全会員で確認する日です。
4月8日
降誕会
(こうたんえ)
降誕会は、釈尊の生誕を祝う法会のことで、成道会、涅槃会とともに仏教三大行事の一つです。
釈尊は紀元前5世紀頃、北インド・カピラヴァストゥという国(現ネパール領土)のルンビニ園で、シュッドーダナ国王と、マハー・マーヤー夫人との間に生まれ、シッダールタと名付けられました。
誕生したとき、天人が香華を舞い散らせ、竜が清らかな水を降らせて産湯としたという故事にもとづき、降誕会では、季節の花で飾った「花御堂(はなみどう)」に誕生仏を安置して、参拝者が甘茶を灌(そそ)ぎます。降誕会が「花まつり」「灌仏会(かんぶつえ)」とも呼ばれる所以(ゆえん)がここにあります。
また、生誕直後、四方に7歩ずつ歩み「天上天下 唯我独尊(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)」と言われたとされています。この言葉は「宇宙に存在するすべてのものは、仏のいのちを具えた尊い存在である」という意味です。
釈尊が生誕した4月8日は、尊い教え、かけがえのないいのちを頂いた有難さをかみしめるため、立正佼成会では盛大な式典が催されます。当日は、大聖堂前、本部施設に「花御堂」が設置され、式典終了後には、本部周辺で稚児行列が行われます。
7月15日
盂蘭盆会
(うらぼんえ)
「盂蘭盆」とはサンスクリット語の「ウランバナ」の音写です。「ウランバナ」とは「逆さにつるされた状態」という意味ですが、言い換えれば、正常な状態からひっくり返っていること、すなわち人間として正しい生き方ができていないという状態です。
盂蘭盆会の由来は、『盂蘭盆経』の中に記されています。
釈尊の高弟目連(もくれん)尊者が、亡くなった母が餓鬼道で苦しみを受けていることを知り、神通力で母を助けようとしますが叶わず、釈尊に相談します。すると、釈尊は「7月15日に修行を終える僧侶たちに百味の飲食(おんじき)を捧げるならば、その功徳によって母を救えるだろう」と教えます。その教えにしたがって目連尊者は善徳を積んで、回向(えこう)供養をしたところ、母は罪から救われたという内容です。
人が道理から脱線する原因は、自己中心的な考え方にあります。ものの見方・考え方が自己中心的であると、やがて、貪りや怒りの心を生み、人と争いを起こします。その心の状態が 「ウランバナ」、つまり「逆さに吊るされるような苦しみ」であるわけです。
立正佼成会の「盂蘭盆会」では、釈尊の高弟である目連尊者の故事を縁として、自分のものの見方・考え方を正して、他と調和した生活をおくること、そして親から子への、いのちのつながりに気づき、先祖への感謝の念を強くすることを大切にしています。
8月15日
戦争犠牲者慰霊・平和祈願の日
式典
第2次世界大戦をはじめ、世界のあらゆる戦争で犠牲となった方々に深い哀悼の意を捧げ、あわせて世界平和を祈念する式典として、1981(昭和56)年から実施しています。
今日、私たちが平和な暮らしを享受できるのも、戦争によって多くの尊い生命を失った反省からに他なりません。立正佼成会会員は、すべての御霊の冥福を祈り、釈尊の教えをもとに、世界平和への取り組みをさらに広げていくことを誓い合います。
9月10日
脇祖さま報恩会
(ほうおんえ)
本会創立より、庭野日敬開祖とともに布教伝道に取り組んだ長沼妙佼脇祖は、1957(昭和32)年、満67歳で遷化(せんげ)しました。副会長として庭野開祖を補佐し、ときにはやさしく、ときには厳しく戒めるという「厳愛(げんない)の二法」の慈悲行をもって会員の教化・育成に努めました。このことにより、会員からは”慈母”と慕われています。
毎年9月10日には、長沼脇祖が歩んだ修行一筋の「慈悲の生涯」を振り返り、足跡を偲ぶとともに、法華経広宣流布(こうせんるふ)の精神を再確認します。
10月4日
開祖さま入寂会
(にゅうじゃくえ)
1999(平成11)年10月4日、満92歳で入寂した庭野日敬開祖に報恩感謝の誠を捧げ誓願を新たにする式典です。
