仏教とはどのような教えか

六波羅蜜

波羅蜜とは

波羅(はら)(みつ)〉とは、(ぼん)()の〈パーラミター〉のことで、〈()(きょう)する〉〈()(がん)(いた)る〉〈(わた)る〉ということです。
〈究竟〉というのは、真理を(きわ)め尽くし、仏道の修行を完成した境地のことをいいます。そこで、菩薩が、仏の教えの真理を究め尽くし、仏道の修行を完成し、悟りの彼岸に達する道を波羅蜜といい、その道を修行するための六つの標準的な徳目を〈(ろく)波羅(はら)(みつ)〉というわけです。すなわち、つぎの六つのパーラミターです。

布施

辞書を引いて見ますと、〈布施(ふせ)〉とは、第一に「他人に物を(ほどこ)すこと」とあり、第二に「僧に財物を施すこと」と出ています。梵語では〈ダーナ〉といい、漢訳経典では〈(だん)()〉とか、〈(だん)()〉という漢字をあてはめています。《()(りょう)()(きょう)(じゅう)()(どく)(ほん)》に〈(だん)()(ぎょう)じ〉とあり、《(みょう)(しょう)厳王本(ごんのうほん)()(ほん)》に〈(だん)波羅(ばら)(みつ)〉とありますように、檀那の檀だけをとって使う場合もあります。
なお、この檀那もしくは、旦那ということばは、いつしか誤用されて〈布施主〉の意味に用いられるようになりましたが、正しくは〈檀越(だんおつ)〉というのが布施主のことをさすことばです。
それはさておき、〈布施〉というのは、狭い意味では信者が僧団に財物を寄進することでありますが、ほんとうは、もっと広い意味をもつものであり、大小にかかわらず、自己犠牲を払って他のために奉仕することを、布施というのです。それには、大きく分けて〈(ざい)()(しん)()(ほう)()〉があり、別に〈無畏施(むいせ)〉という考え方もあります。

財施

〈財施〉とは、物質的な布施です。
(だい)(じょう)の教えは、一切衆生がお互いに救い救われつつ、この世を(じゃっ)(こう)土化(どか)していこうという思想ですから、その思想の推進母体である宗教教団に財物を寄進すると同時に、民衆のお互い同士が、困っている人に財物を分けて助け合うこともたいせつなことだと教えられているのです。
これは、いわゆる相互扶助の精神であって、もとをただせば、人間としてごく自然な行為であります。なぜ自然な行為を特に善行として(すす)めているのかといいますと、多くの人間が貪欲(とんよく)にまどわされて、その自然の行為が、なかなかなしにくいからです。
財施を行なうときのたいせつな心がまえとして、《大般若(だいはんにゃ)(きょう)》の第七十五巻に、〈三輪(さんりん)清浄(しょうじょう)三輪空(さんりんくう)(じゃく)ともいう)〉ということが説かれています。三輪清浄の〈三輪〉とは、布施をした人、布施を受けた人、布施された財物の三つをいいます。その三つのすべてが清浄でなければ、ほんとうの意義ある布施をしたことにはならないというのです。
つまり、「私はだれだれにしてあげた」とか、「私がしてもらった」とか、「何々をどれだけしてあげた」というように、布施をしたこと、あるいは受けたことに、こだわってはならないということです。このことは、一見なんでもないことのようですが、こういうことにこだわっていると「これだけしてあげたのに……」という思いなどから、せっかく実践した財施という素晴らしい行為が、恨みや、不満のもとになりがちだからです。
それでは、どのような心で財施をすればよいのでしょうか。《中部経典》にでてくる「貧者の一灯」の物語については、聞かれたこともあるでしょう。
「ある貧しい老女が、釈尊とその教団のために、やっとの思いで一灯を布施することができた。他の多くの人が献じた灯が消えても、その老女の献じた灯はついに消えることがなかった。なぜならば、その老女が布施した一灯には真心があり、()提心(だいしん)があったからである。そして、その老女は、釈尊によって成仏の保証を授けられた」
この物語で教えられているように、財施をするときは〈真心でする〉ことが第一です。そして、さらに大切なことは、「多くの人びとの心の闇を照らし、救いをもたらすような自分になりたい」という〈菩提心を(おこ)してする〉ことなのです。

