法華経の成立と伝弘
法華経の成立と伝弘
「法華経」がどうして生まれたものであるかについては、前にあらまし書きましたが、もうすこし詳しく、そしてそれが日本に伝わるまでの成りゆきをも、述べてみましょう。
釈尊ご在世のころのインドには、まだ文字は一般には普及していませんでした。それで、釈尊の説法は、耳で覚えて口づてに伝えられました。ものを聞いたら頭に覚えるよりしかたがなかったころの人たちは、今ではちょっと想像できないほど記憶力がたしかでした。また、その頃は、生活も今日のように複雑なセカセカしたものではなかったし、しかも、頭がよくて心の澄みきった大弟子たちが、師と仰ぐ釈尊の一語一語をかみしめるように聞いていたのですから、まず聞きまちがいはなかったことと思われます。そのうえ、仏弟子たちは、釈尊が入滅されたのち、自分たちの記憶にまちがいはないかと、なんども大会議を開いて、それをたしかめたり、訂正しあったりして、ひとつにまとめました。ですから、耳で聞き、口で伝えたにしても、釈尊のおっしゃったことは正しく残されていったわけです。
とはいえ、広い北インドの土地を五十年間も、足の裏の土踏まずが板のようになるまで歩きまわって説かれた、数知れないほどの説法ですし、前にも述べましたように、その人その人の理解力に応じていろいろな説きかたをされましたので、地区により、グループによって、受け取りかたがちがってきましたし、時代の移り変わりによって、解釈のしかたや、行ないのうえに表現するやりかたがちがってきたことは、やむをえません。
しかし、釈尊の教えそのものは、前に述べたような仏弟子たちの努力によって、正しく伝えられました。ですから、どのお経だって尊くないものはありません。「阿含経」にしても、「般若経」にしても、「阿弥陀経」にしても、その他のお経にしても、それぞれに尊い教えが説かれています。ただ「法華経」には、そういう釈尊ご一代のすべての教えの根本精神がはじめてはっきりと発表され、またすべての教えの精神がよくかみくだかれて、ここに統一されているのです。いいかえますと、釈尊が「これこそわたしの教えの神髄であるぞ」とおっしゃったその神髄が、わかりやすい、そして感動に満ちた表現であますところなく述べられているのです。
よく、あるお経とあるお経との優劣を論じたり、それを釈尊の教えの優劣のように錯覚したりする人がありますが、それはとんでもないまちがいです。どの経典も、釈尊ご自身が編集されたものではありません。釈尊は、鹿野苑で五人の修行者に最初の説法をなさってから八十歳で入滅されるまでの四十余年間に、数知れぬ人たちにむかって、数知れぬほどの説法をされただけなのです。その数知れぬほどの説法のうち、それぞれのグループの弟子・孫弟子たちが、自分たちが聞いた、あるいは聞き伝えた説法を、思い思いに本にまとめたのが、いろいろな経典なのです。釈尊ご自身は、どのお経を通じて仰いでも、同じ光でわれわれを照らしてくださる尊いお方であることに変わりはないのです。ですから、「法華経」が最高の教えであることにはまちがいないのですけれど、それを讃えるためにほかの経典をけなしたりするのは、心得ちがいといわなければなりません。