仏教とはどのような教えか
仏教のいのち
輪廻と出離
輪廻思想は仏教の前提
《法華経》の《授学無学人記品》で、釈尊は「はるかなる過去世に、わたしの前身である菩薩は、阿難の前世の身である菩薩とともに空王仏という仏さまのみもとで修行した」とお語りになっておられます。また、《常不軽菩薩品》でも、「常不軽菩薩というのは、ほかならぬわたしの前世の身である」と仰せられています。
こういう思想は、《法華経》のみならず他の経典にもあり、釈尊をはじめとする諸仏がお弟子たちに授記される時も、「なんども生まれ変わり、多くの仏のみもとで修行したのち、仏の悟りを得ることができる」というような条件を必ず付けられています。
このように、仏教では人生というものを一回限りのものであると見ずに、〈この世でなしたすべての行為の累積によって、次の世には、それにふさわしい生を受ける〉としているのです。つまり、輪廻思想は仏教の前提条件ともいえる思想なのです。
この〈輪廻〉というものは、当時のインドでは一般的な思想でした。それを釈尊は、仏教の教えの中にも取り入れられたわけです。たとえば、《長部経典》や、その漢訳である《長阿含経》を見ますと、阿難が、那提迦という村の信者たちが死後どうなったか?を世尊にお尋ねしたのに対し、──これこれの者は天に生じ、そこで入滅して再び娑婆世界に帰ってくることはなかった。また、これこれの者は、一度だけ人間としてこの世に生まれ変わって再び仏の教えを修行し、その結果悟りを得てついに、浄土(仏国土)に生まれることができた──という大意のお答えをなさっておられます。
釈尊が、この輪廻思想を仏教に取り入れられたのには理由があります。それは、この《長部経典》の中にもあるように仏の教えに従って修行をし、悟りを得た結果、浄土に生まれることができたということ、つまり、善因善果(悪因悪果)ということが厳然としてある、ということを示すために取り入れられたのです。
出離
また、浄土(仏国土)に生まれるということは、仏に成る(成仏する)ということですので、仏の教えを正しく修行し、悟りを得た人は仏界に生じる、すなわち、仏と成って再び輪廻をくりかえすことがないということです。これを〈出離〉といいます。つまり、われわれの人生の究極の目標は、この出離のためであり、出離を終点とするものであるといっていいでしょう。
霊魂の問題
霊魂の有無がよく問題になりますが、霊魂というものに対しても肉体に対したのと同じように、有るという立場(仮)にも、無いという立場(空)にも偏らないということ(中)が、まず第一なのです。
そのうえで、輪廻ということからして、その輪廻していくもの(輪廻の主体)を、仮に霊魂というものであると考えればいいわけです。
ところで、釈尊は死後の生存とか、霊魂というものについて、直接には、あまりお説きになりませんでした。それは、霊魂というようなものは、われわれの五官でハッキリと感じ取れるものではないので、有るということも無いということも、すべての人に納得させるように科学的な証明を行なうことはできません。そのようなことにかかわりあって、ああでもない、こうでもないと考えたり、「霊魂は、確かに存在するのだ」とか、「霊魂などというものが存在するわけがない」などと論争することはムダなことであり、仏の悟りを得るという人間本来の目的には、何の益もないことだったからです。
そのことは、さきの阿難の問いに対してお答えになったあとで、
「人が生まれて死ぬのは自然のことであり、世の常である。それなのに、いちいちの人の死後について、わたしに尋ねるのは、わずらわしいことではないか」
と、阿難をお諭しになっているそのおことばからも、よく推察できるのであります。
以上に述べたような輪廻思想から、次に述べる業という思想が生まれてくるわけです。
業
〈業〉ということは、もともと未来へ向かっての人間の努力を勧めるために説かれたものですが、いつしか、その意図と反対に、人間を過去に縛りつける、暗いじめじめしたムードを持つようになりました。早い話が、業の字のつくことばには、業病・非業の死を遂げる・業を曝す・因業おやじ・業が煮えるなど、ろくなことばはありません。
これは、業というものを、現在から過去をふり返るという方向だけに偏向し、しかも、その暗い面だけを見た宿業観に基づくものであります。なぜそうなったかといいますと、後世の仏教者が苦諦の教えを、「人生は苦であると諦る」という釈尊の真意から離れて、「人生は苦であると感ずる」ようになったまちがいが、長い間に、そういうムードをつくり上げたもののように思われます。そのために、本来の業ということを、全くうしろ向きにしてしまったのです。
業とは行為ということ
