法華経のあらましと要点

勧持品第十三

この(ほん)のはじめのほうは、お(しゃ)()さまの(よう)()であった()()()(じゃ)()(だい)()()()と、(つま)であった()(しゅ)()()()()()(じゅ)()されるくだりです。ここで、さきの(りゅう)(にょ)(もの)(がたり)()けて、〈(にょ)(にん)(じょう)(ぶつ)〉のしめくくりがつくわけですが、このふたりの()()()のように、(きょう)(よう)(たか)く、(とく)()み、しかもお(しゃ)()さまから(ちょく)(せつ)(おし)えを()けた()(じん)が、なぜ(さい)()まで(じゅ)()されず、(もん)(じゅ)()()から(おし)えを()けた、いわば(まご)()()であり、しかも()(こく)(むすめ)である(りゅう)(にょ)のほうがさきに(じゅ)()されたのか……これにはつぎの二つの(おし)えがこめられていると()けとるべきです。

(はく)()(こころ)(ほう)()(なお)()けとる

(だい)一は、まえの阿難(あなん)羅睺羅(らごら)場合(ばあい)とおなじケースです。お釈迦(しゃか)さまを(あか)ちゃんのときから()(しお)にかけて(そだ)てたとか、かつて()(じん)として()までもうけた(なか)であるとか、そういうあまりにも()(ぢか)(ひと)(きょう)()のむずかしさを、ここで(おし)えられているのです。
(りゅう)(にょ)(もん)(じゅ)()(さつ)のように、たんなる()(てい)のあいだがらであれば、むしろすらすらと(ほう)()()れることができるのにたいして、()(どう)(しゃ)とごく()(ぢか)なあいだがらにある(はは)(つま)は、(にく)(しん)としての(かん)(じょう)がわざわいして、かえって(ほう)()()れがスムーズにいかないことが、(いっ)(ぱん)(てき)にはおおいにありうるのです。
そのようなことを(おし)えるために、わざと(じゅ)()(おく)らされたものと(かい)することができます。したがって、なにもこのふたりの()()(りゅう)(にょ)(おと)っていたのではけっしてないわけです。
(だい)二に、「(おし)えを(ただ)しく(つた)えるかぎりは、だれが(つた)えようと(もん)(だい)ではない。また、それを()(なお)()けとるかぎりは、(きょう)(いく)(きょう)(よう)のあるなしは(もん)(だい)ではない。みんな(ほとけ)(さと)りを()られるのだ」ということが、(おし)えられているのです。お(しゃ)()さまの(ちょく)(せつ)のお()()ではなくても、(なん)(ねん)(こう)(せい)(にん)(げん)であっても、またどんな(くに)、どんな(みん)(ぞく)(ぞく)する(ひと)であっても、そんなことは(いっ)(さい)(もん)(だい)ではなく、(はく)()(こころ)(ほう)()(なお)()けとれば、それで(すく)われるのだということです。(げん)(だい)のわれわれにとって、ひじょうにありがたい(おし)えだとおもいます。

()(さつ)()(きょう)(ちか)

さて、《(かん)()(ほん)》の(ちゅう)(しん)となるのは、このあとのほうで、()()(きょう)のこれまでの(せっ)(ぽう)(ふか)(かん)(どう)し、とくに《(だい)()(だっ)()(ほん)》において〈すべての(にん)(げん)(びょう)(どう)(ぶっ)(しょう)をもっている〉という(しん)(じつ)(げん)(じつ)(そく)して(おし)えられた()(さつ)たちが、このすばらしい(おし)えをいのちをかけて(しゅ)()し、(じっ)(せん)し、()きひろめることを、(ちから)づよく(ちか)(だん)であります。
(かん)()〉というのは、〈(じゅ)()(すす)める〉という()()ですが、この(ほん)では、ひとに(すす)めることばはほとんどのべられていず、みずからの(けつ)()(ちか)うことばに(しゅう)()しています。ひとに(すす)めるには、まず()(ぶん)()(しん)(かた)(けつ)()ができていなければならず、また()(ぶん)()(しん)(じっ)(せん)してみせなければ、ほんとうにひとをみちびくことはできないわけですから、この《(かん)()(ほん)》という(だい)(めい)もなかなか()()(ふか)いといわなければなりません。

