法華経のあらましと要点

見宝塔品第十一

まえの《(ほっ)()(ほん)(だい)(じゅう)》において、お(しゃ)()さまは、(まつ)()において()()(きょう)(おし)えを()くものの(こころ)がまえと、(ただ)しくその(おし)えを()くものが()けるであろう()(どく)をお()きになりました。

()(ほう)(にょ)(らい)(しょう)(めい)

それを()()えられたとたんに、()(まえ)()(じょう)から、(こう)(みょう)さんぜんたる(だい)(とう)(しゅん)()()かびいで、(てん)(くう)(たか)くそびえたちました。しかも、その(ほう)(とう)のなかから(だい)(おん)(じょう)がひびきわたり、「すばらしい。まことにすばらしい。(しゃ)()()()()(そん)は、すべての(しゅ)(じょう)がひとしく(ほとけ)となることができると()とおす()()(びょう)(どう)(だい)())にもとづき、すべての(ひと)()(さつ)(みち)(しめ)(おし)え((きょう)()(さっ)(ぽう))であり、もろもろの(ほとけ)()(よう)として(まも)って((ぶっ)(しょ)()(ねん))こられた(みょう)(ほう)(れん)()(おし)えを、(たい)(しゅう)のためにお()きになりました。そのとおりです。(しゃ)()()()()(そん)がお()きになることは、すべて(しん)(じつ)であります」とほめたたえ、その(おし)えの(しん)(じつ)(しょう)(めい)されるのでした。
(ひと)びとはいいしれぬありがたさに()たれていましたが、そのなかの(だい)(ぎょう)(せつ)()(さつ)が、「どういうわけで、この(ほう)(とう)()から()きだし、このような(だい)(おん)(じょう)()されたのでしょうか」とおうかがいしますと、お(しゃ)()さまは、〈()(ほう)(とう)(うち)(にょ)(らい)(ぜん)(しん)います〉とお(こた)えになりました。

(ほう)(とう)(ぶっ)(しょう)(しょう)(ちょう)