それでは、業とはいったい何かといえば、もともとは行為という意味に過ぎません。行為というのは、動機や目的があり、やろうという意志をもってした行ないのことです。ここで言い添えておきたいのは、仏教でいう業(行為)とは、〈身・口・意の三業〉といって、単に身に行なったことや、口に出したことばだけでなく、心の中に思ったこと(意)までも行為の中に含ませていることです。これは実にたいせつなことであって、法律でいう行為と違うところは、ここにあるのです。
行為は必ず結果と影響を残す
さて、われわれがある行為をすれば、必ずその結果が起こります。たとえば、本屋にいって本を買えば、その本が自分のものになったという結果が生じ、その本を読めば、心に感銘を受けたり、知識を得たりするという結果を生じます。その感銘や知識は、必ずわれわれの人生に、なんらかの影響を及ぼすでしょう。人生を大きく変えることもありうるのです。それというのも、本を読んだという行為の結果であり、もっとさかのぼれば、本を買ったという行為の結果であり、もう一つさかのぼれば、本を買おうと考えたこと(意)の生んだ結果にほかなりません。
いまの状態は過去の総決算
ところで、現在の瞬間におけるわれわれの状態というものは、過去に自分がなした行為や経験の積み重なった結果であるということができます。積み重なったというよりは、プラス・マイナス差し引きの総決算の結果といったほうがいいでしょう。われわれは、一瞬一瞬にこういう総決算をなしつつあり、しかも同時に、新しいプラスやマイナスをつけ加えつつあるのです。これが、業の原理なのであります。
行為が心身に残す痕跡
われわれの行為の原因・結果というものは、はっきり見ることのできるような単純なものばかりではありません。実に複雑であります。しかし、どんなに複雑であろうとも、身・口・意に行なった行為が必ずある結果を生み、それが、われわれの心や身体に痕跡を残すことは、まちがいないことであり、免れがたいことであります。
心に残す痕跡は、大きく分けて二とおりあります。
一つは、記憶・知識・習慣・知能・性格などで、わりあい見分けやすいものです。
一つは、われわれが気づかないうちに潜在意識に刻みつけられる痕跡で、あとで、それが何かの現象として現われた場合、なかなかその原因がわかりにくいものです。
以上は、現代の心理学が突き止めた事がらですが、仏教でいう宿業には、それよりもっと深遠なものを含んでいるのです。すなわち、輪廻している自分というものがはるかな過去からいろいろなものとなって死に変わり生き変わりしながらつくってきた業も、それに加わるわけです。
自分でまいた種は自分で刈り取る
こう見てきますと、業という思想はきわめて合理的な、明快な、原因・結果の理論に裏づけられたものであることがわかります。しかも、その教えるものは、「自分のまいた種は、自分で刈り取らねばならぬ」というすっきりした人生観なのであります。
仮に現在の自分が不幸な状態にあるとした場合、他人のおかげでこうなったのだと考えれば、つい腹が立ったり、愚痴が出たりするでしょうが、すべて自分の過去(前世を含めて)の行為の結果だと考えるとすっきりします。
善業を積めば必ずよくなる
すっきりするばかりでなく、今後に対する明るい希望がわいてきます。よい業を積めば積むほど、自分はよくなっていくのだという原理がわかりますから、これから大いに善業を積もうという決意が起こるのです。
しかも、この世における人生の問題だけではありません。この世の勤めを終えてからの自分の来世についても、非常に明るい希望を持つことができます。死というものは、仏の教えを知らない人にとっては、これほど恐ろしいものはありません。しかし、ほんとうに仏の教えを知り、業報というものの成り行きを正しく悟れば、いつ、死がやってきても平気になります。
なぜならば、次の人生に希望を持つことができるからです。善い行為を積んでいけば必ず向上していくのだという理を、魂にしっかりつかむことができるからです。
業ということは、このように、あくまでも前向きに捕えなればならないのであります。
仏性
これまで述べてきた仏教のさまざまな教えによって、あなたは、心が広々と開ける思いをしておられることとおもいます。これからの人生に対する明るい希望と強い意欲もわいてきたことと思います。もう、これで十分だとは思いますが、もう一つ仏教のぎりぎりの真髓を説かずに、この本を終わりとするわけにはいきません。そこで、最後に、いちばんたいせつなことについてお話しすることにいたします。
理だけでは救われぬ
