法華経のあらましと要点

従地涌出品第十五

この(ほん)から、いよいよ(ほとけ)というものが(あき)らかにされる〈(ほん)(もん)〉にはいります。この(ほん)(ぜん)(はん)(ほん)(もん)(じょ)(ぶん)(じょ)(しょう))で、その(こう)(はん)から、つぎの《(にょ)(らい)寿(じゅ)(りょう)(ほん)(だい)(じゅう)(ろく)》の(ぜん)()、そのつぎの《(ふん)(べつ)()(どく)(ほん)(だい)(じゅう)(しち)》の(ぜん)(はん)までのいわゆる〈(いっ)(ぽん)()(はん)〉が、(しょう)(しゅう)(ぶん)(ほん)(ろん))となるわけです。

()(ほう)()(さつ)(せい)(がん)

さて、()(そん)が《(あん)(らく)(ぎょう)(ほん)(だい)(じゅう)()》の(せっ)(ぽう)()えられますと、()(ほう)(ぼう)(こく)()からきていた()(すう)()(さつ)たちが()ちあがり、「もしおゆるしくださいますならば、わたくしどももこの(しゃ)()()(かい)にとどまり、()(そん)のご(にゅう)(めつ)()もこの(おし)えを()()し、()きひろめたいとぞんじますが、いかがでしょうか」ともうしあげます。
()(そん)は、「お(こころざし)はありがたいが、その(ひつ)(よう)はありません。この(しゃ)()()(かい)には、ずっとむかしから()(すう)()(さつ)たちがおり、()()(きょう)()きひろめる(やく)()はその(ひと)たちがやってくれるからです」とお(こた)えになりました。

()()()(さつ)(しゅつ)(げん)

その(しゅん)(かん)(だい)()()(すう)()()ができ、そこから、ほとんど(ほとけ)(ちか)いような()(そう)をそなえた()(さつ)たちが、かぞえきれないほど()きだしてきたのです。そのなかの()(どう)(しゃ)(かく)である(じょう)(ぎょう)()(へん)(ぎょう)(じょう)(ぎょう)(あん)(りゅう)(ぎょう)という()(だい)()(さつ)は、お(しゃ)()さまのまえにすすみ()て、ご(あい)(さつ)をもうしあげますと、お(しゃ)()さまは、たいへん(した)しげにそれにお(こた)えになります。

()(ろく)()(さつ)()(もん)

そのありさまを(はい)していた、()(ろく)()(さつ)をはじめとする(しゃ)()()(かい)()(さつ)たちは「このようなりっぱな()(さつ)がたは、いったいどこからこられたのか、どういう(いん)(ねん)(ひと)たちなのか」という()(もん)()こしました。そして、()(ろく)()(さつ)がそのことをお(しゃ)()さまにおたずねいたしますと、「(だい)()から()きだしたこれらの()(さつ)たちは、わたしが(しゃ)()()(かい)において(さと)りをひらいてから(きょう)()したもので、いままで(しゃ)()()(かい)(した)()(くう)(じゅう)していたのです。そして、この()(さつ)たちは、はるかなむかしからわたしが(きょう)()してきたのです」とお(こた)えになります。
さあ、いよいよわからなくなりました。お(しゃ)()さまが(さと)りをおひらきになってから、まだ四十()(ねん)しかたっていないのに、ほとんど()(すう)ともいうべきこの(ひと)たちを、しかも(ほとけ)さまに(ちか)いほどのりっぱな()(さつ)(そだ)てあげられたということは、どうしても()()ちません。それに、ながいあいだ(ほとけ)さまのおそばにつかえていたのに、この(ひと)たちをいっぺんも()たことがないのです。
かとおもうと、こんどは「じつは、はるかなむかしから(きょう)()してきたものである」とおっしゃるのですから、まったく(あたま)がこんがらかってしまいそうです。たまりかねた()(ろく)()(さつ)(そっ)(ちょく)にそのことをもうしあげて、(おし)えを()うところで、この(ほん)()わっています。

(ほん)()()(さつ)(しゃっ)()()(さつ)