このおことばの()()はじつに(じゅう)(だい)です。(にょ)(らい)とは〈(しん)(にょ)から()(ひと)〉という()()ですから、(にょ)(らい)(ぜん)(しん)がこの(とう)のなかにいらっしゃるというのは、〈(しん)(にょ)(かん)(ぜん)なすがたがここにある〉という()()であります。
(しん)(にょ)とは、この()(ちゅう)のすべてのものごとを(そん)(ざい)たらしめている〈(ほう)〉そのもののことです。ほかのことばでいえば〈(こん)(げん)(ほう)〉であり、〈(きゅう)(きょく)(しん)()〉です。これを(にん)(げん)にあてはめていえば、そのほんらいのすがたである〈(ぶっ)(しょう)〉です。したがって、この(ほう)(とう)というのは、〈(ぶっ)(しょう)〉の(しょう)(ちょう)にほかならないのです。
その(とう)(てん)から()ってくるのではなく、()から()きだしたというのが、これまたたいせつなことです。〈(てん)〉は(にん)(げん)からはなれた()(そう)()(かい)をいい、〈()〉は(にん)(げん)(みっ)(ちゃく)した(げん)(じつ)()(かい)をいいます。したがって、(ぶっ)(しょう)()(てん))からあたえられるものではなく、(げん)(じつ)のわれわれ()(しん)())のなかにあるのであるから、われわれはただそれを()(かく)すればよいのだということが、ここに(しめ)されているのです。
(みょう)(ほう)(れん)()(おし)えは、この(しん)()にもとづき、(ばん)(にん)(びょう)(どう)(ぶっ)(しょう)()(かく)し、(けん)(げん)することによって、この()(すく)おうという、いわゆる()(さつ)(みち)(おし)えであり、(しょ)(ぶつ)がもっともだいじな(おし)えとして()(ねん)されるものであります。それをお(しゃ)()さまがはじめて(たい)(しゅう)のためにお()きになったのですから、これはいくら(しょう)(さん)しても(しょう)(さん)しきれない(せい)(ぎょう)であり、(じん)(るい)にとって(ばん)(せい)にわたる(いち)(だい)()であったわけです。ですから、(ぶっ)(しょう)(だい)(とう)のなかから、このような(だい)(おん)(じょう)がひびきわたったのであります。
つぎにお(しゃ)()さまは、「(ほう)(とう)(ぬし)であられるのは、はるかな(とう)(ほう)()(かい)()られた()(ほう)(にょ)(らい)という(ほとけ)さまで、その(ほとけ)さまがまだ()(さつ)()(だい)に、『()(ぶん)(ほとけ)となったのち、いずれの()(かい)においてでも()()(きょう)()かれるならば、()(ぶん)はその(おし)えを()くために、(せっ)(ぽう)()(まえ)(だい)(とう)(しゅつ)(げん)させ、その(おし)えの(しん)(じつ)(しょう)(めい)し、(しょう)(さん)しよう』という(だい)(せい)(がん)()てられ、(ほとけ)となって()()られるとき、『わたしの(ぜん)(しん)()(よう)しようとおもうならば、ひとつの(だい)(とう)()てよ』と(ゆい)(ごん)なさった」と、おのべになります。
()(ほう)(にょ)(らい)とは、「はるかな(とう)(ほう)(くに)(ほとけ)さま」というおことばでわかるように、じっさいにこの()()られた、すがた(かたち)のある(ほとけ)さまではありません。〈(しん)(にょ)そのもの〉・〈(しん)()(ぜん)(そう)(しん)()(かん)(ぜん)(すがた))〉を()(ほう)(にょ)(らい)ともうしあげるのです。(しん)(にょ)そのものとか(しん)()(かん)(ぜん)(すがた)などといっても、(とう)()(いっ)(ぱん)(たい)(しゅう)にはのみこめなかったために、(にょ)(らい)さまという(にん)(げん)らしい(かたち)をつけてお(しゃ)()さまはお()きになったわけです。
いつでも、どこでも()わりのないのが(しん)(にょ)としての(きゅう)(きょく)(しん)()です。この()(ちゅう)がはじまって()(らい)いつも(・・・)、そして()(ちゅう)どこ(・・)()()()()()、その(しん)()()わりなく(そん)(ざい)しているのです。その(しん)()は、いろいろな(かたち)をとってあらわれるわけですが、そのおおくのあらわれをひっくるめた(とう)(いつ)(てき)なすがたを、()(ほう)(にょ)(らい)(しょう)(ちょう)してあるのです。ですから、「(おお)くの(たから)をあつめた(にょ)(らい)」と()づけられてあるわけです。
ところで、()(ほう)(にょ)(らい)のおことばの〈(だい)(とう)()てよ〉というのは、「すべてのものの(ぶっ)(しょう)(けん)(げん)せよ」ということです。それが()(ほう)(にょ)(らい)(きゅう)(きょく)(しん)())にたいする(さい)(だい)()(よう)であります。なぜならば、(しん)(にょ)としての(きゅう)(きょく)(しん)()そのとおりに(・・・・・)(けん)(げん)されることを(ほっ)しているのであって、すべてのもの(ぶっ)(しょう)(けん)(げん)することが(しん)()(まった)(すがた)()にあらわすことにほかならないからです。

(じっ)(ぽう)(ふん)(じん)(しょ)(ぶつ)(らい)(しゅう)

そこでお(しゃ)()さまは、(だい)(ぎょう)(せつ)()(さつ)をはじめとする(いち)(どう)(ねが)いによって、(じっ)(ぽう)()(かい)のご()(ぶん)(ぶん)(しん)をお(あつ)めになります。すると、(しゃ)()(こく)()ばかりでなく、(ぜん)()(ちゅう)(ほとけ)さまの(ぶん)(しん)(じゅう)(まん)してしまうのです。それを()とどけられたお(しゃ)()さまは、スーッと(くう)(ちゅう)におのぼりになって、(ほう)(とう)のまえにおとどまりになります。

