仏教とはどのような教えか
空と三法印
空とは
仏教を知らない人でも、〈色即是空〉とか〈空々寂々〉といったようなことばは、よく耳にし、目にすることと思います。この〈空〉ということこそ、仏教の教えの大事な真理なのであります。
空は、時としては〈無〉と同じ意味に使われ、むなしいとか、虚無とかいったような否定的な意味を持つこともありますけれども、仏法でいう空のほんとうの意味は、〈すべては大調和しており、平等に生かされている〉ということなのです。
縁起観は仏教の根本
この宇宙の万物・万象は、それだけで単独に生じたり、存在したりするのではなく、すべてそれぞれが縁りて起こる(縁起)のであるという〈縁起観〉が、空の教えの根底にあることはいうまでもありません。前にものべましたように、この縁起観こそ釈尊の悟りの一大根本であり、すべての仏の教えは、ここから出ているといってもよいものなのであります。
ところで、この縁起観をもととした空の教えでは、さらに、より深いことが教えられています。
空の教えは仏の慈悲の現われ
つまり、空ということの基本的な意味は、「すべてのものごとは縁起によって存在しているのであって、絶対的存在であるとか、すべてのものごとの根源の存在であるというものはない」ということです。そして、このことを大前提として、さらにもう一歩つっこんで、「この宇宙のすべてのものごとは、仏の慈悲の現われである」と、とらえるのです。そうすると、〈この宇宙の万物・万象には、絶対的な実体というものはないのであるが、仏の目から観ればすべては大調和しており、平等に生かされている〉ということになるのです。
それではこれから、このような空ということの観かたについて説明することにしましょう。
空ということを、ややもすると「すべての物質も、生物も、自分という存在も、すべて実体のないものだ」と、あまりに偏った受けとり方をしてしまうことがあります。そして、なんとなく頼りない感じがし、人生のすべてが虚しいものに思え、いわゆる虚無的になり、なげやりな人生を送ることにもなりかねません。このような状態に落ち込むことを〈空病〉といいます。
四大声聞の懺悔と悟り
《法華経》の《信解品》で、
「世尊のお説法をお聞きしていながらも、ときには身体がだるくなり、もうこれ以上聞く必要もないという気持を起こしたこともございました。そして、〈この世のすべてのものには、絶対的な実体というようなものはなく(空)、固定した相はなく(無相)、つくられたものでもない(無作)のである〉というような思索にばかり心がとらわれておりました」
と、慧命須菩提・摩訶迦旃延・摩訶迦葉・摩訶目犍連の四大声聞が懺悔をしています。四大声聞といわれたほどの人たちですから、なにもなげやりな人生を送るということではありませんでしたが、空ということをこのようにしか理解できずに、あまりに理論的な面にのみとらわれていたために、ほんとうの悟りを得られなかったというわけです。
ところが、《法華経》の《方便品》で、釈尊から〈諸仏出世の一大事因縁〉を説かれ、〈若し法を聞くことあらん者は 一りとして成仏せずということなけん〉と聞かされて舎利弗が真実の悟りを得ました。そのようすを目のあたりにし、さらに、《譬諭品》で〈三車火宅の譬え〉を聞き、〈今此の三界は 皆是れ我が有なり 其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり〉というおことばを聞くに及んで、「ああ、われわれと仏さまの間には決定的な違いがあるとばかり思っていたのに、われわれはまさしく仏さまの実の子であったのだ。われわれ人間も、この宇宙すべてのものごとも、すべて仏さまに生かされている平等な存在であったのだ」と悟ることができたのです。
空をより積極的に受けとる
つまり、空ということをより積極的に受けとり、ついに、ほんとうの悟りを得ることができたわけです。
われわれも空の教えを、このように積極的に受けとることが大切です。先にのべました空ということのほんとうの意味は、〈すべては大調和しており、平等に生かされている〉ということであるとしたのは、このように空ということを、より積極的に受けとったからであります。
このように受けとると、「万物・万象は空であるから、自分も他人もすべて無我であり、平等である。そして、この宇宙のすべては、本仏の慈悲に等しく生かされているのだ。だから、すべての人類は兄弟であり、さらに、すべての生物や物質も、平等に生かされ、そのままで大調和しているのだ。それゆえ、われわれの心さえ本来の姿(仏性)に目覚めれば、すべての生物・すべての物質が大調和した世界がこの世に現出するのだ」ということが心の底から実感できるのです。
