法華経のあらましと要点

妙音菩薩品第二十四

薬王菩薩本事品第二十三(やくおうぼさつほんじほんだいにじゅうさん)』の(せっ)(ぽう)()えられたお(しゃ)()さまは、(あたま)(ちょう)(じょう)()(けん)(びゃく)(ごう)(そう)から(だい)(こう)(みょう)()()(ひかり))をお(はな)ちになりました。

(みょう)(おん)()(さつ)(しゃ)()()(かい)(らい)(ほう)

すると、はるか(とう)(ほう)(じょう)(こう)(しょう)(ごん)という(くに)(じょう)()宿(しゅく)(おう)()(にょ)(らい)という(ほとけ)さまがおられ、そのお()()(みょう)(おん)というすばらしい(だい)()(さつ)がおられるのが()えてきました。その()(さつ)はその(ほとけ)さまに、「(しゃ)()()(かい)へいって(しゃ)()()()(ぶつ)(らい)(はい)し、(だい)()(さつ)たちとも(かた)()ってみたいとぞんじます」ともうしあげます。
すると、その(ほとけ)さまは「よろしい。いってきなさい。しかし、(しゃ)()()(かい)はこの(くに)にくらべてたいへん(きたな)く、(ほとけ)さまのおからだも(ちい)さいために、あの(くに)(ぶつ)()(さつ)(こく)()(かろ)んずる()(もち)()こりやすいのですが、それはたいへんなまちがいだから、()をつけなさい」とおさとしになります。(じょう)()宿(しゅく)(おう)()(にょ)(らい)のせいの(たか)さは六百八十万()(じゅん)もあり、(みょう)(おん)()(さつ)すら四万二千()(じゅん)もあり、()(こん)(じき)(かがや)いているのですから、(しゃ)()(ぶつ)()(さつ)とは(くら)べものにならないわけです。
ところが、その(うつく)しくも()(だい)なすがたの(みょう)(おん)()(さつ)(りょう)(じゅ)(せん)(とう)(ちゃく)するや、お(しゃ)()さまのみ(まえ)にひれ()して(らい)(はい)し、ていねいに(あい)(さつ)もうしあげたのです。そして、「()(ほう)(にょ)(らい)をも(はい)したいのですが、()(そん)のお(ちから)でお()にかからせていただけませんでしょうか」とお(ねが)いいたします。お(しゃ)()さまがそのことを()(ほう)(にょ)(らい)(つた)えられますと、たちまち「よくぞ(しゃ)()()()(ぶつ)()(よう)にきました」という()(ほう)(にょ)(らい)のおほめの(こと)()(ひび)いてきました。
このありさまに()()()(かん)をおぼえた()(とく)()(さつ)が、お(しゃ)()さまにわけをお(たず)ねしますと、お(しゃ)()さまは、(みょう)(おん)()(さつ)()()()において(うん)(らい)(おん)(のう)(ぶつ)という(ほとけ)さまに、一万二千(さい)のあいだ(おん)(がく)(そう)し、(はち)(まん)()(せん)(しっ)(ぽう)(うつわ)(ささ)げて()(よう)(もう)()げた()(どく)によってこのような(じん)(りき)()たのだとお(はな)しになります。しかも、(みょう)(おん)()(さつ)はいまここにおられるおひとりだけでなく、いろいろな()となって(しょ)(しょ)(ほう)(ぼう)にあらわれ、(しゅ)(じょう)のために(おし)えを()かれるのだとおおせられました。
(いち)(どう)がそのお(はなし)をうかがって、()(じょう)(ふか)(かん)(めい)()けますと、(みょう)(おん)()(さつ)(しゃ)()にきた(もく)(てき)()たしましたので、(じょう)(こう)(しょう)(ごん)(こく)()(かえ)られたのでした。
()(じょう)がこの(ほん)のあらましですが、(じょう)(こう)(しょう)(ごん)(こく)というのは、〈()(そう)()(かい)〉です。()(そう)というものは(しん)のなかに(つく)りあげたすがたですから、その(こく)()はあまねく(ひか)(かがや)き、そこの(ぶつ)()(さつ)はひじょうに(きょ)(だい)な、しかもこの()では()られぬような(うつく)しい()をもっておられるのです。(げん)(じつ)()(かい)(しゃ)())というものは、()(そう)()(かい)にくらべると、(こく)()はたいへん(きたな)く、そこの(ぶつ)()(さつ)もひじょうに(ちい)さく()えます。

()(そう)(げん)(じつ)()する()(りょく)こそ

ところが、(じょう)()宿(しゅく)(おう)()(にょ)(らい)のおさとしのとおり、(みょう)(おん)()(さつ)(しゃ)()()(かい)のお(しゃ)()さまを(こころ)から(あが)め、(おが)みました。ということはつまり、()(そう)()(かい)(げん)(じつ)にこの(しゃ)()(けん)(せつ)しようと()(りょく)なさるお(しゃ)()さまは、()(そう)そのものより(とうと)いお(かた)であるということにほかなりません。()(そう)は、たんに(こころ)のなかにえがくだけでは、まだ(いっ)(しゅ)(ゆめ)にすぎません。それを(げん)(じつ)()してこそ、あるいは(げん)(じつ)()()(りょく)をしてこそ、その()()()きてくるのです。これが、この(ほん)(だい)一の(よう)(てん)です。

(みょう)(ほう)(たい)(しゅう)(つた)える

つぎに、()()()(みょう)(おん)()(さつ)がながいあいだ(おん)(がく)(そう)し、(はち)(まん)()(せん)(しっ)(ぽう)(うつわ)をささげて、(ほとけ)さまを()(よう)したということですが、(おん)(がく)(そう)したというのは、〈(みょう)(ほう)〉を(ひと)びとの(むね)にひびかせたということの(しょう)(ちょう)です。(はち)(まん)()(せん)(しっ)(ぽう)(うつわ)をささげたというのは、(ほとけ)さまの()(すう)(おし)えを()(たい)(しゅう)(つた)えたということです。〈(ほとけ)さまの()かれた(みょう)(ほう)をひろく()(たい)(しゅう)(つた)える〉ことこそ、(ほとけ)さまにたいする(さい)(だい)()(よう)であることを、お(しゃ)()さまはここに(しめ)されているのです。これが、この(ほん)(だい)二の(よう)(てん)です。

われらも(みょう)(おん)()(さつ)

それがわかれば、(みょう)(おん)()(さつ)がいろいろな()となり、(しょ)(しょ)(ほう)(ぼう)にあらわれて(ほう)()かれるということの()()も、おのずから(あき)らかになってくるでしょう。われわれの(しゅう)()にも、()(すう)(みょう)(おん)()(さつ)がおられるのです。いや、われわれ()(しん)も、()()(きょう)(おし)えにもとづいてひとのために(ほう)()けば、まちがいなく(みょう)(おん)()(さつ)()(しん)だということができるのです。こういう()(かく)をもつかぎり、どうしても(しょう)(ぼう)()()のために(ゆう)(もう)(しょう)(じん)せざるをえなくなるはずです。これが、この(ほん)(だい)三の(よう)(てん)です。

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