法華経のあらましと要点

授学無学人記品第九

五百(にん)というたくさんのお()()たちが(じゅ)()されたのに、(じゅう)(だい)()()のなかにはいっている()()()(お(しゃ)()さまのひとり())と()(なん)(お(しゃ)()さまの(いと)())の(ふた)()は、「どうしてわれわれには(ちょく)(せつ)(じゅ)()されないのだろうか」と、(さび)しい()(もち)になっていました。おもいあまって、(ほとけ)さまにそのことをお(ねが)いいたしますと、(ほとけ)さまはそくざに(じゅ)()されました。と(どう)()に、たくさんの(がく)(まだ(まな)ぶことの(のこ)っている(しゅ)(ぎょう)(しゃ))・()(がく)(もはや(まな)ぶべきことは(まな)びつくしてしまった(しゅ)(ぎょう)(しゃ))にも(じゅ)()されました。
この(ほん)は、ただそれだけのことが(じょ)(じゅつ)されているにすぎないように()えますが、われわれはこのなかから、二つの(きょう)(くん)をくみとることができるとおもいます。

(ぶっ)(しょう)()(かく)しさえすれば(ほとけ)になれる

(だい)一は、まだ(まな)ぶべきことの(のこ)っている、いわば()(なら)いの(しゅ)(ぎょう)(しゃ)までも(じゅ)()されたということです。(いっ)(けん)()()()なようですけれども、よく(かんが)えれば()()()でもなんでもありません。すべての(にん)(げん)はひとしく(ぶっ)(しょう)をもっているのであり、その(ぶっ)(しょう)(あき)らかに、そして(かん)(ぜん)()(かく)しさえすれば、(ほとけ)になれるからです。

()(ぢか)(ひと)(きょう)()はむずかしい

(だい)二は、(じゅう)(だい)()()のなかにさえはいっている()()()()(なん)が、なぜほかの(ひと)よりずっと(おく)れて、ようやく()(なら)いの(しょう)(もん)たちといっしょに(じゅ)()されたのか……ということです。
釈迦(しゃか)さまのみ(こころ)のうちを推察(すいさつ)してみますと、()()()はお釈迦(しゃか)さまの実子(じっし)であること、()(なん)もご()(ぶん)従弟(いとこ)であり、二十(すう)(ねん)(かん)いつもおそばに(つか)えていたものであり、(りょう)(ほう)ともお(しゃ)()さまにとって、いちばん()(ぢか)(ひと)であることに、かえって(しゅ)(ぎょう)のためのマイナスの(よう)()がかくれていることを(こう)(りょ)()れて、それをすべての(ひと)にお(しめ)しになるために、わざと(おく)らされたのではないかと(かんが)えられます。
()(なん)()(あい)は、いつもおそばにいて、(しょく)()()()もする、(すい)(よく)をなさるときは()(なか)をお(なが)しするといった(たち)()にいますと、(ほとけ)としてのお(しゃ)()さまの(えら)さや、その(おし)えの(とうと)さと、ふつうの(にん)(げん)としてのお(しゃ)()さまのお姿(すがた)とがまじりあって、どうしても、()のお()()たちのような(じゅん)(すい)()()ということが(こん)(なん)になるのがふつうです。
()()()場合(ばあい)にしても、おとうさんがどのように(とうと)(ひと)であっても、(がい)()(ひと)(こころ)から(そん)(けい)しているのとおなじような()(もち)(にく)(しん)(ちち)(たい)することはなかなかできないものですし、また(あま)(ごころ)もまったく()こらないとはいいきれません。
このことから、(ぎゃく)(かんが)えますと、われわれが()(ぢか)のもの、すなわち(つま)とか(おっと)とか、()とか(おや)とかを(きょう)()することが、いちばんむずかしいのだということになります。(くち)(さき)だけでみちびこうとしても、とうていできるものではありません。(にち)(じょう)(せい)(かつ)のじっさいの(おこ)ないによって(かん)()するほかはないのです。
その(おこ)ないも、りっぱなのはときたまにすぎず、ふだんはわがままな(おこ)ないや、みにくい(おこ)ないがおおいようでは、(かん)()(じつ)はあがらないのであって、(ぎょう)(じゅう)()()にいい()(ほん)()せなければ、()(ぞく)のものや、おなじ(しょく)()(ひと)は、ついてくるものではありません。
()(なん)()()()は、ほかの(だい)()()より(さと)りが(おそ)かったとも(つた)えられていますが、しかし、〈()(ひゃく)()()〉より(おく)れていたとはどうしても(かんが)えられません。やはりそこには、(ぜん)(じゅつ)のようなお(しゃ)()さまの(ふか)いご(はい)(りょ)があったものと(すい)(そく)せざるをえません。また、そのように()けとるのが、(こう)(せい)(ぶつ)()()としての(ただ)しい(たい)()であると(しん)じます。

(ほん)(がん)

この(ほん)では、もう一つ(たい)(せつ)なことが(おし)えられています。それは、(しん)発意(ぼっち)()(さつ)八千(にん)にたいし、(しゃく)(そん)()(なん)(じゅ)()にことよせて、〈()(ほん)(がん)(かく)(ごと)し〉と()べられたことです。
(ほん)(がん)〉というのは、(ぶつ)()(さつ)()()()において、(いっ)(さい)(しゅ)(じょう)(すく)おうとして()てられた(せい)(がん)をいいます。たとえば、(しゃ)()()()(ぶつ)()(ひゃく)(たい)(がん)を、()()()(ぶつ)()(じゅう)(はち)(がん)を、(やく)()(ぶつ)は、(じゅう)()(がん)()てられたといいます。
(しん)発意(ぼっち)()(さつ)たちは、(げん)()()まれ()わってからはそれを(わす)れてしまっていたのですが、()()()においては、(いっ)(さい)(ひと)びとを(きょう)()(ぶつ)(どう)(じょう)(じゅ)せしめようという(がん)()てていたのです。そして、いま()()(きょう)のお(せっ)(ぽう)()くことによって、その(ほん)(がん)にたちかえったわけです。ですから、ここでいよいよ(じょう)(ぶつ)()(しょう)(さず)けられたわけであります。
このことは、われわれにもそのままあてはまります。この(ほん)(がん)にたちかえったものこそが(しん)()(さつ)であり、(ほっ)()なのです。

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