ここで、(ほん)()()(さつ)(しゃっ)()()(さつ)について、のべておきたいと(おも)います。
(しゃっ)()()(さつ)とは、(しゃく)(ぶつ)(きょう)()された()(さつ)たちのことをいいます。(しゃく)(ぶつ)とは、インドにお()まれになり、()(だい)(じゅ)()(さと)りをひらかれたお(しゃ)()さまのことです。ですから、(しゃっ)()()(さつ)とは、この()(せい)をうけた(にん)(げん)である()(さつ)なのです。
(ほん)()()(さつ)とは、(ほん)(ぶつ)(きょう)()された()(さつ)たちのことをいいます。(ほん)(ぶつ)とは、いうまでもなく、この(あと)の《(にょ)(らい)寿(じゅ)(りょう)(ほん)》において(かい)(けん)される()(おん)(ほん)(ぶつ)のことです。その(ほん)(ぶつ)(きょう)()されたのが、(ほん)()()(さつ)である()()()(さつ)であったのです。ですからまだ、()(りょう)寿(じゅ)(みょう)をもつ()(おん)(ほん)(ぶつ)のことを()らない()(ろく)()(さつ)たちは、お(しゃ)()さまのいわれたことが(なに)がなんだかわからなかったのです。
このように(ほん)()()(さつ)(しゃっ)()()(さつ)には、はっきりとしたちがいがあり、(ほん)()()(さつ)である(じょう)(ぎょう)(とう)()()(さつ)をはじめとする()()()(さつ)が、いかにすばらしい()(さつ)であるかが、ここで(くち)をきわめて()めたたえられております。
なぜここで、(ほん)()()(さつ)のりっぱさが(きょう)調(ちょう)されているのかといいますと、〈(ほん)()()(さつ)たる()(かく)〉をもつものが、いかに(とうと)くすばらしい(そん)(ざい)であるかを、(つよ)(いん)(しょう)づけるように(ひょう)(げん)したかったからです。そして、すべての(ひと)に〈()()()(さつ)のような、すばらしい(そん)(ざい)になりたい〉というあこがれと、(ねが)いをもってほしかったからに(ほか)なりません。ですから、ここでひとつの(ふく)(せん)として、このような(ひょう)(げん)がなされたのです。
つまり、このあとの《(にょ)(らい)寿(じゅ)(りょう)(ほん)》で(あき)らかにされることですが、この()(せい)をうけたお(しゃ)()さまご()(しん)が、()(おん)(ほん)(ぶつ)そのものであるわけです。ですから、お(しゃ)()さまがまさしく()(おん)(ほん)(ぶつ)であることを()り、()(ぶん)がその(ほん)(ぶつ)(じっ)()であることをしんそこから(かく)(しん)し、(ほん)(ぶつ)として()かれたこの()()(きょう)(じっ)(せん)するならば、すでにその(ひと)(なま)()(にん)(げん)でありながら、(ほん)()()(さつ)なのであります。
それゆえ、(しゃっ)()()(さつ)(ほん)()()(さつ)(ほん)(らい)はひとつであり、けっして(べつ)のものではないのです。
したがって、(げん)(だい)のわれわれも、お(しゃ)()さまの(おし)えを(まな)び、(じっ)(せん)し、その(ひと)(のう)(りょく)(はん)()(ない)だけで()(ひと)(すく)うはたらきをするだけならば〈(しゃっ)()()(さつ)〉であり、もし「()(ぶん)()(おん)(ほん)(ぶつ)(きょう)()された()()()(さつ)であり、(ほん)(らい)(ほん)(ぶつ)(いっ)(たい)()である」ということをしんそこから()(かく)し、(ほん)(ぶつ)(ほん)(がん)()(ぶん)(ほん)(がん)として、()()(きょう)(せい)(しん)をもって()(さつ)(ぎょう)(おこ)なえば、(おこ)なう(しょ)()はおなじでも、りっぱな〈(ほん)()()(さつ)〉であります。(しゃっ)()()(さつ)(ほん)()()(さつ)は、(そと)から()ればおなじような(しん)(こう)(けい)(たい)をとっているように()えますけれども、その(しん)(こう)(ない)(よう)にたちいってみると(かく)(だん)のひらきがあり、それが(きょう)()(きゅう)(さい)のはたらきにあらわれてくるわけです。

