法華経のあらましと要点

観世音菩薩普門品第二十五

この(ほん)は、()(じん)()()(さつ)がお(しゃ)()さまに、「(かん)()(おん)()(さつ)はなぜ(かん)()(おん)という()をもたれるのですか」とおたずねしたのにたいして、そのわけをくわしくお()きになる(しょう)です。

(みょう)(ほう)(すく)われ()()(すく)

この(ほん)でたいせつなことは、ともすれば(かん)()(おん)()(さつ)は〈()(りき)(すく)い〉を(たの)(たい)(しょう)のように(かんが)えられてきましたが、そうではなく、じつは〈(しん)(じつ)()()〉の(しょう)(ちょう)であるということです。(しん)(じつ)()()といっても(げん)(みつ)にいえば〈すべての(げん)(しょう)を、(くう)にもとらわれず、()にもとらわれず、(そう)(ほう)(ゆう)(ごう)(そう)(そく)したものとしてとらえる()()〉すなわち〈(ちゅう)(たい)(しん)()〉です。これを(にん)(げん)(そく)していえば、(にん)(げん)(びょう)(どう)(そう)をも()かし、()(べつ)(そう)をも()かし、どんな(ひと)の、どんな()(あい)にもピタリとあてはまる、〈()(ゆう)()(ざい)()()〉です。(しょ)(ほう)(じっ)(そう)()()()(きょう)(みょう)(ほう))そのものです。
(かん)()(おん)()(さつ)は、そのような(しん)(じつ)()()()(ぬし)であるとともに、〈(だい)()(だい)(じゅ)()(おおくのひとに()わってその(くる)しみを()けてあげようという(だい)()()(しん))〉の()(ぬし)でもあるのです。
われわれがほんとうに(すく)われるには、(みょう)(ほう)()り、(みょう)(ほう)をおもい、(みょう)(ほう)にしたがって(こう)(どう)するよりほかはありません。また、われわれがほんとうに()(すく)うには、()()(しん)にもとづく()()()(せい)(てき)(こう)(どう)によって、その(ひと)(みょう)(ほう)(みち)へみちびくよりほかに(ほう)(ほう)はないのです。この(ほん)に、(かん)()(おん)()(さつ)(ねん)ずることによって(しち)(なん)からのがれることがくわしく()かれていますが、それらはすべて、このことを(おし)えられているのです。
そうはいっても、むかしの(ひと)はそんな(ちゅう)(しょう)(てき)なことをピタッと(かく)(じつ)につかまえることができませんでしたので、(かん)()(おん)()(さつ)というすぐれた(どう)(さつ)(りょく)()(けん)(おと)()る=()のすべての(うご)きを()り、すべての(ひと)(ほっ)するところを()とおす)をもち、(さん)(じゅう)(さん)(しん)というさまざまな姿(すがた)となっていたるところにあらわれ、(だい)()()(しん)をもってあらゆる(くる)しみを(すく)ってくださる、(うつく)しいやさしいお(かた)(せっ)(てい)して、そのお(かた)(こころ)をかよわせれば、(こころ)(みょう)(ほう)(かん)(のう)して(すく)われる……と()かれたわけです。

(かん)()(おん)()(さつ)になりたい

ですから、(げん)(だい)のわれわれは、(かん)()(おん)()(さつ)というすばらしい(だい)(じん)(かく)(こころ)におもい()かべ、「あのようになりたい」というあこがれと(ねが)いをもたねばならないのです。そのあこがれが(きょう)(れつ)であれば、どんな(くる)しみがやってきてもかならずそれを()りこえることができます。またそういう(ねが)いをもっておれば、ひとの(くる)しみを()れば、(すく)いの()をさしのべずにはいられなくなります。

()(もん)()(げん)

この〈(かん)()(おん)()(さつ)になりたい〉という(ねが)いこそが、〈()(もん)()(げん)〉ということの(しん)(ずい)(ほか)なりません。
()(もん)()(げん)〉の〈()〉とは、ひろくあまねく、どこにもかしこにも、という()()です。〈(もん)〉というのはもちろん()()(ぐち)のことですが、それから(てん)じて〈(いえ)〉という()()にもちいられます。また、〈()(もん)〉などというように、ものごとを(ぶん)(るい)するときのひとつの()()けにももちいられます。ですから、〈()(もん)〉というのは、〈あまねくすべての(いえ)に〉という()()もあるし、また〈(じん)(せい)(もん)(だい)のあらゆる()(もん)に〉という()()もあるわけです。ひっくるめていえば、〈この()のいたるところに、ありとあらゆる(もん)(だい)と、あらゆる()(めん)に、()(ゆう)()(ざい)に〉ということになります。
つまり〈()(もん)()(げん)〉とは、(かん)()(おん)()(さつ)がこの()のいたるところに、あらゆる(もん)(だい)と、あらゆる()(めん)にそれぞれふさわしい姿(すがた)をとって()(ざい)(あら)われ、(ひと)びとを(すく)(みちび)いてくださるということを()()しているわけです。
このような(かん)()(おん)()(さつ)になりたいと(ねが)うことは、()(てい)において、(しゃ)(かい)において、(こっ)()において、さらに(ひろ)くは()(かい)においてそれぞれ()かれた(たち)()にふさわしく、(ひと)びとの(くる)しみ・(なや)みに(おう)じた()(たい)(てき)(すく)いの()をさしのべていこうと(ねが)うことです。そういう(こう)(どう)こそが、(かん)()(おん)()(さつ)の〈(だい)()(だい)(じゅ)()〉の(だい)()()(しん)そのものであるからです。
こうした〈(だい)(じゅ)()〉の(こう)(どう)を、どのような(たち)()においてでも、どのようなささいなことでもいいから、一人(ひとり)でも(おお)くのひとが(じっ)(せん)にうつしたならば、()(てい)(しゃ)(かい)はもちろんのこと、()(かい)(へい)()(けっ)して(ゆめ)ではなくなるのです。そういうことですから、この〈()(もん)()(げん)〉ということがこの(ほん)(さい)(だい)(よう)(てん)になるわけであります。

(とく)(ちから)(みょう)(ほう)とその(じっ)(せん)から(しょう)ずる

さてこの(ほん)でもうひとつ()のがしてならないことは、(かん)()(おん)()(さつ)(こう)(だい)(とく)(ちから)(かん)(げき)した()(じん)()()(さつ)が、()(ぶん)(くび)(かざ)りをささげたところ、(かん)()(おん)()(さつ)は、すぐさま(はん)(ぶん)(しゃ)()()()()(そん)に、(はん)(ぶん)()(ほう)(ぶっ)(とう)にささげたということです。それは、(かん)()(おん)()(さつ)()(だい)(とく)(ちから)も、つまりは()としての(みょう)(ほう)()(ほう)(ぶっ)(とう))と、それを()(じっ)(せん)されたお(しゃ)()さまのおかげであるということです。これを()ても、ただ「(かん)()(おん)()(さつ)(おが)めば(すく)われる」などと(かんが)えるのが(おお)きなまちがいであることは、(めい)(はく)なのであります。

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