ですから、もう、目の前の現象にひきずりまわされて、悩み苦しむということもなくなります。さらに、自分の心を変えることによって、すべての現象が変わってゆくことを悟ることができるようになりますから、心に大歓喜が生ずるのです。そして、これからの人生というものが、まるで変った、光明に満ちたものとなるのです。
空とは、このように積極的に受けとることが、ほんとうの理解のしかたなのです。なお、〈仏性〉ということについては、後ほど詳しく説明しましょう。
こうしたことを、釈尊は《如来寿量品》のなかで、次のように説いておられます。
〈如来は如実に三界の相を知見す。生死の若しは退、若しは出あることなく、亦在世及び滅度の者なし。実に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るが如くならず〉
現代語訳すれば、次のようになります。
「如来は、この世界のほんとうのすがたを、ありのままに見とおしています。すべてのものは、生まれ、かつ、死に、必ず変化するものでありますが、それはただ現象のうえだけのことであって、如来の智慧をもってすべてのものごとの実相を見れば、すべては消え去ることもなく、現われることもありません。また、この世に在るとか、世を去るとかいうことは、本来ないのです。
目の前のものごとが、実際にある(実)と見るのもまちがいであれば、ない(虚)と断定するのも誤りです。また、ものごとが常住する(如)と考えるのも迷いでありますが、現象面だけを見て、常住のものがない(異)と考えるのも浅い見方です。如来は、凡夫のそのようなものの見方を超えて、すべてのものごとの実相を見きわめているのです」
本仏の大慈悲によって、ありのままに生きる
釈尊が空の教えをお説きになったのは、何も学問としてお説きになったのではなく、あくまでも人間も、すべてのものごとも、それぞれ勝手気ままに存在しているのではなく、すべてが本仏の大慈悲によって生かされ、大調和しているのだということ(仏知見)を一切の衆生に開き、示し、悟らせ、仏と同じ境地に入らせようとしてお説きくださったのです。ですから、そのような本仏の大慈悲を素直に受けとり、ありのままのすがた、ありのままの理法に従って生きるのが正しい生き方であるのです。そして、人間のほんとうの幸福は、そういった生き方の上にこそ築かれるものなのです。
三法印
法印とは
仏教の基本的な教えとしてまとめられた〈三法印〉の法印とは、教えの旗印という意味で、「これが仏教の眼目である」と世間へ向かって掲げるスローガンといってもいいでしょう。いわゆる大乗仏教では〈諸法実相〉が法印であり、根本仏教では〈諸行無常・諸法無我・涅槃寂静〉の三法印を掲げているといわれていますが、せんじ詰めれば、先にのべたように、積極的な受けとりかたをした〈空〉の教え、すなわち〈諸法実相〉に帰するものであります。
その三法印について、わたしは次のような大乗的な解釈をしているのであります。
諸行無常
万物・万象が現われるのは、ある原因があって、その原因が、それを助長するような条件(縁)に巡り会った時、それぞれの現象となって現われるのです。ですから、その原因ないし条件が消滅すれば、その現象も消滅してしまいます。従って、この世のすべてのものごと(諸行)は、けっして固定的(常住)なものではなく、常に変化し、生滅するものであります。
これが、〈諸行無常〉という法印です。たいへん明快な教えで、現代の科学にとっても、動かすことのできない基本的な理法であります。仏教では、この理法に基づいて、人間の生きるべき道や、人生に処する心がけが、いろいろと説かれているのですが、その中で最も主になるのは、次の教えです。
現象にとらわれるな
「すべての現象は仮の現われであり、常住のものではなく、いつかは必ず変化するか、消滅するものであることを見きわめよ。そうすれば、自分の身や自分の周囲に起こるさまざまな現象に心を奪われて、あるいは苦しみ悩んだり、あるいは有頂天になって失敗の原因をつくったりすることがない。また、現象にとらわれるために、ひとを苦しめ悩ませたり、ひとを羨み憎んだりすることがない。それゆえ、常にこの諸行無常ということを観じなければならない」
この諸行無常ということを、今までの人は「この世ははかないものだ。当てにならないものだ」というような、厭世的な感じに受けとっていました。たいへん歪んだ受けとり方だったのです。
諸行無常の前向きな解釈
われわれは、自分の職業に精を出して自らの生計を立てると同時に、世の進展に尽くしていかなければならないのですから、そういう後ろ向きの、厭世的な思想やムードを持っていては、どうにもなりません。そこで、現代のわれわれは、この諸行無常の理法を前向きに、明るく、積極的に解釈しなければならないのです。すなわち、