()()()(さつ)()()

この(ほん)にとつぜんあらわれてきた〈()()()(さつ)〉については、いろいろな()かた(かんが)えかたがありますが、とくにつぎの三つのことがたいせつだとおもいます。
(だい)一に、お(しゃ)()さまが、()()(かい)からきている()(さつ)のもうし()をことわられて、()()()(さつ)にこの(しゃ)()()(かい)(きょう)()(まか)せられたということ。
それはつまり、〈どの()(かい)でも、そこに()んでいる(ひと)びと()(しん)()(りょく)によってその()(かい)(へい)()にし、()(しん)()(こう)(ふく)(せい)(かつ)(きず)きあげていかねばならない〉という(おし)えです。
(だい)二に、(しゃ)()()(かい)(した)()(くう)(じゅう)して、(さと)りの(きょう)()(たの)しんでいた()(さつ)たちが、お(しゃ)()さまのお(こえ)(おう)じて、(だい)()をくぐりぬけて(しゅつ)(げん)したということ。
(しゃ)()()(かい)(した)()(くう)〉に(じゅう)している()(さつ)というのは、たしかにこの()(ひと)でありながら、〈(くう)〉の(さと)りに(あん)(じゅう)し、その(さと)りを(にん)(げん)()(かい)(きゅう)(さい)のために(はつ)(どう)せずにいる(ひと)です。〈(くう)〉の(さと)りとは、(にん)(げん)(そく)していえば、〈(にん)(げん)(ほん)(しつ)(びょう)(どう)(ぶっ)(しょう)である〉ということですから、たしかにこの(しん)()(さと)っているけれども、(うち)にその(さと)りを(たの)しんでいるだけで、(そと)へむかってはたらきかけようとしない(ひと)です。それでは、その(ひと)()(しん)(けが)れのないりっぱな(ひと)ですけれども、(しゅ)(じょう)(きゅう)(さい)(やく)には()たないのです。
どうしても、(いち)()(だい)()をくぐりぬける(ひつ)(よう)があります。すなわち、(げん)(じつ)(しゃ)(かい)(せい)(かつ)(たい)(けん)し、(けが)れと(にご)りのなかであえいでいる(たい)(しゅう)のなかに()びこみ、その(くる)しみ(なや)みにじかに()れる(ひつ)(よう)があるのです。そうしてこそ、ほんとうに(にん)(げん)()(どう)し、(きゅう)(さい)することができるわけです。つまり、(かん)(ねん)(ろん)だけではだめで、(げん)(じつ)(そく)さなければ()きた(にん)(げん)(すく)えないということです。
(だい)三に、それらの()()()(さつ)たちの()(どう)(しゃ)(かく)である()(だい)()(さつ)に、(じょう)(ぎょう)()(へん)(ぎょう)(じょう)(ぎょう)(あん)(りゅう)(ぎょう)と、すべて〈(ぎょう)〉という名がつけられているということ。
()()(きょう)》の(ぜん)(はん)は、(しゅ)として()(おし)えであり、()()(おし)えでしたが、その(ぜん)(はん)(せっ)(ぽう)()わったとたんに、これらの〈(ぎょう)()(さつ)〉が()(すう)(しゅつ)(げん)したというのは、いうまでもなく、(おし)えは(じっ)(せん)しなければなんにもならぬということにほかなりません。(ぜん)(はん)(しゃく)(もん)(せっ)(ぽう)()かれた(しょ)(ほう)(じっ)(そう)()()(げん)(じつ)(せい)(かつ)にあらわし、()()(おこ)ないとして(じっ)(せん)する(こう)(どう)(しゃ)こそ、(しん)()(さつ)であり、ほんとうに(ほとけ)(おし)えをこの()()かす(ひと)なのです。このことは、(げん)()のわれわれにもそっくりそのままあてはまることですから、よくよく(こころ)しなければならないことだとおもいます。

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