「法華経によって、すべての人を救いたい」。庭野開祖は、この願いのもと1938(昭和13)年に本会を創立し、以来、人々の幸せを願って、法華経の研鑚、会員の教化・育成に努めました。また、宗教協力活動にも心血を注ぎ、1970(昭和45)年には世界宗教者平和会議(WCRP)開催の牽引役となりました。1979(昭和54)年には「宗教界のノーベル賞」といわれるテンプルトン賞を受賞。1991(平成3)年に現・庭野日鑛会長に会長位を継承した後も、世界の平和を願い精力的に活動しました。
拝み合い、認め合い、分かち合い、協力し合う。これは、法華経を貫く一乗(いちじょう)の精神であり、庭野開祖の生涯を通じた信念でもあります。会員は教えを学び、継承し、現実社会の中で実現していくことをあらためて誓い合います。
10月第1日曜日
お会式・一乗まつり
(おえしき・いちじょうまつり)
勇ましいマトイを先頭に、心に響く笛、鉦、太鼓。大空いっぱいに舞い広がる万灯の花。
『お会式』は、61歳でご生涯を閉じられた日蓮聖人の入滅された日(10月13日)に行う法要と万灯行進を一般的にさします。
立正佼成会では、『法華経』の広宣流布に生涯をかけられた日蓮聖人の遺徳を偲ぶとともに、会を創立し、世界平和のために生涯をささげた開祖を追慕・讃歎するため、毎年10月の第1日曜日に『お会式・一乗まつり』として万灯行進を行います。
当日は、『報恩感謝』『異体同心』『広宣流布』の誓願を胸に、多くの会員が本部周辺を練り歩きます。
令和6年次は、10月20日(日)に「お会式・一乗まつり」を開催させていただきます。
11月15日
開祖さま生誕会
(せいたんえ)
庭野日敬開祖は、1906(明治39)年、11月15日、新潟県中魚沼郡十日町大字菅沼(現在の十日町市菅沼)に生まれました。
人に尽くすことを喜びとした祖父・重太郎や「なるべく暇がなくて、給料の安い、骨の折れるところへ奉公するように」と諭す父・重吉らの教えを受け、16歳の夏に上京。その後、恩師である新井助信師や長沼政(のちの長沼妙佼脇祖)との出会いを経て、1938(昭和13)年、立正佼成会を創立、以来、法華経に帰依し、慈悲の実践に徹しました。
また「真の平和は宗教心の涵養(かんよう)による以外にない」との信念から、「国民皆信仰」「明るい社会づくり運動」を提唱するとともに、世界の平和境建設をめざして、宗教者同志が手を携える必要性を訴え、国内外で積極的に宗教協力活動を展開。世界宗教者平和会議(WCRP)やアジア宗教者平和会議(ACRP)の創設・運営に力を尽くしました。さらに、過去3回行われた「国連軍縮特別総会」では、世界の為政者に非武装による平和を重ねて呼びかけるなど、世界平和の構築に情熱を傾注しました。
1991(平成3)年11月15日に「法燈継承式」を挙行し、長男・日鑛に会長位を委譲したのちも、1994年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世と共にバチカンでの「第6回WCRP」に出席するなど、世界の平和を目指して精力的な活動を続けました。
1999(平成11)年10月4日、満92歳で入寂しました。
11月15日は、ひたすら法華経の広宣流布に邁進してきた庭野開祖の遺徳を全会員でかみしめるとともに、報恩感謝の意をこめて新たな誓願を立てる日です。
12月8日
成道会
(じょうどうえ)
成道会は、釈尊が悟りを開いた日に行われる法会のことで、降誕会、涅槃会とともに仏教三大行事の一つです。
仏伝には釈尊が悟りを開いた瞬間、「奇なるかな。奇なるかな。一切衆生ことごとくみな、如来の智慧・ 徳相を具有す。ただ妄想・執着あるを以(もっ)ての故に証得せず」と、思わずつぶやいたと記されています。
つまり生きとし生けるものは、本来仏とおなじ悟りを得る可能性をもっているものの、その欲や迷いのために心が曇ってしまうということです。
本会では、自己中心的になるのではなく、人さまに尽くさせて頂こうと、日常的に実践する中に、欲や迷いを超えていく道があるとし、自分の救われだけではなく、触れ合う人々の幸せを願う人間になることをめざし、本部大聖堂や全国教会で式典が行われます。