法華経の成立と伝弘
鳩摩羅什の翻訳
その「法華経」を中国に伝え、中国語に訳した人はいろいろありますが、現在用いられているのは鳩摩羅什という人の手になったものです。この人のお父さんはもとインドの名門の出ですが、インドと中国のあいだにある亀茲という国に行き、ここの国王の妹と結婚しました。そして生まれたのが鳩摩羅什です。この国もたいへん仏教の盛んな国で、鳩摩羅什も七歳のときお母さんと共に出家し、インドに留学して大乗仏教を学びました。その才能・人格が万人にすぐれていることを見極めた師の須梨耶蘇摩は、羅什が帰国するときに、「妙法蓮華経」を授け、その頭をなでながら、「仏日西に入りて、遺耀まさに東におよばんとす。この経典は東北に縁あり。なんじ慎んで伝弘せよ。」と、いわれたとあります。「東北に縁あり」ということばは、いまからふりかえってみると、たいそう意味深いものであって、後日、さらに東北にある日本においてほんとうにその生命の花が開いた事実に、無量の感を覚えざるをえません。
さて、羅什は師のことばに従って、東北のほうにある中国へいってこのお経をひろめようという一大決心をしましたが、そのころの中国には戦乱があいつぎ、国が滅びたり興ったりして、なかなか思うようにいきませんでした。しかし、羅什の名声はあまねくひびきわたっていましたので、ついに後秦という国ができたとき、その国王の招きを受けて国都長安に行きました。そのときすでに六十二歳におよんでおりましたが、その後八年間、七十歳でなくなるまで、国師の待遇を受けながら、いろいろな経典を中国語に訳しました。
なかんずく「法華経」が最も重要なものであったことはもちろんです。それまでの中国語訳には、誤りがたくさんありましたので、羅什は非常に慎重な態度で、しかも命をかけた真剣さで、その仕事にうちこみました。すなわち、羅什はインド語も中国語も自由自在だったのですけれども、自分一人で訳述するようなことをせず、やはり両国語に通じた大ぜいの学者を集め、国王や信徒なども列席のもとに、「法華経」の講義をしました。学者たちはその筆記をもとにして、それぞれ中国語の訳をつくり、それを持ちよって研究に研究を重ね、厳重な討議をして、ようやく定本をつくりあげたのです。それに従事した人は、およそ二千人にもおよんだといわれています。ですから、インドのことばから中国語に訳されても、釈尊の教えはほとんど誤りなく伝えられていると断じてさしつかえないわけです。
それについて、こういう話があります。国王は、羅什の人物や才能に深く心服していましたので、どうしてもその子供を残したくてしかたがありません。それで、無理に羅什に奥さんを持たせたのです。そういういきさつがありましたので、羅什は入寂するときに、
「わたしはやむをえず戒律を破って妻をもったが、わたしが口で述べたことだけは、けっして仏意にそむかなかったものと信じている。もしそのとおりだったら、わたしのからだを火葬にしたとき、舌だけは焼けのこることだろう。」
と、いい残しました。すると、入寂後火葬にしたところ、はたして舌だけが青蓮華の上に輝かしい光を放っていた、と伝えられています。
その後、中国の仏教の中心となったのはこの「法華経」であり、それも、小釈迦といわれた天台大師があらゆる大乗小乗の経典をきわめつくした結果「仏陀の真意はここにあり」と断じて、「法華玄義」十巻、「法華文句」(十巻)、「摩訶止観」(十巻)のようなすばらしい解説書をあらわされてから、ますます広く全中国にひろがり、まもなく朝鮮半島をへてわが国へも伝わってきました。