仏教とはどのような教えか
十二因縁
内縁起と外縁起
釈尊がこの教えを思索された経緯については述べましたが、そのいきさつからもわかるように、人生苦を滅する悟りの根本をなす、非常に大事な法門であります。
《法華経》においても、《化城諭品第七》に、次のように詳しく説かれています。
〈及び広く十二因縁の法を説きたもう。無明は行に縁たり、行は識に縁たり、識は名色に縁たり、名色は六入に縁たり、六入は触に縁たり、触は受に縁たり、受は愛に縁たり、愛は取に縁たり、取は有に縁たり、有は生に縁たり、生は老死・憂悲・苦悩に縁たり、無明滅すれば則ち行滅す、行滅すれば則ち識滅す、識滅すれば則ち名色滅す、名色滅すれば則ち六入滅す、六入滅すれば則ち触滅す、触滅すれば則ち受滅す、受滅すれば則ち愛滅す、愛滅すれば則ち取滅す、取滅すれば則ち有滅す、有滅すれば則ち生滅す、生滅すれば則ち老死・憂悲・苦悩滅す〉
これは、われわれ凡夫の肉体がどうして生まれ、どうして成長し、どうして老死に至るかという原因・結果の成り行きを、十二の段階に分けて説かれたものと見ることもできます。それを〈外縁起〉といいます。
と同時に、われわれの心の変化にもそれと同様な原因・結果の法則があることを説かれたものと見ることもできます。それを〈内縁起〉といいます。
ひっくるめていえば、心を清め、迷いを除き、心身を正しい状態にし、人生における苦を滅するための根本的な原理を教えられたものといっていいでしょう。
順観
前に掲げた経文の前半〈生は老死・憂悲・苦悩に縁たり〉までを〈順観〉といいます。それは、発生・変化の成り行きを順に観じたものであるからです。これについては、人類の発生や、人間の一生についてのべた外縁起のほうがわかりやすいので、それにもとづいて説明しましょう。
無明
初めに〈無明は行に縁たり〉とあります。〈無明〉というのは、真理を知らない、実相を見ることのできない、すべてに明るくない、無智な心の状態のことです。
この世のすべてのものごとは、必ず因と縁とによって生じているのです。つまり、どのようなものごとでも因があり、それがある縁に触れて現象となって現われているのです。ですから、この世にそれだけで存在しているものや、すべてを造りだしている唯一絶対の存在というものはないのです。このように、すべてのものごとを正しく観ることを〈縁起観〉といい、この縁起観こそ、釈尊の悟りの第一なのです。
さて、十二因縁において、その各段階を生ずる大本の因というものが、この無明なのです。つまり、無明であるから〈行〉以下の十一の段階が生じていくわけなのです。そして、同時にそれぞれの段階はその次にくるものが縁となって、次々とつながって発生していくわけです。したがって、この無明がすべての苦悩の根本原因となるわけです。
行
〈行〉というのは、行為ということですが、この場合の行は、はっきりした意識をもって行なう行為をさしているのではありません。たとえば、人間をはじめとするすべての生物が単細胞の微生物だった時代には、もちろんはっきりした意識などは持っていませんでした。しかし、とにかく生きること、仲間を殖やすという行動を無意識のうちにやっていたわけです。そういう行動を、行というのです。
これで、〈無明は行に縁たり〉という句の意味は理解していただけたことと思います。
識
右に述べたような行動を何億回・何十億回・何百億回となく繰り返しているうちに、下等動物にも、しだいに必要な条件が整って外界の事物を知り分ける力ができてくるわけです。これを〈識〉というのです。
もちろん、下等動物の段階では、まだはっきりした意識というものではなく、意識の原型ともいうべき、きわめてもうろうたるものにすぎません。
これが〈行は識に縁たり〉ということです。
名色
そのもうろうたる識がだんだん発達してきますと、〈名色〉というものがはっきりしてきます。〈名〉というのは無形のものという意味で、心のこと、〈色〉というのは有形のものという意味で身体のことですから、心身の作用がそろそろ形を整えてきて、自分の存在を意識するようになることをいっているのです。しかし、この段階は、人間の一生でいうならば、まだ母の胎内にある胎児のような段階です。
六入
