法華経のあらましと要点
方便品第二
この品は、《如来寿量品第十六》とともに、むかしから《法華経》の大きな中心をなすものとされています。なぜ、そんなにたいせつなのでしょうか。そのことに気を配りながら、まずこの品のあらましをたどってみることにしましょう。
ずっと三昧にはいっておられたお釈迦さまは、ようやくそれを終えられますと、だれの質問をも待たずに、説法をおはじめになりました。まずお釈迦さまは、〈仏の智慧というものはひじょうに奥深いものであって、この宇宙のギリギリの根本真理を悟ったものである〉、そして、〈その根本真理はあまりにも深遠でふつうの人には理解できないので、これまでは人びとの理解力に応じてさまざまな教えに説き分けてきた。人びとはそれによっていちおうは救いにたっしたけれども、それらの教えの奥にある真意はだれも知らなかった〉ということを力説されます。
十如是と一念三千
ここまでお説きになりますと、急に黙りこんでしまわれました。ややあって、ふたたびお口をひらかれ、つぎのようにおおせだされたのです。
「やめよう。舎利弗。これを説明してみても、わかるはずがないとおもいます。なぜならば、わたしが究めた真理というものは、仏と仏とのあいだでしか理解することのできないものであるからです。それは、この世のすべての現象(諸法)には、もちまえの相(すがた形)があり、もちまえの性(性質)があり、もちまえの体(現象のうえでの主体)があり、もちまえの力(潜在能力)があり、その潜在能力がはたらきだしていろいろな作(作用)をするときは、その因(原因)・縁(条件)によって千差万別の果(結果)・報(あとに残す影響)をつくりだすものであるが、それらの変化はただひとつの真理にもとづくものであり、現象のうえでは千差万別に見えるけれども、その相から報まではつねに等しい(本末究竟等)のである……ということです」
これが、〈略法華〉ともいわれる〈十如是〉の教えです。〈諸法実相〉ということを端的にいいあらわしたものです。この教えからわれわれの人生を考えてみると、次のように解説することができます。
まず第一に、われわれ人間にはそれぞれ個性というものがあります。すなわち、もちまえの相・性・体をもっているわけです。そして、その相・性・体にふさわしい能力と作用があります。それが力・作です。しかし、これらは、けっして固定的で不変のものではないのです。どうにでも流動・変化させうるものなのです。
われわれは、ともすれば自分の個性は「どうにもならぬものだ」と思いこみがちですが、「そうではない。原因(因)に条件(縁)をあたえさえすれば、それにふさわしい結果(果)や影響(報)があらわれてくるものであり、個性というものも変えられるようにできているのだ」ということが、この〈十如是〉によって教えられているのです。
したがって、人間の心のなかには仏の境地へ上がれる可能性も内在しており、逆に、地獄へ落ちる可能性も内在していることになります。このことを天台大師は拡大解釈して、〈一念三千〉という教えとして説かれています。人間の心のもちかたひとつで、三千の世界(ありとあらゆる世界)が変わるというのです。ですから、この〈十如是〉の教え、〈一念三千〉の教えを理解できれば、「この自分はどうにも変えようがない」と思っていたのに、「いや、どうにでも変えることができるのだ。仏にさえなりうるのだ」とわかります。こんなにありがたいことはありません。われわれの人生は一変して、輝かしい光明に満ちあふれたものとなり、「よし、やろう」という決意をもたざるをえなくなるのです。こうしたことから古来、この〈十如是〉の教えを〈略法華〉とよんで尊んでいるわけです。
しかし、この〈十如是〉が、いきなりお釈迦さまによって説かれたこの時点では、このように自分の人生にあてはめて考えるなどということはできようはずもありませんでした。ですから、その場にいた一同は、あまりのむずかしさに、ただポカンとしているばかりです。
さらにお釈迦さまは、これまでに説いてきた方便の教え(それぞれの人と場合に即した適切な教え)も、つまりはそのような仏の智慧から出たものにほかならないのだ──と、こんどは方便というものの尊さについてさかんに強調されるのです。
ますますわからなくなりました。一方では仏さまの悟られた最高至上の真理についてお説きになるかとおもえば、一方ではグッと身近な方便の教えを賛歎される……そこにどんなつながりがあるのか、頭がこんがらがってしまいそうな気持です。
三止三請
たまりかねた舎利弗が、そのことについておたずねしますと、お釈迦さまは、「それを説明すれば、かえっておおくの人が疑惑におちいるだろうから、やめておいたほうがよかろう」とおっしゃって、お答えになりません。熱心な舎利弗は、三度もことわられたのに、あくまでもすがりつくようにしてお願いしたのです。
