法華経の成立と伝弘
「法華経」はわかりやすい教え
けれども、釈尊がお説きになった当時は、そんなわかりにくいものではなかったのです。釈尊は、神がかりになって一般の人に理解できないような神秘的なことをいいだされたものでもなければ、ひとりよがりの考えを押しつけられたものでもありません。釈尊は、「この世界とはどんなものか。人間とはどんなものか。だから、人間はこの世にどう生くべきであるか。人間どうしの社会はどうあらねばならないか」ということなどについて、長い間考えて考えぬき、そして「いつでも」「どこでも」「だれにも」当てはまる「普遍の真理」に達せられたのです。「いつでも、どこでも、だれにも当てはまること」が、そうむずかしいものであるはずはありません。たとえば、一を三つに分けたものは三分の一である」ということのように、だれにも理解できることなのです。「これを拝めばかならず病気が治る」というような、理性ではわからない、ただ信ずるほかはない教えとは、まるっきりちがうのです。
ところが、一を三つに分けたものは三分の一である」というようなことでも、わかるときがこないとほんとうにはわからないものです。立教大学の教授で、有名な数学者である吉田洋一氏が、こんな思い出話を書いておられます。──小学校三年生か四年生で小数をならって、1÷3=0.3333……といつまでも割り切れない計算にぶつかった。しかし、実際に紙を三つに折ってみるとキッチリ三つに折れる。さぁ、わからない。りくつでは割り切れないのに、実際は割り切れる。さすがに後日数学者になる人だけあって、真剣に「不思議だなぁ」と考えていた。すると、五年生か六年生になって、分数というものをならった。「三分の一」という新しいものの見かたを教わった。これが1を3で割った答だときかされて、はじめはなんだかバカにされたような気がした。しかし、その分数というのがたいへん気に入って、「三分の一」というものをひとつの数として考えようと、とても努力した。おかげで、実際に紙を三つに折ることができるのはちっとも不思議ではないことがわかった──というのです。
仏法も、ちょうどこのようなものです。もともとだれにも必ずわかるはずのものだが、あるところへ達するまでは、ほんのひと息というところでわからない。数学でも、初めから分数のような進んだ考えを教えたらよさそうなものだけれども、まだ小学一年生や二年生に一足飛びにそれを教えてもかえってわからないから、まず一とか二とかいう整数から始め、次に小数を教える。あるいは、三分の一という頭のうえだけの「考え」を教えないで、まず紙を三つに折ってこれが三分の一だよという「実際」を教える。釈尊が当時の人びとを教えられたのも、ちょうどそのように、相手の理解力に応じ、理解の程度に応じて、いろいろさまざまな説きかたをされたのです。たとえ話をされたり、因縁話をされたりしたのです。それで、当時の人びとにはよくわかったのです。「法華経」の文章に現われている表面だけを見て、「実際にはありそうにもない幻のような世界が説かれている、とても信じられない」などと考えるのは、じつに浅い読みかたであって、その精神を読めば、非常に近代的な、科学的な、人間的な真理に満ちているのに驚かざるをえないでしょう。
重ねて申しますが、釈尊の教えは当時の人びとにはとてもよくのみこめたのです。よくのみこめたから、当時の人びとの人生をすばらしいものに一変させたのです。そうでなければ、五十年の短いあいだに、あれだけ多くの人びとが心から帰依するはずがありません。しかも、釈尊の教団は、「きたる者は拒まず、去る者は追わず」というきわめて自由なものだったといいます。「法華経」の「方便品第二」にでてくる「五千起去」もその例で、五千人もの弟子が一時に法座から立ち去っていっても、釈尊はそれをお止めにならなかったのです。こうして、無理に引っぱっていくことも、押しとどめることも一切されなかったにもかかわらず、みるみるうちに帰依者の数が何万何十万となっていったことは、釈尊その人のならぶものもない感化力や説得力にもよったことはもちろんですが、何よりも教えそのものが尊く、そしてだれにもよく解ったからにほかなりません。