さて、動物が自分の存在にたいするもうろうたる意識を持つようになり、その意識が、だんだんに発達してきますと、心身の六つのはたらきがはっきりしてきます。すなわち、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚という五官の感覚と、その五官で感じたものの存在を知りわける意識が分化してきます。そういうはたらきを〈六入〉というのです。
触
それからだんだん脳が発達してきますと、かなり複雑な外界のものごとを区別して受けとることができるようになります。たとえば、「これはじょうぶで折れない木」「これは鋭い割れめができるから石斧をつくれる石」といったぐあいです。原始人がちょうどこの段階に当たりましょう。
そうした識別は、名色と六入が接触して起こるものですから、これを〈触〉といいます。
受
そのように、かなり複雑なものごとを識別するようになれば、自然に、好きとか、きらいとか、うれしいとか、悲しいというような感情がはっきり起こるようになります。いよいよ脳のはたらきが複雑微妙になり、ヒトらしくなってきたわけです。
これを〈受〉といいます。ものごとを心に受けとって起こす心の最初の高等なはたらきであるから、受というのです。
愛
そういう感情が起こるようになれば、当然の成り行きとして、ものごとにたいする執着が起こります。あるものごとが好きになればそれに執着し、熱中するようになります。これは下等動物には見られないことで、比較的賢いサルでも、イヌでも、その遊んでいるさまを見ていますと、実に飽きやすく、ものごとに恬淡としています。人間の子どもでも、ごく赤んぼうのころは少しも執着心がありません。おもちゃなど、五分と同じもので遊ぶことはまずありますまい。
それが、だんだん物心がついてきますと、少しずつものごとに執着するようになります。それを〈愛〉というのです。現代語の愛とはかなり意味が違っていて、愛着というほどの意味です。
このへんまでは、まだ無邪気な心の動きだといってもいいでしょう。それでも、そろそろ人間らしい迷いがはっきりした形をとり始めています。次の段階になると、それがいよいよ濃くなってくるのです。
取
もっと心のはたらきが複雑になってきますと、愛着を覚えたものはどこまでも追い求めてゆこうとし、いったん得たものは何がなんでも放すまいとする貪欲が起こります。また、きらいなもの、不快なものにたいしては、それに会いたくない、それから逃げ出したいという気持が起こります。そういった心を、〈取〉というのです。
そういった取の感情が、差別心を生むのです。あの人は好き、あの人はきらいといった情緒的な差別心から、自分に利益を与えるものを好み、そうでないものをきらうといった、打算的な差別心へと発達していくのです。
有
このようにヒトの頭脳がそこまで進むと、他の動物とあまり違わなかったヒトが、いよいよ人間という存在になるといってもよいでしょう。そして、人間と物との関係も、人間と人間との関係も、相当複雑になりますので、ある同一のものごとにたいしても、人によってそれぞれ違った感情をいだくようになり、また、違った価値判断をするようになるのです。したがって、ある一つのものごとにたいしても、違った主張をするようになります。そこで、他人と自分との区別が決定的なものとして意識されるようになるのです。
このように、差別してものごとを見る見方を〈有〉といいます。そして、このあたりから人間の不幸や、社会の不調和が、いよいよ本格的になってくるわけです。なぜかといえば、差別心が決定的になれば、まず他人にたいする思いが薄れるからです。
他人にたいする思いというものは、他とわれとの一体感にほかなりません。赤ちゃんがころんでケガをした。血が出てきた。お母さんが思わず抱き上げて、口で吸ってあげる。ほとんど無意識にそうしてあげるでしょう。それは、赤ちゃんとの間に強い一体感があるからです。
赤ちゃんが痛ければ、自分も痛い。他人が苦しんでいれば、自分も苦しい。こういう一体感の思いを〈慈悲〉というのですが、自他の差別感が決定的になってくると、その一体感が薄れてくるのは当然の成り行きです。そこで、社会の空気が冷たく、よそよそしくなり、酷薄な様相を帯びるまでになってしまいます。人間の大きな不幸といわなければなりません。
生