今まで述べてきたことは、おおむね〈理〉でありました。四諦の教えから始まって業ということに至るまで、まことに合理的な法則でありました。ところが、人間の心のほんとうの安心とか、あるいは自由自在というものは、このような法則を知っただけでは、まだ、もう一息のところでつかめないのです。なぜかといえば、理性では「なるほどそうか」と納得しても、感情が強く動かされないからです。
人間は、けっして理性だけで生きているのではなく、感情が清く、安らかになり、しかも真なるもの・善きもの・美しきものに対して燃え立つような喜びを覚えなければ、ほんとうの人間らしい人間とはいえないのです。そうでなければ、真・善・美を追求しようという強い意欲もわいてこないのです。
そこで、釈尊は、《法華経》の《如来寿量品》において、これまでずっと理論的に、仏の教えをさまざまに分別して説いておられたのを百八十度転回させて、ズバリ仏さまの本体を明らかにされたのです。すなわち、「本来わたしは、久遠の昔から仏となっていた(久遠実成)、無量の寿命をもつ本仏である。そして、すべての衆生はみなわたしの子である」と仰せられたのです。
「生かされている」という強い感情
そうすると、人びとの胸には、「ああ、自分は、その久遠のご本仏さまに生かされ、導かれているのだ。ありがたい」という感情が強くわいてきたのです。そういう歓喜と帰依と賛嘆の感情が、人びとを大安心の境地に導き、そして人生に対する積極的な意欲をわき起こさせたのです。
〈縁起〉とか、〈空〉といえば、いかにも哲学的な、冷厳な感じしか受けませんが、宇宙の大生命ともいうべき久遠の本仏によって、われわれすべてが生かされているのだと考えれば、われわれの魂にじかに響く何ものかが感じられます。それが宗教の真髓なのです。
しかも、われわれ衆生はすべて、久遠本仏である釈迦牟尼如来の実の子なのです。とすれば、われわれの本質は仏と一体であるということになります。そのような人間の本質を、〈仏性〉というのです。《法華経》は、終始その仏性を人間に自覚させるために説かれたお経なのであります。
仏と成りうる可能性
《法華経》には〈仏性〉ということば自体は出てきませんが、その内容は始めから終わりまで、「すべての人間は仏に成りうる」ということに尽きているのであります。その仏と成りうる可能性が、仏性にほかならないのです。仏に成りうる可能性といっても、なんとなく漠然とした感じで、はっきりとした心象として捕えにくいでしょうから、まず、「仏とは何か」ということから考えていくことにしましょう。
仏の三身
むかしから仏には、三つの身があるといわれています。〈法身仏〉と〈報身仏〉と〈応身仏〉です。
法身仏とは、不生・不滅であり、宇宙の大真理ともいうべき真如そのものとしての仏さまです。
応身仏とは、衆生を教化・救済するために、人間としてこの世に出現された仏さまです。すなわち、インドにお生まれになった釈迦牟尼世尊は、応身仏であられます。
報身仏とは、真如そのものという法身でもなく、また現実の身を具えられた応身でもなく、真如が、われわれの理解できるような人格を具えて、仏界におられると考えられる仏さまであります。言い替えれば、真如そのものである法身が、人格的な力となってはたらきだしたすがたということもできましょう。阿弥陀如来などが、その例であります。そして、修行して真理を悟った功徳(報)によって、そのような身となられたという意味で、報身仏と申し上げるのです。
つまり、法身は真如そのものであり、報身は真如を具体化する人格的な力であり、応身は、その力をこの世で顕現される人間としての仏であります。
このように、考えの上では法身・報身・応身の三種類があるのですが、その三つは切りはなすことのできぬもので、たとえば、釈迦牟尼世尊は、法身としての久遠実成の釈迦牟尼如来と、修行の努力の報いで最高の智慧を成就された人格的な力としての報身の釈迦牟尼如来と、インドに出現された人間釈迦牟尼如来の、この三身を持っておられるわけであります。
さて、前にもいいましたように、仏の原語〈ブッダ〉とは、〈悟った人〉という意味です。つまり、完全な智慧を成就した人という意味です。したがって、仏性というのは、(そのぎりぎりの意味では、先に述べたように、久遠本仏と一体である人間の本質をいうのですが)現実の人間に即していえば、すべてを見通す智慧を完成した自由自在の人となる可能性ということになります。
釈尊は、そういう可能性が、すべての人間に必ず存在していることを見通されたのです。そして、その事実を力強いおことばで指し示し、教えられたのです。実にありがたいことでした。
この教えがなければ、自分をつまらぬ人間だ、罪深い人間だと感じている人は、そのつまらなさや、罪深さを自分の本質だと思い込んでしまい、そこから立ち上がることはできないでしょう。