身施

〈身施〉というのは、文字どおり、身体でする布施であります。財施は「貧者の一灯」の物語からもおわかりのように、(こころざし)さえあれば、だれにもできることではありますけれども、普通にはほんの少しでも財物に余裕がある場合にできることだといえましょう。
ところが、身施は、どんな人にも、どんな場合にもできる布施です。学生さんたちが身体障害児の施設の費用をつくるために街頭募金をしたり、子どもさんたちが公園その他の清掃奉仕をしたりするのも、その好例です。
そうした組織的な活動でなくても、日常なんでもない行為によって、身施はいくらでもできます。乗り物の中でお年寄りに席を譲ってあげるのも、主婦が寝込んでいるお隣の洗たくなどを手伝ってあげるのも、身施にほかなりません。
身施とは、言い換えれば親切行です。こういう小さな親切行がどんなに世の中を美しくし、温かくし、住みよいものにするかは、まことに計り知れないものがあるのであって、現実世界の寂光土化は、このような親切行のひとつひとつが、たくさん集まってこそ築き上げられるものだということもできましょう。

法施

財施も、身施も、現実社会に欠くことのできぬものではありますが、それだけではまだじゅうぶんではありません。なぜならば、それらは有限なものであり、無限の展開性に欠けるところがあるからです。そこで、〈法施〉というものが必要となってくるのです。
〈法施〉とは、大きくいえば、自分の知っている価値あることを、ひとに教えてあげることです。農作物の上手な栽培法でもよし、正しい勉強のしかたでもよし、おいしい料理の作り方でもよし、とにかく、ひとのため、世のためになることなら、なんでもよいのです。
なかんずく、仏教の教えを、ひとに伝えることが、最大最高の法施であると断言できます。なぜならば、それはひとを救い、世を立て直す根本の法であるからです。しかも、それはどこまでも無限に広がっていく可能性をもっているからです。ですから、信仰者として第一になすべきことは、仏法をひとに伝える布施、すなわち布教であることはいうまでもありません。

無畏施

〈無畏施〉というのは、ひとの心配や、恐れや、苦労をとり除いてあげる布施です。観世音菩薩をおまつりしたお堂に、よく〈施無畏〉という額が掲げてありますが、その理由は、《(かん)()(おん)()(さつ)()門品(もんぽん)》のほとんど全体にわたって述べられているように、観世音菩薩は衆生を、もろもろの怖畏(ふい)から解脱させる力を持っておられるために、〈施無畏(せむい)(しゃ)〉という別名があるからであります。
無畏施ということは、場合に応じて法施・財施・身施と、いろいろな方法によって現われます。〈雨ニモマケズ〉の詩を例にとれば、病気の子どもを看病してなぐさめてあげたり、疲れた母の稲束を背負って力づけてあげるのは身施であり、死にそうな人に仏法を説いて「こわがらなくてもいいよ」と安心させてあげるのは法施であります。この詩には出てきませんが、もし日照りで(なえ)を枯らして落胆している人に種もみ(・・)を分けてあげて、もう一度植え直しなさいと励ましてあげたとしたら、それは財施です。
ですから、無畏施は財施・身施・法施の中に溶けこませてもいいわけですが、しかし、ひとの心配や不安を取り除いてあげるそのこと自体が、何にも替え難い大功徳であるために、特に無畏施というものを立ててあるわけであります。

無財の七施

釈尊は、この布施ということを非常に重要視され、随所で、それをお説きになっておられますが、《雑宝蔵(ぞうほうぞう)(きょう)》というお経の中では、〈()(ざい)(しち)()〉ということを教えられています。金もなく、暇もなく、地位もない人でもできる布施ということで、それは〈(げん)()()顔悦色(げんえつしき)()(ごん)辞施(じせ)(しん)()(しん)()(しょう)座施(ざせ)房舎(ぼうしゃ)()〉の七つです。
〈眼施〉というのは、優しいまなざしで、ひとを見ることです。
〈和顔悦色施〉というのは、和やかなにこにこ顔でひとに明るい感じをあたえることです。
〈言辞施〉というのは、理解のある、優しいことばをかけてあげることです。
〈身施〉は、前に述べたとおりです。
〈心施〉とは、心の底から、ひとを思いやることで、いわば、善念の布施であります。
〈牀座施〉とは、座席をゆずってあげることです。
〈房舎施〉とは、雨露をしのぐのに困っているひとに、そういった場所を提供してあげることをいいます。