「諸行無常であるといっても、けっして衰滅の一路をたどるものではない。草葉の露が朝日に消えるのは、無に帰してしまったのではなく、水蒸気となって空に上ったのである。その水蒸気は、また、雨となって地上に降り、田畑を潤し、水力電気を起こすエネルギー源となる。蒸発したのは、死滅したのではなく、形を変えたに過ぎない。新生の準備をしているに過ぎない。このように、われわれの住む宇宙というものは、常に無数の衰滅と創造が繰り返され、それらが大きく調和している生きた世界なのである。
流動があればこそ生命があり、創造がある
もし、すべてのものが変化をやめたら、それは永遠の死を意味する。変化があればこそ流動があり、流動があればこそ生命があり、創造もありうるのである。その理をしんから悟ることができれば、単に身辺の諸事情の変化・流動に驚きや不安を覚えなくなるばかりでなく、さらに積極的に、変化・流動を生けるしるしとして喜び迎えることができるのである」
諸行無常の法印をこのように受けとれば、たとえ好ましからぬ変化が身辺に起こっても、それは自分の生命活動が活発に行なわれている証拠だとして、それに立ち向かう勇気がわいてくるのです。このことは、病身の人や、中年以後の人など、つまり、生命力が、あまり豊富でない人にとって、特にたいせつな考え方であるとおもいます。
幼児や少年は、両親や家を失うような大きな不幸にあっても、わりあい明るく、平気にしています。焼け野原の東京のど真ん中に放り出された戦災孤児たちがたくましく生きていった姿が、そのことをよく現わしています。彼らは、大人のように、うちひしがれたり、悲しんだりはしませんでした。路上生活となったり、靴みがきをしたりしながらも、雑草のように強く生きていったのです。幼少年が生命力に富んでいる、いい証拠です。
それに対して、からだの弱い人や、中年以後になると、ちょっとした不幸・不運にもガッカリし、気力を失う傾きがあります。生命力が乏しくなっているからです。
そんな人は、まず、この諸行無常の法印をしっかり胸に刻み込んでおくことです。そうすれば、いかなる変化・流動があっても、それを生けるしるしと受けとり、りっぱに耐えていくことができるでしょう。
創造こそ生きがいである
しかし、われわれは、単に〈不幸・不運といった変化・流動に耐える〉という、この教えの消極的な功徳からさらに一歩進んで、〈変化・流動があればこそ創造があり、創造こそ人生の生きがいである〉という積極的な教訓を、この法印から受けとらねばなりません。
《法華経》の《化城諭品》にある〈化城宝処の譬え〉には、そういった人生の考え方が強くこめられています。至上の宝を求めて困難な旅を続ける人たちが、その苦しさに、うちひしがれて引き返そうといい出したのに対して、神通力を持つリーダーが、行く手に幻の城をつくり現わし、「あの中にはいって休息するがよい」といいました。人々は、その城にはいって、心の安らぎを得ました。
それはつまり、「人生には、いろいろさまざまな苦難があるけれども、それらの現象は仮の現われにすぎず、いつまでもそのままつづくものではないことを悟り、現象に心をふり回されないようにすれば、常に安らかな心境におられるのだ」という教えであります。すなわち、諸行無常の悟りの消極的な功徳であります。
ところが、人々の心が休まったのを見たリーダーは、たちまち幻の城を消してしまい、「宝は、もう少し先にある、元気を出して出発しなさい」と励まします。宝というのは、ほんとうの人間らしい生き方の象徴です。
それでは、そのほんとうの人間らしい生き方とはなんであるかといえば、それは〈創造と調和の生活〉ということです。幻の城の中で得た安らぎは、休息の安らぎです。変化・流動から一時逃避した安らぎです。ですから、いつまでも、そこにとどまっていてはならないのです。変化・流動のないことは、死を意味しているからです。
そこで、人生の旅人は敢然として幻の城を飛び出し、新しい変化・流動の旅路に出発しなければなりません。今までは、外からやってくる変化・流動を受けるという消極的な生き方でしたが、これからの新しい人生は、変化・流動を駆使して価値あるものごとを創造していくという、積極的な生き方に変わったのです。すなわち、諸行無常の理を前向きに活用する生き方なのです。
以上をひっくるめていえば、諸行無常の法印を知ることによって、現象にとらわれる迷いから解脱することができるばかりでなく、人生に立ち向かう勇気と、不幸にめげぬ復元力を得ることができ、また、生きがいの根源である創造の喜びも、そこからこんこんと湧いてくるのであります。
これが、現代人の諸行無常の受けとりかたでなければならないと信じます。
諸法無我
万物・万象はつながって存在する