人間と人間との間の一体感が薄れるばかりでなく、差別心が決定的になってきますと、それぞれの利益を追求して他に譲る気持がなくなり、そこに対立が起こります。摩擦が起こります。争いが起こります。そうして、苦の人生がかぎりなく展開していくのです。これが現代の人間のすがたにほかなりません。そういった状態を〈生〉というのです。
以上に述べたような、原始微生物から人間に至るまでにたどった経過は、個人の生命が母親の胎内に宿ってから、胎内でしだいに形を変えながら成育し、出生し、新生児から幼・少年期を経て成人となるまでの人間の一生の変化と、全く軌を一にしています。
生理学者が臨床研究によって証明するところによりますと、精子と卵子が合体してから完全な赤んぼうとして出生するまでの十月十日の間に、約数十億年前アミーバのようなものだった生物が今日の人間にまで進化してきた過程を、そっくり通るのだそうです。すなわち、胎内の十月十日の間に、アミーバのようなものから、虫のようなもの、魚のようなもの、両棲類のようなものと、だんだんに進化して、ついに人間の形となるわけです。
ですから、この十二因縁の法則は、人類発生から社会的人間となるまでの経過の考察であると同時に、個人としての生(受精の瞬間)から死に至るまでのすがたを明らかにされたものでもあるわけです。それにしても、二十世紀の科学者がようやく解明したことを、二千五百年も前に、直観によって明らかに見とおしておられた釈尊は、どこまで偉いお方なのか、ただただ驚嘆せざるをえません。
ともあれ、われわれ個人の一生も以上のような経過をたどるのであって、成長するにつれ、しだいに差別が増大し、他に対する愛情が薄らぎ、対立と抗争の人生苦をつくり上げていくわけです。
老死
そして、やがて老いがせまり、死がやってきます。これが、十二因縁の最後の〈老死〉です。
以上が、外縁起ということで、われわれ人類の発生という視点から、十二因縁を順に見てきたものです。そして、この十二因縁は、われわれの心の変化についても、これと同じように説明できます。この心の変化という視点から見た十二因縁を、内縁起ということはすでにのべました。
内縁起にしても、外縁起にしても最後の老死、特に死ということは、われわれ人間にとって苦しみの極限といえるものです。つまり、十二因縁というものを無明から、老死まで順に見ていくということは、人生苦がいかにして発生し、どのように展開し、そして、ついには最大の苦である死に至るものであるかということを、明らかにしたものなのです。これを、十二因縁の〈順観〉というのです。
逆観
それならば、どうすれば、この人生苦を消滅し、死という最大の苦しみから解脱することができるかということが問題となります。それには、いま見てきたことの逆を考えていけばいいことになります。すなわち、前に掲げた経文の後半〈無明滅すれば即ち行滅す〉以下に展開される教えです。
それを〈逆観〉と呼んでいますが、釈尊はブッダガヤーの菩提樹下で、この縁起の真理を順と逆に観じて、初めて悟りを開かれたといわれておりますから、この逆観が十二因縁の教えを完成する、たいせつな教えであることは、いうまでもありません。
経文を読めば、すぐわかるように、根本原因である無明が条件となって行が生じているのならば、その無明を滅すれば行も滅してしまうのは当然です。以下ずっと同じであって、まことに明快な理論です。
それでは、この〈滅する〉というのは、どういうことでしょうか。それは、いうまでもなく無明という根本原因が、すっかり無くなった状態にすることです。無明とは、先にも説明しましたように無智、すなわち智慧の無い状態をいいますから、無明を滅するということは、無智ではなく智慧のある状態になればいいわけです。
要するに、人類史上最高の智慧を得られた釈尊の教えである仏法を学び、その教えのとおりに実践することによって、釈尊の智慧を少しずつでも身につけていけばいいわけです。そして、すべてのものごとに対する迷いが完全になくなれば、さまざまな人生苦も解消してしまうわけです。
したがって、理論的にいえば、一切の苦の生ずる根本原因である〈無明〉という状態を、釈尊と同じ〈智慧〉のある状態にすれば、すべての苦はいっぺんに消滅してしまい、輪廻からさえ完全に解脱してしまうこともできるわけです。
ところが、この智慧とは、釈尊の得られた最高の智慧、すなわち〈仏智〉であります。つまり、いくら理論的にいってそうなるとはいえ、それを完全に身につけるということは、釈尊と同じ境地に立ち、同じ悟りを得るということですから、並大抵のことではかないません。