(かん)()(ほん)()(じゅう)(ぎょう)()

この(ほん)でとくにだいじなところは、(さい)()にある、いわゆる〈(かん)()(ほん)()(じゅう)(ぎょう)()〉(むかしの(かん)()だけの(きょう)(もん)には、四()を一(ぎょう)にして二十(ぎょう)()かれていたため、こう()ばれた)です。(にち)(れん)(しょう)(にん)が、この()にのべられていることが、ひとつのこらずご()(ぶん)()にあらわれてきたことによって、「われこそ(まっ)(ぽう)()()()(きょう)()きひろめる使()(めい)をもって()まれたものだ」という()(かく)()られたというのは、(ゆう)(めい)(はなし)です。その()(じゅう)(ぎょう)()(たい)()は、およそつぎのとおりです。
「わたくしどもは、(ほとけ)さまを(こころ)から(うやま)っておりますから、(ほとけ)さまが(さい)(こう)(おし)えであるとお()きになるこのお(きょう)を、(ほとけ)さまとおなじように(うやま)います。それゆえに、この()()(きょう)(まも)り、()きひろめるためには、(がい)()から(くわ)えられるもろもろの(はく)(がい)(こん)(なん)をじっと(しの)びます。わたくしどもは、(いのち)など()しいとはおもいません((われ)(しん)(みょう)(あい)せず)。ただ、この()(じょう)(おし)えに()れない(ひと)がひとりでもいることが、なによりも()しいのでございます((ただ)()(じょう)(どう)(おし)む)。
()(けん)(いっ)(ぱん)(たい)(しゅう)()()(かい)からくる(けい)(べつ)も、()(しゅう)()(せん)(もん)()たちの(てき)()からくる(はく)(がい)も、(たか)()()をかさに()てこの(おし)えを()(しき)(てき)()()したりおしつぶそうとしたりする(ひと)(ちから)をも、すべておそれはばかることなく、どんなところへでもいってこの(ほう)()きましょう。
わたくしどもは、まさしく()(そん)使(つか)いでございます((われ)()()(そん)使(つかい)なり)。(ちか)って(ぜん)(りょく)をつくし、(ただ)しく(ほう)()きひろめます。(ほとけ)さま、どうぞ(こころ)(やす)らかにおぼしめしくださいませ」

(さん)(るい)(ごう)(てき)

