法華経のあらましと要点

普賢菩薩勧発品第二十八

(とう)(ほう)(ほう)()(とく)(じょう)(おう)(ぶつ)(くに)から()()(きょう)()きにやってきた()(げん)()(さつ)が、その(がい)(よう)()いただけで(かん)(げき)し、「のちの()においてこの(おし)えを(じゅ)()するものをかならず(しゅ)()いたしましょう」ともうしあげますと、お(しゃ)()さまがそれをおほめになって、「()(げん)()(さつ)とおなじような(ぎょう)をなすものを、わたしも(しゅ)()しましょう」とおおせになりました。つまりこの(ほん)は、(まっ)()()()(きょう)(ぎょう)(じゃ)(げん)()づけ(はげ)まされる(しょう)であります。

(みょう)(ほう)(じっ)(せん)してこそ

なぜこの(さい)()(しょう)になって()(げん)()(さつ)(とう)(じょう)するかといいますと、それには(ふか)()()があるのです。()(げん)()(さつ)は、〈()(じょう)(ぎょう)〉をつかさどる()(さつ)とされていますが、(びゃく)(ぞう)(おう)()って(しゅつ)(げん)すること((ぞう)(かわ)(わた)るときも(あし)(みず)(そこ)につく)が(しょう)(ちょう)しているように、ほかの()(とく)よりも、(てっ)(てい)した〈(ぎょう)〉の(てん)(けい)であると()るべきなのです。
()()(きょう)のはじめのほうでは、()(さつ)(しゅ)(やく)は〈()〉の(もん)(じゅ)()(さつ)でした。なかほど(とくに《(にょ)(らい)寿(じゅ)(りょう)(ほん)》)においては〈()〉の()(ろく)()(さつ)でした。そして、(さい)()(むす)びにおいて〈(ぎょう)〉の()(げん)()(さつ)(とう)(じょう)するのは、いうまでもなく、()()(きょう)(おし)えを()いて(しょ)(ほう)(じっ)(そう)()()()り((しゃく)(もん))、()(おん)(ほん)(ぶつ)(だい)()()()かされている(しん)(じつ)(ほん)(もん))にめざめたものも、その(おし)えを(じっ)(せん)しなければ()()をなさないからです。このことさえわかれば、もうこの(ほん)(よう)()はつかみえたものといっていいでしょう。

()(ほう)(じょう)(じゅ)

しかし、この(ほん)に、ひじょうにだいじなお(しゃ)()さまのおことばがあります。それは、()(げん)()(さつ)(しつ)(もん)にたいして、つぎのようにお(こた)えになっていることです。
「もし(しん)(こう)(ぶか)(だん)(じょ)が、つぎの四つのことがらを(じょう)(じゅ)すれば、(にょ)(らい)(めつ)()においても、この()()(きょう)(おし)えをつかんだことになり、()()(きょう)(しん)()(どく)()ることができましょう。
それは、
(だい)一に、()(ぶん)(しょ)(ぶつ)()(ねん)されているのだという(ぜっ)(たい)(しん)(ねん)をもつこと。
(だい)二に、(にち)(じょう)(せい)(かつ)(ぜん)(こう)()んで、(とく)(そだ)てるように()(りょく)すること。
(だい)三に、(ただ)しい(おし)えを(ほう)ずる(ひと)びとの(なか)()にはいること。
(だい)四に、()(ひと)みんなといっしょに(すく)われるのが(しん)(すく)いであることを()り、みずからおおくの(ひと)びとを(すく)(こころ)をもつこと」
これは、いままでにくわしく()いてこられた(おし)えを、(いっ)(ぱん)(ひと)()(かい)し、(じっ)(せん)できるよう(かん)(けつ)にまとめられたものであって、()()(きょう)(おし)えのあまりの(しん)(えん)さにすこしたじろぎ()()だった(ひと)びとも、これによってきっと「()(ぶん)にもできるのだ」という(ゆう)()()ることでしょう。まことに《(みょう)(ほう)(れん)()(きょう)》の(むす)びにふさわしい(おし)えであります。

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