仏教とはどのような教えか

中道

理念としての中道

釈尊が鹿(ろく)()(おん)で最初の説法をなさった時の第一声が、
比丘(びく)たちよ、この世には近づいてならぬ二つの極端がある。如来は、この二つの極端を捨てて、(ちゅう)(どう)を悟ったのである」
続いて世尊は、次のようにお説きになりました。
「それならば、何をもって中道とするのか。それは、すなわち八つの正しい道である。(しょう)(けん)(しょう)()(しょう)()正行(しょうぎょう)正命(しょうみょう)正精(しょうしょう)(じん)(しょう)(ねん)正定(しょうじょう)である。これが如来の悟った中道であって、すべての衆生に、正しい智慧(ちえ)を起こさせ、寂静(じゃくじょう)の境地に至らしめ、()(はん)へ導くものである」
この時の梵語の〈マドゥヤマ・プラティパド〉というおことばを中国で〈中道〉と訳したのですが、いつのまにか儒教で唱える(ちゅう)(よう)の説と混同され、後世に至っては、ずいぶんあいまいな受けとり方をされるようになってきました。すなわち、〈極端を離れた()()()()道〉といったような甘い解釈です。
ところが、釈尊の説かれた中道は、そうした焦点のぼやけたものではなく、非常にきびしいものでありました。〈(ちゅう)とは不二(ふに)()なり〉ということばもありますように、ただ一つしかない真理にピタリと焦点の合った道を中道といわれたのです。古来から幾多の解釈がなされていますが、それを総合しますと、次のように定義できましょう。
一、理念の上からいえば、()(へん)せず、(くう)に偏せぬ、絶対真実の道理を中道という。
二、(ぎょう)(ほう)の上からいえば、苦・楽の二極端を離れた、正しい行法(八正道)を中道という。
まず一から説明しますと、ものごとが、目の前に確かに存在する(())ということにもとらわれず、かといってものごとは固定的・永続的には存在しない((くう))ということに片寄ることもない、正しいものの見方ということです。

空諦

すべてのものごとは、その本質においては(くう)であるという(さと)りを、〈空諦(くうたい)〉といいます。これまでなんども述べてきましたように、われわれは、ともすればまわりに起こる現象に心を奪われ、引きずり回されて、苦しんだり、悩んだりします。ですから、万物・万象は本来空であると悟って、現象から超越する気持も、ぜひ必要なのです。

仮諦

ところが、現象というものを一切見ないで、空ということばかりを考えていますと、世の中から、すっかり離れ切った仙人みたいな存在となってしまうわけで、これまた正しい生き方ではありません。
そこで、あらゆる現象は因と縁の和合による(かり)の現われであると見ながらも、その現象を現実として肯定しなければなりません。そういうものの見方を〈()(たい)〉といいます。

中諦

しかし、空諦(くうたい)()(たい)もつまるところは、一面的なものの見方であって、空という本質と、()という現象を、渾然(こんぜん)と融合させた見方をするところに、諸法の実相の(とら)えどころがあるというのが、ぎりぎりの真実の(さと)り、すなわち〈(ちゅう)(たい)〉であるというのです。
さきに〈諸法実相(しょほうじっそう)〉の項で、「悟った人は、(くう)()を不即・不離のものと見るのです。一体なものの両面であると見るのです」と述べましたが、それが中諦、すなわち中道にほかなりません。
たいへんむずかしい理論で、なかなか口にも、ことばにも言い表わせないから、この中諦(中道)を〈妙〉と表現するのだと、むかしの人はいっています。これを現代の人に理解してもらうには、電気というものを例に引くのが手っ取り早いのではないかと思います。
電気というものの正体は、今の科学者もはっきりつかんでいないようです。ですから、辞書などを見ても、「電気とは、種々の電気現象を起こす原因である」と、わかるような、わからぬようなことが書いてあります。
しかし、空の理からいえば、当然、「電気の正体は、(くう)である」ということができましょう。ともあれ、電気というものの正体を、このように本質的に捕えようとするのが、空諦の見方であるということができます。
ところが、そんな見方だけでは、電気というものをはっきり捕えることはできますまい。電灯として光を出させ、ストーブとして熱を出させ、あるいはモーターを回し、ラジオ・テレビの音声や画像として現象化してこそ、初めて、その現象の原因である電気を()()()()ということができましょう。こういう捕え方を、仮諦というのです。
しかし、また、こういう仮諦だけでも、けっして電気というものを正しく捕えたといえるものではありません。電灯の光を指さして「あれが電気だ」といい、電気ストーブから出る熱に手をかざしながら「これが電気だ」といっても、不十分であり、不的確です。その光や熱は、けっして電気そのものではありません。電気が起こした現象に過ぎないのです。
そこで、本質的には空であるものが、光・熱・力・音といった現象に現われる。その相即融合のところをつかまえて、「これが電気だ」と見る、そういう見方が生まれてきます。こういう見方を中諦(中道)というのです。
この(くう)()(ちゅう)の三つの観かたは、宇宙の万物・万象すべてに当てはまるものであって、心の世界においても同様にいえるものです。それについて、次に説明しましょう。