(きゅう)(きょく)(しん)()(かつ)(どう)させるもの

そして、(みぎ)()()()(しょう)(ちょう))で(ほう)(とう)(とびら)をおひらきになりますと、そのなかに、あたかも(ぜん)(じょう)にはいったかのようにじっと()(うご)きもされずに()しておられる()(ほう)(にょ)(らい)(かん)(ぜん)なおすがたが、ありありと(はい)されるのです。
ところが、()(ほう)(にょ)(らい)は、たちまちお(くち)をひらかれて、「すばらしい。まことにすばらしい。よくぞ(しゃ)()()()(にょ)(らい)は、(こころよ)くこの()()(きょう)をお()きくださいました」とおおせられたのです。
ここにもたいへん(じゅう)(だい)なことが(しょう)(ちょう)されています。(しん)()(ぜん)(そう)である()(ほう)(にょ)(らい)がじっと()(うご)きもされずに()しておられるというのは、〈(きゅう)(きょく)(しん)()(えい)(きゅう)()(へん)である〉ということです。しかし、(ぜん)(じょう)にはいったかのように(うご)かないものには、われわれの(じん)(せい)()える(ちから)がありません。それを()(ひと)があり、それが(にん)(げん)(こころ)のなかへ(うご)きだしてきたとき、はじめて(にん)(げん)()(かい)(すく)いとなるのです。だからこそ、(きゅう)(きょく)(しん)()そのものである()(ほう)(にょ)(らい)が、その(しん)()()いてそれに(うご)きをあたえるはたらきをなさったお(しゃ)()さまを、ほめたたえられるのです。ということはつまり、〈(きゅう)(きょく)(しん)()は、それが()かれ、おおくの(ひと)()(かい)され、(かつ)(よう)されることを(のぞ)んでいる〉のだということを、このように(ひょう)(げん)されているわけです。

()(ぶつ)(どう)()

そのとき()(ほう)(ぶつ)は、()()()のまんなかにおすわりになっておられたおん()を、(なか)ばおずらしになり、「(しゃ)()()()(ぶつ)、どうぞこの()におつきください」とおおせられ、(しゃ)()()()(ぶつ)はすぐ(ほう)(とう)のなかにはいられて、()(ほう)(ぶつ)とならんでおすわりになりました。
この(こう)(けい)にも、ひじょうにたいせつなことが(あん)()されています。
(だい)一に、おおくの(ひと)びとが(しゃ)()()()(にょ)(らい)を、()()にする(にく)(たい)をもたれた(ほとけ)さまとばかりおもいこんでいる(まよ)いをうち(やぶ)り、()(ほう)(にょ)(らい)とおなじように、(しょう)(めつ)しながらも(しょう)(めつ)しない(ほとけ)であることを(しめ)されているのです。これは、あとの《(にょ)(らい)寿(じゅ)(りょう)(ほん)(だい)(じゅう)(ろく)》で(あき)らかにされることで、ここではまだ(あん)()だけにとどまっています。
(だい)二に、(ほっ)(しん)(ほとけ)()(ほう)(ぶつ))と、(おう)(じん)(ほとけ)(しゃ)()()()(ぶつ))とは(どう)(かく)であることを(しめ)されているのです。すなわち、〈(しん)(にょ)そのもの〉と〈(しん)(にょ)()(ひと)〉は、おなじように(とうと)(そん)(ざい)であるという(おし)えです。

(りょう)(ぼう)()(じゅう)

()(ほう)(しゃ)()()()()(にょ)(らい)が、(くう)(ちゅう)()かんだ(ほう)(とう)()()()におすわりになっているのを(はい)した(たい)(しゅう)は、「(ほとけ)さまはあのような(たか)(とお)いところにいらっしゃる。われわれも、(にょ)(らい)神力(じんりき)によって、()(くう)のあそこまで()()げていただきたいものだ」という(おも)いを()こしました。その()(もち)(さっ)せられたお(しゃ)()さまは、すぐさま一同(いちどう)()(くう)()()げておあげになりました。そして「いまこそ、もろもろの(たい)(しゅう)()げます。わたしが()()ったのち、しっかりとこの(おし)えを護持(ごじ)し、読誦(どくじゅ)するのは、だれだれですか。その人は、いまわたしの(まえ)(ちか)いのことばをのべなさい。
そもそも()(ほう)如来(にょらい)は、ひさしく(めつ)()しておられたのに、()()(きょう)()かれるところにはかならず出現(しゅつげん)してそれを(しょう)(めい)しようという誓願(せいがん)によって、こうしておすがたをあらわされ、(だい)(おん)(じょう)(はっ)せられました。この()(ほう)(にょ)(らい)と、わたしと、わたしの分身(ふんじん)諸仏(しょぶつ)、この三(しゃ)のもつ意味(いみ)をよくよく認識(にんしき)しなければなりません。
もろもろの弟子(でし)たちよ。だれがこの(おし)えをよく(まも)ってくれますか。いまこそ大願(たいがん)()こして、この(おし)えを()(らい)(えい)(ごう)にのこしてほしいものです。もしこの()()(きょう)(おし)えをよく(まも)ることのできる人があったならば、それがそのまま、わたしと()(ほう)(にょ)(らい)()(よう)することになるのです」とおおせられたのです。このお(しゃ)()さまの()びかけを〈(りょう)(ぼう)()(じゅう)〉といいます。