自己犠牲ほど高貴な精神はない

いずれにしても、布施とは、多少なりとも自己を犠牲にして、ひとのため、法のため、社会・公共のために尽くすことで、そういう自己犠牲の精神ほど高貴なものはありません。人間の最も人間らしいところであるといってもいいでしょう。
その自己犠牲の精神の典型が、《薬王(やくおう)()(さつ)(ほん)()(ほん)》に述べられています。薬王菩薩の前身である一切(いっさい)(しゅ)(じょう)()(けん)()(さつ)が、入滅された仏さまを供養するために、自分の腕に火を付けて()やしました。その光明に照らされて、多くの人が尊い発心(ほっしん)をしたのですが、七万二千年過ぎて、それが燃え尽き、両腕がなくなった瞬間に、再びもとどおりによみがえったという説話です。
この説話には、自己犠牲の精神の高貴さと、その影響力の大きさと、実践こそが教えに対する最高の報恩であることと、そして最後に、自己犠牲は自分をないがしろにするものではなく、真に自分を生かすものであることが象徴されているのです。

布施が六波羅蜜の最初におかれている意義

以上によって、布施とは、どんなものであるかをよく理解していただけたことと思いますが、(ろく)波羅(はら)(みつ)の最初に、この布施を置かれたことを、心にかみしめておく必要があります。
あとの五波羅蜜は、八正道と合致します。すなわち、持戒は、正思・正語・正行・正命に当たり、忍辱(にんにく)は、正思・正行・正定、精進は、正命・正念・正精進、禅定は、正念・正定、智慧は、正見・正思に当たります。ところが、布施に相当するものは八正道の中には見当たりません。ということは、八正道は自己完成のための教えであり、六波羅蜜は、もう一歩進んで、他を救い、世の中全体を美しくするための()(さつ)(ぎょう)の教えであるということができるのです。
人間がほんとうに救われるには、自分ひとりが人格的に完成し、迷いから解脱しただけではふじゅうぶんであって、すべての人間社会全体がよくなってこそ、自分自身も大安心(だいあんじん)の境地に到達できるのです。そのためには、どうしても積極的に他を救い、世の中を美しくする行為を、自己完成の行為と並行させて行なわなければなりません。それゆえ、六波羅蜜の最初に特に布施ということがあげられているわけであります。
結論として、われわれ(ざい)()(ぶっ)(きょう)()は、日々の生活の中で、この法施・身施・財施・無畏施を、その境遇に応じて比重の違いはあっても、四つのうち一つとして欠くことのないように(ぎょう)じていかなければなりません。そうしてこそ〈自分自身の人格を高めると同時に、みんなで力を合わせ、世の中を美しく安楽なものにしよう〉という大乗の教えにかなうものになるのであります。

持戒

身を慎む

六波羅蜜の第二は、〈()(かい)〉ということです。すなわち、仏さまの戒めをよく守り、人間らしい正しい生活をし、自分自身の完成に努力することです。一言にしていえば、身を慎むことです。そうしてこそ、ひとを救う力もほんものになるわけであって、自分自身は、だらしない生活をし、よくない行ないをしていながら、ひとを救うことにけんめいになってみたところで、けっして成就するはずはありません。それゆえ、持戒ということも、菩薩の修行にとってたいせつな徳目であるわけです。

忍辱

忍耐と謙虚

忍辱(にんにく)〉とは、他に対して、寛容であり、他から与えられるどんな困難をも耐え忍ぶことです。と同時に、どんな得意な状態にあっても、それを鼻にかけたり、有頂天になったりしないで、常に平静な心を保つことをいいます。
忍耐と謙虚という二つのことばに言い換えることもできましょう。(じょう)()(きょう)()(さつ)が、その典型であるといっていいでしょう。

精進

〈精〉とは、アルコールを酒精(しゅせい)というように、混りけがない、純粋なという意味ですから、〈(しょう)(じん)〉というのは、〈純粋な努力〉を意味します。

正しい目的のために

第一に目的が正しく、純粋でなければなりません。けんめいに努力しても、悪の道や、つまらぬものごとに励むのであったら、精進とはいえません。

正しく努力する

第二に、目的が正しく、純粋であっても、それに向かって一心に、たゆみなく進むのでなければ、精進とはいえません。
つまり、余計な、つまらぬことに心を奪われることなく、自分の本来の正しい使命・目的に向かって、一心不乱に努力することが精進で、仏道のみならず、あらゆるものごとについて、これが重要であることは、いまさらいうまでもありません。

禅定

〈禅〉とは、(ぼん)()の〈ディヤーナ〉、パーリ語の〈ジャーナ〉のことで、〈(じょう)〉とか、〈静慮〉とか訳されますが、普通は、このまま用いられ、ついに日本語になってしまったことばです。ですから、〈(ぜん)(じょう)〉というのは、同意味の字を二つ重ねてあるわけです。