三法印の第二は、〈諸法無我〉ということです。この宇宙のすべてのものごとは、縁起によって生じ、存在しているのであって、永遠不変の存在(我)は無いという真理です。つまり、それだけで、他となんの関係もなく生じたり、存在したりするものはないということです。すなわち、この世のすべてが、つながりをもち、相依り、相助け合って存在しているわけです。
われわれのからだを例にとっても、人間の肉体は酸素・水素・炭素・窒素といった三十種の元素から成り立っていますが、それらはみな、なんらかの形で地球上の生物・無生物から供給を受け、なんらかの形で、それを返しているのです。一例をあげれば、人間は植物が吐き出してくれる酸素を吸って生きており、植物は、人間その他の動物が吐き出してくれる炭酸ガスを取り入れ、炭水化物に変えることによって、成長するのです。
こう考えてきますと、われわれ人間は、孤立してそれだけで存在するもの(我)ではなく、多くのものが、相依り相助け合って存在しているものだということがはっきりわかってくるはずです。まことにわれわれは、みずから生きているようですけれども、実は目に見えぬ多くのものに生かされているのです。
もちろん人間ばかりでなく、ありとあらゆる生物・無生物ひとつとして〈独立した我〉というものを持ったものはないのです。
この諸法無我という教えを、人生の上に、どう生かさねばならないのか……それは、自ら明らかでありましょう。
まず第一に、自分の食べる物・着る物・住む家、その他身辺のすべてのものが、無数の多くの人々によってつくられ、運ばれ、供給されたものであることを思い、また逆に、自分のはたらきが無数の多くの人々に必ず影響を及ぼすものであることを深く考えなければなりません。
自分の社会生活は、必ずほかの人々の社会生活とつながり合っており、そのつながり合いは、あたかも無数の網を四方八方・上下左右にくまなく張り巡らしたように複雑窮まるものであることを、常に観じていなければなりません。
わがままをすれば、かならず全体に影響がおよぶ
そして、もし自分が、わがままな力を加えて、その網を無理に引っ張ったり、かき回したりすれば、大なり小なり、その網の目はもつれ、あるいは破れて、世の中全体の総合的な活動のバランスに多少とも崩れが生じ、その流れにとどこおりが起こり、混乱に陥るのだ……という自戒の心を持たなければなりません。
みんなが諸法無我を悟らねばならぬ
ただし、自分だけがそのような戒心を持って正しい行ないをしても、世の中のたくさんの人が、その網の目をもつれさせたり、破ったりしたのでは、どうにもなりません。そこで、どうしても多くの人に、この諸法無我の法印を悟らせ、持ちつ持たれつの精神に目ざめさせるように努力しなければならないのです。われわれが必死になって仏法を世に広めようとしているのは、ここに最大の理由があるわけです。
まことに、諸法無我の法印は、人間の社会生活の根本道理であります。「わがままはいけない」「貪欲はいけない」という教えも、この理法に基づくものであり、「天地すべてのものに感謝せよ」「すべての人の恩を感じなければならぬ」という教えも、この抜き差しならぬ真実を根拠としているものであります。
涅槃寂静
涅槃とは
〈涅槃寂静〉というのは、心身の完全な安らぎの状態をいいます。涅槃というのは、前にも述べたように、梵語の〈ニルヴァーナ〉のことであり、ニルヴァーナというのは火を吹き消した状態を指すのです。寂というのは不動ということ、静の意味は、いまさら説明の要はありますまい。
こうみてきますと、涅槃寂静というのは、いかにもシーンと静まり返った、すべての活動が停止した世界のように感じられます。確かに、むかしの一派の人々は、そんな状態を完全な涅槃〈無余涅槃〉だと見ていたこともあります。しかし、それは一部の特殊な信仰者の理想であって、人間みんなが、そんな状態を望むようになったら、この社会は成り立ちはしないのです。
解脱を完成した心の状態
そこでわれわれは、まず第一の段階として、諸行無常の悟りによって世のわずらいに引きずり回されぬ心の安定を得た、つまり、解脱を完成した静安の状態を、涅槃寂静の境地であると考えなければなりません。
しかし、諸行無常の理法もダイナミックに受け止めなければならないのと同じように、現代人の涅槃寂静は、単なる〈静安〉にとどまってはならないのです。
心身が動きを止めた時の安らぎ、これも確かに安らぎです。激しい活動があれば、そのあとにはかならずこうした安らぎが必要です。活動と休息がある快いリズムをもって繰り返されるのが、人間の健康な生活であるといっていいでしょう。ですから、単に静安ばかりを人生の幸福として追い求めるとしたら、これは明らかな考え違いというべきです。前にも述べたように、流動があればこそ生命があるのであって、永遠の静止は、ひっきょう死を意味するのです。