行法としての中道

《法華経》の《薬草(やくそう)()(ほん)》で、「万物・万象は本質においては空であり、平等であるけれども、それが現象として現われる時は千差万別の差別相となる。われわれは、すべてのものにある平等相と差別相の両方を見きわめ、悟らなければならぬ」ということを教えられましたが、それも、この中道の真理に基づくものであります。
たとえば、われわれが、あるひとりの人間を見る場合、まず第一に、その人がみんなと平等の仏性を具えた尊い存在であることを、しっかり観ずることがたいせつです。これが《空観(くうがん)》です。
しかし、第二の段階において、現実の人間としての、その人の性質・才能・頭脳・環境・職業・過去の行跡などをしっかりと見定めなければ、実際に、その人と正しくつきあったり、採用したり、導いたりすることはできますまい。やはり〈()(かん)〉というものも必要なのです。
かといって、現実に現われたものばかりにとらわれて、その人を見るならば、ともすれば(けい)()(べっ)()あるいは羨望(せんぼう)(しっ)()などの悪弊(あくへい)が生じましょう。
ですから、われわれの人間関係においても、平等にも片寄らず、差別にも片寄らず、その両面から調和のとれた見方をしなければならないのです。すなわち、〈(ちゅう)(がん)〉が必要なのです。
われわれの人格完成のための修行にも、やはり、それが必要です。二に示された(ぎょう)(ぼう)がそれです。五欲の快楽を追う〈楽〉の道はもちろんのこと、人間の本能をむやみに抑える〈苦〉の道(苦行)も、人格を完成する方法ではありません。そうした両極端から離れて、真理に合った、調和のとれた、そして目的にピッタリ合った行法に従え……と教えられ、その具体的な方法として示されたのが八正道にほかなりません。
一例をあげれば、子どもの教育については、非常に厳格なしつけ(・・・)と鍛錬が必要だとする思想もあり、叱らぬ教育といって、個性や才能を伸ばすことを本位とする思想もあります。教育思想の両極端といってもいいでしょう。
ところが、ひとりびとりの子どもの性格や能力や、その他の諸条件を見きわめずに、画一的に、どちらかの極端を用いれば、結果はかならずよくありません。そういう実例は、世の中に充満しています。戦後のあまりにも甘い教育方針が、他人や社会の迷惑などいっこうかまわぬ暴力学生をつくったことは、一目(いちもく)(りょう)(ぜん)です。やはり、教育も中道をゆくものでなければならないのです。
しかし、実際問題として、すべてのものごとについて「これこそ中道だ」と確信できる道を見つけるのは、たいへん困難だと、あなたは思われるでしょう。そこに仏道修行の必要性があるのです。
仏道修行によって、()(けん)をなくし、八つの正しい道を歩むことを心がけていますと、しだいしだいに、考え方や行ないが真理に合うようになってくるのです。そして、ついには、することなすことがピタリと真理に一致するようになるのです。それが、ほんとうの自由の境地です。遊戯自(ゆけじ)(ざい)です。

煩悩即菩提

こうなると、《(かん)()(げん)()(さつ)(ぎょう)(ぼう)(きょう)》にありますように、〈煩悩(ぼんのう)(だん)ぜず五(よく)(はな)れずして、諸根(しょこん)(きよ)諸罪(しょざい)滅除(めつじょ)する〉境地に立ち至ることができます。
煩悩は細菌のようなものです。細菌は食物を腐らせたり、病気を引き起こしたりする有害な生物と見ることもできますが、また生命を終わった動植物を土に帰して、われわれの生活環境を美しくし、あるいは、それらを肥料に変えて新しい生命を育ててくれる、ありがたいものでもあります。みそ・しょう油・酒などのおいしい食べもの・飲みものをつくってくれますし、すでに何千万人の生命を救ったといわれるペニシリンのような抗生物質も、つまりはカビにほかなりません。すなわち、中道観によれば、人間とカビや細菌は共存関係にあるということができるのです。
煩悩もちょうど、カビや細菌のようなもので、いやなものだ、人間を苦しめるものだと思って、それに心をひっかからせておれば、かえって煩悩アレルギーになって、そのために悩まされるものです。それを、中道観によって「人間は煩悩と共存関係にあるのだ。煩悩に善のエネルギーを与えさえすればいいのだ。煩悩大いに結構ではないか」と悟れば、かえって、煩悩から解き放たれた自由自在の心境に立ち至ることができるのです。これを〈煩悩即(ぼんのうそく)()(だい)〉といい、まことに楽しい八方(はっぽう)無碍(むげ)の境地なのです。
単なる修養や倫理道徳の厳守だけでは、なかなかそこまで到達することはできません。仏教の信仰のありがたさは、こういうところにあるのです。

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