(ろく)(なん)()()

このように(しゅ)(じょう)()()(きょう)(こう)(せん)()()()びかけ、(はげ)まされると(どう)()に、お(しゃ)()さまの(めつ)()()()(きょう)()(ひろ)めることが、(はか)()れないほど(こん)(なん)であるがために、()()(きょう)()(つう)()(どく)がいかに(じん)(だい)であるかを()かれました。これを〈(ろく)(なん)()()〉といいます。(ろく)(なん)とは、(せっ)(きょう)(なん)(しょ)()(なん)(ざん) (どく)(なん)(せっ)(ぽう)(なん)(ちょう)(じゅ)(なん)()()(なん)をいいます。

()(しょ)(さん)()

これまでの(せっ)(ぽう)()は、(りょう)(じゅ)(せん)(さん)(じょう)(おこ)なわれていました。そして、これから《(ぞく)(るい)(ほん)(だい)()(じゅう)()》の()わりまでは()(くう)において(おこ)なわれ、それからふたたび(さん)(じょう)にもどります。
こうして()()(きょう)(せっ)(ぽう)()は、(さん)(じょう)()(くう)の二か(しょ)で、三(かい)にわたって(おこ)なわれますので、〈()(しょ)(さん)()〉といわれています。これにはやはり(ふか)()()があるのです。
(さん)(じょう)(げん)(じつ)()(くう)()(そう)です。どのような(おし)えにしても、はじめは(げん)(じつ)(そく)した(おし)えでないと、とっつきにくくもあるし、()(かい)もむずかしいのです。ですから(ほとけ)さまも、はじめは、どうしたら(まよ)いを()り、(じん)(せい)()からのがれられるかという、(げん)(じつ)(てき)(もん)(だい)からお()きになったのです。
()()(きょう)だけを()ても、(さい)(しょ)のほうでは、この()()()ちはどうなっているのか、(にん)(げん)とはいったいどんなものであるか、(にん)(げん)(にん)(げん)との(かん)(けい)はどうあるのが(ただ)しいかということを()きわめる()()をお()きになりました。
そういう()()()についてきたら、いよいよ()(そう)(きょう)()(しめ)さなければなりません。すなわち、()(おん)(ほん)(ぶつ)(いっ)(たい)となる(きょう)()であります。これは、(ぼん)()にとって(げん)(じつ)(せい)(かつ)ではなかなかつかみにくい(きょう)()であります。(そう)(ぎゃ)(なか)()(ただ)しい(しゅう)(きょう)(だん)(たい))に(はい)り、さまざまの(しん)(こう)(じょう)(しゅ)(ぎょう)なしではなかなか(さと)ることができません。つまり、()(くう)にのぼってこそ(とう)(たつ)しうる(きょう)()です。
その(さと)りにたっしたら、こんどはまた(げん)(じつ)にたちもどって、その(さと)りをこの()(じっ)(せん)にうつし、またおおくの(ひと)びとにおよぼしていかなければ、(じん)(るい)(ぜん)(たい)(すく)いは(じつ)(げん)せず、したがって()(ぶん)()(じん)(すく)いも(かん)(せい)されません。そこで、(せっ)(ぽう)()もふたたび(げん)(じつ)にもどるわけです。
()()(きょう)》は、このような、じつに(ごう)()(てき)(こう)(せい)になっているのであります。

よくあるご質問
立正佼成会に関する「わからない」に
お答えします。
よくあるご質問
立正佼成会ってどんなところ?
家の近くに教会はある?
会員になると何をするの?
このページについて
ご意見をお聞かせください。
役に立った
どちらでもない
役に立たなかった