法華経の成立と伝弘

象徴的な表現

さて、その「()()(きょう)」は、(とう)()(たい)(しゅう)によく()(かい)できるように、()(きょく)のような(かたち)(へん)(しゅう)されました。また、(かたち)のない、あたまのうえだけの(かんが)えというものは、そういうような学問(がくもん)をした(ひと)でなければのみこみにくいものですから、「()()(きょう)」の(へん)(しゅう)(しゃ)は、(かたち)のない()(そう)をある(かたち)(あら)わして、のみこませようと()(りょく)しました。
たとえば、お(しゃ)()さまの()(けん)から(ひかり)()東方(とうぼう)(まん)(せん)()(かい)をハッキリと()らしだすと、どこにも(ほとけ)(ほとけ)弟子(でし)たちがおられるのが()えたことが「序品第(じょほんだい)一」にありますが、それはつまり、この()(きゅう)(じょう)ばかりでなく、どの(ほし)にも、どの天体(てんたい)にも、すなわち、()(ちゅう)全体(ぜんたい)どこにでも(ほとけ)はいらっしゃるのだということを、こういう(ひょう)(げん)でいいあらわしたのです。
()震動(しんどう)するのも、(はな)(あめ)()るのも、みなそうです。現代(げんだい)(ぶん)(しょう)にも「くやしくて、全身(ぜんしん)()逆流(ぎゃくりゅう)した」とか「おかしくて、(わら)いころげた」などという(ひょう)(げん)がよく使(つか)われています。だれしも、これを()んで、うそだとは(おも)いません。ところが、よく(かんが)えてみると、いくらくやしくても、全身(ぜんしん)()逆流(ぎゃくりゅう)などしませんし、(わら)いころげたといっても、せいぜいおなかをかかえて、(あたま)(たたみ)へつけるかつけないかぐらいでしょう。しかし、「全身(ぜんしん)()逆流(ぎゃくりゅう)した」とか「(わら)いころげた」という(ひょう)(げん)は、「()(じつ)」ではなくても、()いた(ひと)(こころ)(もち)の「真実(しんじつ)」をよく(つた)えてくれます。
ここのところが「()()(きょう)」を()(かい)するひとつの(かぎ)なのです。大切(たいせつ)なのは、「()(じつ)」でなく、「真実(しんじつ)」です。(ほとけ)がわたしたちに(おし)えてくださろうとする「真実(しんじつ)」なのです。ですから、どんなに実際(じっさい)にはありそうもないことが()いてあっても、その文字(もじ)の、その(ぶん)(しょう)(ひょう)(めん)をつき()けた(おく)にある「真実(しんじつ)」、(ほとけ)(おし)えてくださろうとする「真実(しんじつ)」をこそ、しっかとつかまねばならないのです。

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