ここに、()()(きょう)にたいする三(しゅ)(たい)(てき)があげられています。(げん)(だい)(しん)(きょう)()(ゆう)()(なか)ですから、二千(ねん)(まえ)のインドにおいて()()(きょう)(しん)ずるグループが()けたような、あるいは七百(ねん)(まえ)(にち)(れん)(しょう)(にん)(たい)(けん)されたような(はく)(がい)はありませんが、(げん)(だい)(てき)(かたち)において、やはり()たようなものが(そん)(ざい)します。
(だい)一を〈(ぞく)(しゅ)(ぞう)(じょう)(まん)〉といって、《()()(きょう)》を()んだこともなく、(ない)(よう)もほとんど()らないくせに、それを(どく)(ぜん)(てき)(おし)えだと()(なん)したり、その(しん)(じゃ)(けい)(べつ)したりする(いっ)(ぱん)(たい)(しゅう)です。これは、()()における()()(きょう)(しん)(じゃ)にも(いっ)(ぱん)(つみ)があるわけですから、われわれは、それを(はん)(せい)し、()()(きょう)のみを(どく)(ぜん)(てき)にふりかざしたり、(せい)()(てき)()(よう)したり、あまりにも(げん)()()(やく)(てき)()くことをつつしみ、あくまでもその(ほん)()にのっとって、おだやかさのなかに(しん)のつよさのこもった、(しん)(こう)(しゃ)らしい(たい)()でそれを()かねばならないのであります。
(だい)二を〈(どう)(もん)(ぞう)(じょう)(まん)〉といって、()(しゅう)(きょう)()(しゅう)()(ひと)たちが、あたまから(てき)()をもって、()()(きょう)(しん)()()(かい)しようとしない(たい)()です。(しゅう)(きょう)とくに(ぶっ)(きょう)のだいじな(せい)(しん)のひとつに、(かん)(よう)ということがあります。(あやま)ちをおかしたものをもゆるし、すべての(ひと)をいだきとるのが(しゅう)(きょう)です。
それなのに、(きょう)()(ひょう)(めん)における(そう)()や、(しん)(こう)(じょう)(しょ)()のちがいによって、(かん)(じょう)(てき)()(しゅう)(きょう)()(しゅう)()(てき)()するのは(しゅう)(きょう)(しゃ)とはいえないのです。
そういう(ひと)たちにたいして、もしわれわれ()()(きょう)(ぎょう)(じゃ)がめくじらをたてて(こう)(そう)するならば、われわれ()(しん)(かん)(よう)(せい)(しん)をふみにじることになります。どこまでも(にん)(にく)(たい)()をもって、そのような(ひと)たちが(しゅう)(きょう)(ほん)()にめざめるように、(ねば)りづよい()(りょく)をつづけねばならないのです。
(だい)三は、〈(せん)(しょう)(ぞう)(じょう)(まん)〉といって、(しゅう)(きょう)(かい)(がっ)(かい)において(たか)()()にあり、()(そん)(けい)()けている(ひと)が、その(じょう)(たい)(とう)(すい)し、あるいはその()()(まも)ろうとして、(ただ)しい(おし)えをないがしろにすることです。ほんとうにえらい(ひと)だったら、「これこそ(しん)(じつ)(おし)えだ」と()ったなら、(かん)(ぜん)としてそれを()()するはずですが、(こころ)(せま)(ひと)は、えてして(あたら)しくうちだされた(おし)えにそっぽを()いたり、よりすぐれた(おし)えをけむたがったりするものです。そういう()(あい)、「あの(ひと)はえらい(ひと)(しょう))だ」という()(けん)(しん)(よう)(そん)(けい)()(しき)(てき)()(よう)しがちで、その(えい)(きょう)(りょく)はたいへん(おお)きなものがありますから、この〈(せん)(しょう)(ぞう)(じょう)(まん)〉は三つの(ぞう)(じょう)(まん)のうちでもっとも(あく)(しつ)なものとされています。
われわれは、なにもまっこうからそういう(ぞう)(じょう)(まん)(たい)(こう)する(ひつ)(よう)はなく、()(ぶん)(しん)ずる(しん)(じつ)(おし)えを、あくまでも(せい)(どう)()んで(こう)(せん)()()していけばいいのです。(しん)(じつ)(おし)えは()(めつ)だからです。(いっ)(ぽう)、もしわれわれがそのような()()になったとしたら、けっしてそのような(ぞう)(じょう)(まん)におちいることなく、つねにみずみずしい()(のう)と、(じゅう)(なん)(こころ)をもって、(わか)(せい)(りょく)()()れ、(しょう)()するように(こころ)がけねばならないとおもいます。

()(しゃく)(しん)(みょう)

この()のなかにある〈(われ)(しん)(みょう)(あい)せず (ただ)()(じょう)(どう)(おし)む〉というすばらしい(つい)()から、()()(きょう)(ぎょう)(じゃ)(あい)(こと)()である〈()(しゃく)(しん)(みょう)〉が()まれました。
もちろん(げん)(だい)(じん)の〈()(しゃく)(しん)(みょう)〉は、(せい)(めい)そのものを()しまないというのではなく、()(ぶん)()(じん)(てき)()(えき)()(かい)しないということになりましょう。すなわち「()(かん)や、(ろう)(りょく)などはすこしも()しくない。また、()(けん)(ひと)たちがどんな()()ようと、どんなことをいおうと、すこしも(おそ)れはばかることはない」……ということです。
なぜそういう()(もち)になるのかといいますと、(しん)()(みょう)(ほう))を()しむからです。この()(じょう)(おし)えに()れない(ひと)がひとりでものこっていることが、()しまれてならないからです。それぐらいの(じゅん)(すい)()(もち)になってこそ、ほんとうの()()(きょう)(ぎょう)(じゃ)ということができるのです。

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