鉱物のように、運動しないものは、死んだものです。他からの力が加わらないかぎり、いつまでも動かずにいるのですから、普通の意味では、生命のない死んだものといってもいいでしょう。もし人間が、心身の静安を人生の第一義として、それを追い求めるならば、つまりは鉱物のような状態を望むことであって、人間に生まれてきた意義をなげうってしまうことになるでしょう。
ほんとうの涅槃は無数の創造が調和するところにある
それでは、人間が求めるほんとうの安らぎとは、どんなものでしょうか。それは、動きの中にある調和であります。ある人の創造のはたらきが、まわりの人々の創造のはたらきとの間にかもし出すハーモニーであり、ちょうどオーケストラのよさにたとえることができましょう。幾つかの楽器が、音色の違った、高低の違った、また強弱の違った音を同時に出して、それがピタリと調和している時、それを聞く者はいうにいわれぬ快さを覚えます。あの調和の快さのようなものが、人間の求める真の安らぎです。
演奏をしない交響楽団は、いくらりっぱな楽員をそろえていても、生きた交響楽団とはいえないように、創造のはたらきをしない人間は、生きた人間とはいえません。さきに諸行無常のところで、創造と調和ということをいいましたが、ひとりびとりの人間が、自分の性格に応じ、才能に応じ、職業に応じて、〈自分をも、他人をも、社会全体をも、しあわせにするものごと〉を絶えず創造していくならば、そういう創造のはたらきは天地の真理に合致したものでありますから、必ず大きなところで調和をかもし出すものです。
ひとりびとりの創造のはたらきが、目に見えぬところで総合され、大きく調和しつつ流れていく。それが調和しつつ流れていくかぎり、人間は内側からわく勤労意欲に刺激されながら、楽しくはたらき、快く生きていくことができる。これが、ほんとうの安らぎです。そして、そのような創造と調和の状態こそが人類究極の理想のすがたであるといわなければなりません。これが、大乗的な涅槃寂静の境地であります。
破調は進歩する道程
現実の世の中をながめてみますと、こういった理想的な調和は、ある場所の、ある人たちの、ある時期には見ることができるのですが、地球上全体の人間が常にこのような理想的な調和をつくり出すことは、ほとんど不可能のように思われます。どこを見ても破調だらけのように見えます。ところが、考えかたによっては、この破調が実は進歩の道程だということができるのです。
たとえば、たくさんの怠け者の間で、ひとりがけんめいにはたらき始めれば、まわりとの調和が破れます。しかし、そのひとりのはたらきにつられて、たくさんの怠け者がはたらき出したとすれば、そこに、より高い、新しい調和が生まれたことになるわけです。それが向上というものです。
多数の人が遅々たる歩みをしている時、あるいは逆行の歩みをしている時、ある少数の人たち(たとえば真の大乗的信仰者の団体など)が、きわだってすぐれたはたらきをすれば、全体との調和が一時破れます。そのような時、多数の人たちを引き上げることによって、より高い調和へ持っていけば、それが進歩というものであります。
このように、〈低い調和→より高いものの出現による調和の破れ→全体の向上による新しい調和〉という運動を繰り返していくところに、人類の進歩があるのです。
理想的な涅槃の境地
最高の理想のすがたをいうならば、調和がひとつも破れることなしに、しかも人類全体が上へ上へと進んでいくという生き方でありましょう。それは、考えの上ではありうることです。ある交響楽団が、一応バランスの取れたよい演奏をする。それにもあきたらず、全員が心を合わせて研究と練習を怠らないならば、同じバランスでも、質的に、内容的に、より高いものへと、しだいに向上していくでしょう。
社会にも、こういうすがたがありうるはずです。ひとりびとりの人間が、それぞれの使命に従って、ひたすらに創造のはたらきをする。しかも、常に人と人との間の連帯意識、すなわち諸法無我の精神をもって、みんなをつなぐ紐帯をしっかり維持していく。お互いが愛し合い、思いやり合って、遅れるものは手を引き、力の足りないものには力を貸し、つりあいを取りながら一緒に歩く。人類全体が、こういう生き方をすることができれば、生々はつらつたる創造と進歩の生活の中に、しかも大きな安らぎを味わうことができましょう。これが涅槃寂静の極致であると信ずるものであります。
以上にのべた三つの法印をしっかり行ずるならば、個人的にも、社会全体としても、必ず正しい救いが実現し、いわゆる寂光土がつくり上げられることはまちがいありません。それゆえ、仏教はこれを旗印として掲げているわけです。