お釈迦さまも、もともとこの法を説いてあげなければ……というお気持があられたからこそ、だれの質問をも待たずに説法をおはじめになったのですから、こうしてためらいをお見せになったのは、じつは人びとにしっかり聞こうという気がまえをつくらせるお心づかいにほかならなかったのです。そこで、舎利弗の熱心な願いによって、一同の心にも覚悟ができたとごらんになると、いよいよご説法をはじめようとされました。
五千起去
すると、どうしたことでしょう。お釈迦さまがお口をひらかれたとたんに、一座にいた五千人の人たちがにわかに立ちあがって、退場してしまったのです。お釈迦さまは、じっとそれをごらんになったまま、止めようともされませんでした。そして、それらの人びとがすっかり退場してしまうのを見とどけられてから、ふたたび説法をはじめられたのです。
一大事の因縁 開・示・悟・入
そのいちばんかんじんなところを抜粋しますと、
「仏というものは、ただひとつのだいじな目的のために、この世に出現するのです。それはなにかといえば、万物万象の実相をみとおしている仏の智慧に、すべての人の目をひらかせ、清らかな心を得させようという願いのためです〈開〉。また、そういう仏の智慧の広大無辺さを、すべての人に示そうという願いのためです〈示〉。また、そういう仏の智慧をすべての人に、自らの体験によって身にしみて悟らせようという願いのためです〈悟〉。また、そういう仏の智慧を成就する道へ、すべての人を導き入れようという願いのためです〈入〉。このことを、もろもろの仏はただ一つの大事な目的をもって、この世に出現されるというのです」
このように、お釈迦さまはここではじめて、諸仏出世の一大事の因縁を明らかにされたわけです。
開三顕一の宣言
つづいてお釈迦さまは、開三顕一(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗を開いて、一仏乗を顕わす)の宣言をなされます。
「結論をいいましょう。もろもろの仏は、ただひたすら菩薩を教化されるのです。さまざまな方法をもって説かれるのも、ただ諸法実相を悟る仏の智慧を、衆生に悟らせるためなのです。ただこの一事のためにほかならないのです。如来は〈すべての人を平等に仏の境地へ導く〉というただ一つの目的のために、衆生に対して教えを説かれるのです。真実はほかにありません。二つの教えとか、三つの教えとか、そういう区別は本来ないのです」
「わたしは、いまだかつて、『あなたがたは、かならず仏になることができるのだ』と説いたことはありませんでした。それは、まだ説くべき時期ではなかったからで、今こそまさにその時です。決心して最高の教えである大乗を説くのです」
「わたしが説いてきたさまざまな方便の教え(九部の教え)は、人びとの機根に合わせて説いてきたものです。それらは、大乗の教えに入る手がかりとしての教えだったのです。心が清く柔輭で、真理に対して素直であり、仏の説かれる教えを正しく行 じている人がおおぜいできた今、その人たちのためにわたしは、大乗の教えを説くのです」「たとえば、ある人が仏塔を拝んでひとこと『南無仏』と唱えたとしても、あるいは子どもが木の枝で地べたに仏の絵をいたずら書きしたとしても、それが仏となる縁になるものであって、そのような、一見つまらぬようなことでも、やはり最高真実の道すなわち〈仏となる道〉につながっているのです。ですから、けっして方便というものを軽んじてはなりません。〈方便すなわち真実〉ということを忘れてはならないのです」
「いわんや、いままでわたしが無上の真理にもとづいて説いてきた〈九部の教え(小乗の教え)〉を、素直に聞いて、清らかな心になっているみなさんは、明らかに〈仏となる道〉を歩んでいるのです。みんな菩薩なのです。この真実を悟り、それに大いなる喜びをおぼえるならば、みなさんは将来かならず仏になることができるのです」
こうお説きになって、この品の説法は終わりとなります。
法華経のあらましと要点
無量義経
- 無量義経とは
- 徳行品第一
- 説法品第二
- 十功徳品第三
妙法蓮華経
- 序品第一
- 方便品第二
- 譬諭品第三
- 信解品第四
- 薬草諭品第五
- 授記品第六
- 化城諭品第七
- 五百弟子受記品第八
- 授学無学人記品第九
- 法師品第十
- 見宝塔品第十一
- 提婆達多品第十二
- 勧持品第十三
- 安楽行品第十四
- 従地涌出品第十五
- 如来寿量品第十六
- 分別功徳品第十七
- 随喜功徳品第十八
- 法師功徳品第十九
- 常不軽菩薩品第二十
- 如来神力品第二十一
- 嘱累品第二十二
- 薬王菩薩本事品第二十三
- 妙音菩薩品第二十四
- 観世音菩薩普門品第二十五
- 陀羅尼品第二十六
- 妙荘厳王本事品第二十七
- 普賢菩薩勧発品第二十八
仏説観普賢菩薩行法経
- 仏説観普賢菩薩行法経