なぜ十二因縁を説かれたのか
しかし、ありがたいことに釈尊は、ただ理論のみを説く学者ではありません。苦しみ悩んでいる人間を現実に救うためにこそ、すべての教えをお説きになったのです。
この十二因縁の教えにしても、人生というものはこのように展開しているのだと、理論的に示すことによって、「それぞれの段階における無智の度合いをできるだけ少なくすれば、人生苦は次々に消滅するのだ」ということを悟らせようとなさったわけであります。
まず手近なところからあらためる
それも、世の人々には機根の相違がありますから、初歩的な機根の人に対しては、まず足もとから正しい見かた、受けとり方をするように指導されました。十二因縁でいえば、取・有などです。すなわち、貪欲・執着心・差別心です。
欲望を修正し、執着心を正しいあり方にもどし、差別心を少なくすれば、人間の心は、よほど大調和した智慧のある状態に近くなります。すなわち、あれもほしい、これも手放したくないという貪欲や執着から起こるイライラも解消し、ひとと自分の間に差別の壁をつくるために起こる対立や争いも少なくなり、この世は、たいへん平和な、調和の取れたものになってくるわけです。
新しく生じたものは消滅させやすい
この程度の修正ならば、だれにでもできるはずです。それは、貪欲とか差別心とかは、十二因縁の順序にも示されているように、比較的新しく人間の心に起こったものであるからです。人類の歴史から考えても、太古の民は、その日その日を生きていけば、それで満足していたのであって、貪欲などはありませんでした。完全な共同生活をしていましたし、しかも生活が非常に単純でしたので、自分のものと他人のものという区別もありませんでした。ところが、だんだん文化が進み、生活が複雑になるにつれて、その、おおらかな気持がだんだんに薄れ、貪欲やら、執着やら、差別心やらがしだいに生じてきたのです。
個人的に考えても、生まれたばかりの赤んぼうは、お乳や、食べ物や、おもちゃなどを必要以上にほしがる貪欲などは、みじんもありません。自分と他人の区別もなく、あるいは兄と姉とを区別して考えることもありません。それが、だんだんと物心がつき、生活もしだいに複雑になってくるにつれて、もっとほしいという貪欲や、おかあさんのあとを追って泣きわめく執着心や、あの人は好き、あの人はきらいといったような差別心が生まれてくるのです。
病気でも、急性の病気は、たとえ症状は激しくても、治りは早いものです。一本や二本の注射でピタリと治ることもあります。それに反して、慢性になったものは、からだのシンにこびりついていますから、たとえ症状は緩慢であっても、なかなか根治しにくいものです。
心の病気でもおなじで、執着・貪欲・差別心などは、わりあい新しいほうに属する病気ですから、修正がききやすいのです。言い換えれば、これらは人間がはっきりした意識に目ざめたために生じた迷いなのですから、その目ざめた意識をもってうち破ることもできるわけです。
そこで、われわれは、欲望や執着心や差別心を、できるだけ少なくすることに努めなければなりません。そうすれば、われわれの心は、よほど清らかな、調和のとれたものになりましょう。すなわち、過度の欲望や執着心から起こるいらだたしさも解消し、それを裏切られた時に起こる苦悩も軽減しましょう。また、他人と自分の間の堅い障壁もとれて風通しがよくなり、意思や感情がスムーズに流れ合い、とけ合うようになり、対立や争いも、ずっと少なくなってくるでしょう。
それだけでも、この世の中が、どれほど住みよくなるか、計り知れないものがあります。
根本的に迷いを消滅させるには
宗教の信仰を持たない人でも、心がけしだいではそれくらいのことはできましょう。ところが、もっと抜本的な、すなわち比較的新しい心の迷いだけでなく、根本的に迷いを一気に消滅してしまうことは、なかなかできるものではありません。そのために、迷いも、人生苦も、いっこうに全治というところまでいかないのです。
それならば、どうすれば全治に立ち至ることができるのでしょうか。なんといっても、宗教の信仰をもたなければ、それはできないのです。そして、信仰的な修行を積まなければならないのです。その修行の方法を教えられたのが、次に述べる〈六波羅蜜〉にほかなりません。