真理を堅持して動かぬ心

どんなことが起こっても、迷ったり、動揺したりしない、どっしりと落ち着いた、静かな精神を持ち、常に真理に心が定まっている状態を禅定といいます。
また、そのような境地に達するには、いわゆる三昧(さんまい)にはいって、()を離れる修行が必要ですから、端座して三昧にはいる修行を、禅定という場合もあります。
六波羅蜜の場合は、菩薩が具備していなければならぬ徳目のことですから、前者の意味であることはいうまでもありません。

智慧

真理を見きわめ真理によって判断・処理できる能力

諸法の実相、すなわち宇宙の万物のありのままの(すがた)を見きわめ、人生のさまざまなありさまや出来事に対しても、我執からはなれて正しい判断・処理のできる、深い心のはたらきをいいます。
そのような〈智慧(ちえ)〉を持つことができれば、自分自身も常に正しい生き方ができると同時に、多くの人々をも正しい道に導くことができるわけですから、菩薩として欠くことのできない、たいせつな条件であるわけです。
そして、このような智慧は、布施から禅定までの五つの徳目を修行することによって完成されるものであると、教えられています。

以上が六波羅蜜であり、現代人のわれわれにとっても、世のため、ひとのために尽くしうる、りっぱな人間になるには、どれ一つとして欠くことのできない条件であり、修行の要目であります。
今のように、せちがらい世の中になりますと、繰り返すようですが、第一の布施の精神と実践が、いちばんたいせつだとおもわれます。
《法華経》の中には、《(だい)()(だっ)()(ほん)》に〈()(こう)(なか)(おい)(つね)国王(こくおう)()って、(がん)(おこ)して()(じょう)()(だい)(もと)めしに、(こころ)退転(たいてん)せず。六波羅(はら)(みつ)満足(まんぞく)せんと(ほっ)するをもって布施(ふせ)(ごん)(ぎょう)せしに、(こころ)(ぞう)()・七(ちん)(こく)(じょう)(さい)()奴婢(ぬび)(ぼく)(じゅう)()(もく)髄脳(ずいのう)身肉(しんにく)手足(しゅそく)(りん)(じゃく)することなく、()(みょう)をも(おし)まざりき〉とあります。
現代語に直せば、「わたしは長いあいだ国王の地位にありましたが、それに満足することなく、無上の悟りを得たいという願いを起こし、それを求めて、いささかも退転することはありませんでした。悟りに達する六つの修行を完成しようとして、まず、その第一である布施を徹底的に行じましたが、そのためには、国王としてのたいせつな乗り物である象や馬も、さまざまな宝物も、自分の住む城も、惜しむことをしませんでした。大事な召使も、家来も、惜しいとは思いませんでした。そればかりか、妻子への愛情をも絶ち、いや自分自身の生命さえ犠牲にしてはばからないと、覚悟していました」
これは、仏さまの前世の身である国王の物語ですが、六波羅蜜の完成をめざして、まず布施ということを徹底的に行じたことに、よく注目しなければなりません。なぜならば、犠牲・奉仕の精神が菩薩の菩薩たる最大の特質であり、また人類の幸福を推し進めるほんとうの智慧は、そうした愛他の精神によってこそ養われるものであるからです。
この精神の欠如が、今の世の中をどんなに味気ない、住みにくいものにしてしまっていることでしょう。個人個人が、あるいはひとつひとつの団体が、自分の権利を主張することばかりに熱心で、利己一点張りの生き方に執着していることが、どんなに人間と人間の心の結び付きを(もろ)くし、人間社会の美しさ・楽しさを弱めていることでしょう。
現代人は、自分だけが幸福になろうと望むために、かえって自分を不幸におとしいれているのです。このところをよくよく考え直し、自分が幸福になるためには、世の中を幸福にしなければならないのだということに、早く気がついてほしいものです。それでないと、人間はいつまでも救われることはないでしょう。
ですから、六波羅蜜を完成するためには、まず布施から実践しなければなりません。これは、前の〈無財の七施〉にもありましたように、だれにでもできることであり、今日(こんにち)ただいまから取りかかれることです。
そして、そのかたわら、持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の完成を目ざして努力するのが、正しい順序であるといえましょう。《提婆達多品》を説かれた当時もそうであったとおもうのですが、現代においては、なおさらその順序は強調されるべきであると信じます。

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