ところが、釈尊のこの徹底した自由主義は、その入滅後に一時ちょっとこまった状態をひきおこしました。というのは、入滅されるときの遺言も、ただ「すべての現象は移り変わるものだ。怠らず努めるがよい」という一言だけで、だれがどんなふうに教団をまとめていけよというようなことは、一言もおっしゃらなかったのです。残された弟子たちは、地区ごとに自然なまとまりをもって、釈尊の教えを守っていました。しかし、教義の統制ということがなかったために、広いインドのそれぞれの地区で、あるいはそれぞれのグループで、教えに対する解釈がすこしずつちがっていたのです。
そのちがいを大づかみにいえば、釈尊が自らよくお出かけになって説法なさったところでは、法の解釈も正しく伝えられていましたが、釈尊から直接に説法をきかず教えだけが伝わっていったような場所では、伝える人の考えかたが加わって、かなりちがった形式で伝えられたようです。これは、場所や人の問題だけでなく、時間的にもそういうことがいえるので、釈尊ご在世中や入滅後しばらくのあいだは血のかよった生きた教えだったのが、だんだん年月がたつうちに、ほんとうの精神が失われて、形だけしか伝えられないという結果になったのは、ご存じのとおりです。
さきに「一時ちょっとこまった状態をひきおこした」と書いた「一時」というのは、けっして百年や二百年のことだけではなく、二千数百年たった今日までのことをもいったのです。永遠の生命(仏の無量寿)ということから考えれば、二千数百年などほんの「一時」なのです。中国から日本へ伝わった仏教は、高僧・名僧の出るごとに、一時は潮が満ちてくるように生き生きした力をもったこともありましたが、その潮もしばらくのうちにスーッと引いていってしまうのでした。日蓮聖人は、日本の仏教に生命を吹きこまれた最もすぐれたお方であると信じていますが、その入寂後年月がたつうちに、やはりその教えもゆがめられたり、形だけのものになってしまったのです。
さて、釈尊が入滅されたすぐあとのインドでも、前にも述べましたように、場所により、弟子たちのグループによって、教えの解釈がちがってきました。ことに出家の人びとは、在家の人びとのできないようなことを行なったり、説いたりして、出家の権威をつくろうとしました。ご在世中は、「法華経」の中にも毎度でてきますように、比丘(男の出家)、比丘尼(女の出家)、優婆塞(男の在家修行者)、優婆夷(女の在家修行者)たちがみんないっしょに説法をきき、修行し、なかよく法の弘通につとめたのですが、いつのまにか出家と在家とのあいだにみぞができてきました。
どんなみぞができたかといえば、出家の一部の人びとは、「なぜ戒律(仏教者の生活の戒め)を守らなければならないか」という根本精神よりも、ただ「戒律を守ること」だけを重んずるようになりました。すなわち形式主義です。
また、もともと生きた人間のための、人間生活のための教えであったのを、当時インドにあったほかの教えや学問に対抗するために、わざわざひどくむずかしい哲学につくりあげてしまった出家たちもあります。
また一方では、「とても釈尊のいわれるようにすべての人びとを仏の境地まで導くことはできない。われわれも、とうてい仏のようなえらい人にはなれない。ただ、自分がこの世の苦しみや悩みから解脱すればいいのだ」という、利己的な考えに落ちこんだ人たちもあります。
こうしてゆがめられ、生き生きした力を失ってゆく仏法を見て、「このままにしておいてはいけない、どうしても釈尊のほんとうのお心にかえさねばならぬ」という熱烈な願いが、主として在家信者のあいだに起こってきました。そうしてできた新興グループが、大乗仏教の教団なのです。大乗というのは、「よい乗りもの」という意味で、仏の世界に達するためのよい乗りものであるというわけです。
そして、いままでの古い教団の考えかたを「小乗」(粗末な乗りもの)といって軽蔑しましたので、古い教団でも負けてはいず、「おまえたちのいうのはほんとうの仏教ではない」とやり返し、両方ははげしく対立しました。