この教えがなければ、たとえば、他の人の悪を見ては、その人を悪人ときめこんで憎み、たとえば、無気力の人を見ては、ぐずの役立たずという決定的なレッテルをはり、かえりみようとはしないでしょう。
自分に対し、他人に対して、このような見方をし、このような態度を取るかぎり、そこに救いはありえません。煩悶・絶望・自暴自棄、そして蔑視・不信・憎悪、そういった暗い影が自他をおおい、世は常に冷たく、とげとげしく、醜い争いが尽きることはないのです。
自分に仏性があると知る喜び
その時、「自分には仏性があるのだ、無限の向上の可能性があるのだ」という真実に目ざめることができれば、それは、まるで暗黒の牢獄の壁にぽっかりと一つの窓が開いたようなものです。そこから一筋の明るい光が差し込んできます。その光を見て、わたしたちは、どんなに勇気づけられることでしょう。われ知らず立ち上がって、その、牢獄から抜け出す努力を始めるに違いありません。
すべての人に仏性があると知る尊さ
また、「他のすべての人にも仏性があるのだ、完成された人間になる可能性があるのだ」という真実を悟ることができれば、ひとを見る目がガラリと変わってきます。悪を悪と認め、欠点は欠点と見ながらも、その人の本質の善を信ずるならば、徹底的に憎んだり、排斥したり、捨ててかえりみなかったりすることなく、その人を尊い、ひとりの人間として受け入れる気持になってくるのです。寛容とは、そんな気持をいうのです。
そういう寛容の心をもってひとに対すれば、その人の可能性を伸ばしてあげたいという気持が、ひとりでに生じます。そんな気持を慈悲というのです。
仏教で対人関係における最大の美徳としている寛容も、慈悲も、つまりは、ひとの仏性を認めることによってわいてくるものであることを知らねばなりません。したがって、世の中を明るくし、平和にするには、ひとの仏性を認めることが、ほんとうの出発点であり、最も基本的な道なのであります。
仏性を育てあげるには
自他の仏性を発見しただけでも、以上のような功徳があるのですが、その功徳をより深め、より広げていくには、どうしても、その発見した仏性を育てあげていく努力が必要です。
三因仏性
古来、仏性の完成には〈三因仏性〉があると説かれています。それは、〈正因仏性〉と、〈了因仏性〉と、〈縁因仏性〉です。
正因仏性
正因仏性というのは、すべての人が本来具えている仏性をいいます。久遠本仏と一体であるという真実です。もちろん、これが根本の因となるものです。
了因仏性
了因仏性というのは、真理を知り、その真理に照らしあわせることによって、本来具えている仏性を了る智慧をいいます。われわれが、仏の教えを聞き、真理を学ばなければならない理由は、そこにあります。そうしなければ、せっかく持っている仏性が発見されぬままに埋れてしまうことが多いからです。
縁因仏性
縁因仏性というのは、仏性を育てあげる縁となる善行のことです。善行といっても、きわめて意味が広いのであって、仏の教えを守って正しい生活をし、読経・礼拝・三昧その他の行をする、いわゆる〈自利の行〉もその中にはいり、また、接する人びとに親切を尽くすとか、世のためになる行ないをするとか、ひとを正法に導いてあげるとかのような〈利他の行〉も、それに含まれます。
このような善行を積み重ねることによって、われわれが本来具えている仏性は、ますますみがき出され、育てあげられていくのです。ですから、ただ単に、「自分には仏性があるのだ」という認識だけにとどまっていたのでは、その仏性は輝きを発しませんし、自他を救い、向上させる強いエネルギーにも育たないのです。
つまるところ、仏道の修行、すなわち〈学び〉〈行じ〉〈説き弘める〉ことを絶えず繰り返すことによって、自他の仏性が輝き出し、こうしてすべての人の仏性が輝き出すところに、この世の寂光土化が完成されていくわけであります。
また、この三因仏性ということ、特に正因仏性を心の底から自覚することができれば、自分が本仏の実の子であり、願ってこの世に生まれてきたのだということが自覚できます。つまり、すでに仏となることのできる身でありながら、浄土に生まれる果報を捨てて、衆生をあわれむがゆえに、自ら願ってこの世に生まれたのだという自覚です。善悪の業によってこの世に生まれてきたのではなく、すべての衆生を救い、すべての人びとに仏性を自覚させてあげようという願いと、慈悲心によって生まれてきたのだという自覚です。
仏教というものをぎりぎりまで煮つめていけば、この自覚に到達するのであります。つまり、一切衆生に具わっている仏性を顕現し、みがきあげていく教えが、仏教であると結論づけることができるのであります。そして、そのことが完璧に説かれているのが、《法華経》なのであります。この本の表題を〈仏教のいのち法華経〉としたゆえんも、ここにあるのであります。