法華経のあらましと要点

安楽行品第十四

まえの『勧持品第十三(かんじほんだいじゅうさん)』において、()(さつ)たちが、(こん)()のさまざまな(はく)(がい)()(そう)し、それにたいする(かく)()をのべたのにたいして、お(しゃ)()さまが、「いつも(やす)らかな(こころ)で、みずからすすんで(ほう)()け」とお(おし)えになり、そのための()(たい)(てき)(こころ)がまえをこまごまとお()きになり、(けつ)(ろん)として、〈()()(きょう)(おし)えを(こころ)から(しん)じ、()(おこ)なえば、いかなる(こん)(なん)をも(ちょう)(えつ)した(やす)らかな(しん)(きょう)にたっすることができ、(しき)(しん)()()(ほう)(そく)によって、その(やす)らかさは(しん)(たい)のうえにも、(せい)(かつ)のうえにもあらわれてくる〉ということを()(しょう)されるのが、この(ほん)です。

()(あん)(らく)(ぎょう)

(もん)(じゅ)()(さつ)が、「(けん)(あく)なのちの()において、どうすればよくこの()()(きょう)()くことができるのでございましょうか」と(しゃく)(そん)(しつ)(もん)しました。その(しつ)(もん)(しゃく)(そん)がお(こた)えになったのが、()(さつ)にとっての四つの()(ほん)(てき)(こころ)()()(あん)(らく)(ぎょう))というわけです。
その(だい)一は〈(しん)(あん)(らく)(ぎょう)〉といい、()(ぶん)()(しん)()のふるまいについての()(ほん)(てき)(こころ)()(ぎょう)(しょ))と、()(けん)(ひと)びととの(こう)(さい)において(ひつ)(よう)()(ほん)(てき)(こころ)()(しん)(ごん)(しょ))とからなります。
(だい)二は〈()(あん)(らく)(ぎょう)〉といい、ことば(づか)いや、()ってはならないことなどが(いまし)められます。
(だい)三は〈()(あん)(らく)(ぎょう)〉といい、(しっ)()や、へつらい、()(しゃ)への(あく)()をなくし、(つね)(やす)らかな(こころ)(ほう)()きなさいと(いまし)められます。
(だい)四は〈(せい)(がん)(あん)(らく)(ぎょう)〉といい、すべての(ひと)(ほとけ)(みち)へと(みちび)こうという(せい)(がん)をおこし、その(せい)(がん)(むか)ってまっしぐらに(ぎょう)じなさいと、おさとしくださるのです。

()(ちゅう)(みょう)(しゅ)(たと)

この(ほん)のお(せっ)(ぽう)のなかに、〈(ほっ)()(しち)()〉の(だい)六である〈()(ちゅう)(みょう)(しゅ)(たと)え〉があります。
その(たい)()は、
「ひじょうにつよいある(くに)(おう)が、(めい)(れい)(したが)わぬ(くに)(ぐに)をつぎつぎに討伐(とうばつ)しました。それらの(たたか)いにてがらをたてた(しょう)()には、(りょう)()や、()(はた)や、(おう)()(あし)につけている(そう)(しょく)(ひん)など、いろいろな(たから)ものをほうびとしてあたえましたが、(おう)(かみ)()()のなかに()いこめてある(ほう)(ぎょく)だけは、だれにもあたえませんでした。それがあまりにも(とうと)いものであるために、もしそれをあたえたならば、もらった(ひと)も、ほかの()(らい)たちも、ただびっくりし、(とう)(わく)するにきまっているからです。
わたしが、()()(きょう)をなかなか()かなかったのは、ちょうどこのような()(ゆう)によるものです。これまでさまざまな(おし)えをみなさんに()いてきました。それによって、(こころ)(あん)(てい)して(どう)(よう)しない(きょう)()や、(じん)(せい)()から(ちょう)(えつ)した(きょう)()や、すべての(ぼん)(のう)(のぞ)きつくした(きょう)()など、いろいろ()(ちょう)なものをほうびにあたえました。しかし、()()(きょう)(おし)えだけはなかなか()きませんでした。()いてみても、みなさんが(とう)(わく)するばかりだったからです。
ところが、この(おう)は、(さい)(しゅう)(てき)にすばらしい(たい)(こう)をたてたものがあると、()()のなかに()いこめたその(ほう)(ぎょく)()しげもなくあたえるのですが、わたしもその(おう)のとおりであって、すでにみなさんの(きょう)()がひじょうに(たか)まってきましたので、(さい)()のほうびとして、いまこそ(さい)(こう)(おし)えである()()(きょう)()いてあげるのです」

精神(こころ)はとらえにくいが(もっと)(たい)(せつ)

この(たと)えの(ひょう)(めん)だけを()みますと、「()()(きょう)(さい)(こう)()(じょう)(おし)えである」という(さん)(たん)と、「だから、めったなことでは()かなかったのだ」という()(ゆう)づけのことばとしか()けとれませんが、やはりこのなかには(じん)(せい)にたいする(きょう)(くん)がいろいろとふくまれているのです。
(だい)一に、ほかの(たから)ものは、(おう)()(あし)につけたものや、たんなる(しょ)(ゆう)(ぶつ)にすぎませんでしたが、その(ほう)(ぎょく)(みょう)(しゅ))だけは、(おう)の〈(あたま)にあるもの〉でした。(あたま)とは精神(こころ)宿(やど)るところであり、からだ(ぜん)(たい)()(はい)するところです。()(あし)などはふつうの(ひと)でも()(ゆう)使(つか)いこなせますが、精神(こころ)というものは、いちばん()(ちょう)なものでありながら、つかまえどころがないだけに、なかなかの(なん)(ぶつ)です。
しかし、この精神(こころ)というものをしっかりとらえ、調(ちょう)(ぎょ)し、(たか)めていかないかぎり、りっぱな(にん)(げん)とはいえないのです。(じん)(せい)()(こう)(もく)(てき)は、〈(あたま)にあるもの〉すなわち精神(こころ)をよりよくしていき、ついには(じん)(かく)(かん)(せい)すること((ほとけ)になること)にあるのだということを、この(たと)えからくみとらねばなりません。

(さい)(こう)(おく)()(さい)()

(だい)二に、()()(きょう)は、(にん)(げん)でいえばちょうど精神(こころ)にあたるようなもので、(さい)(こう)(おく)()であるために、それを()(かい)できるほどに(きょう)()がすすんでいない(ひと)にあたえようとすれば、かえって(こん)(らん)()(わく)(しょう)ずる……ということが、この(たと)えにのべられていますが、これは()(ぞく)のいろいろな(がく)(もん)()(じゅつ)(べん)(きょう)についても、おなじことがいえるのです。
(しょ)()(ひと)に、はじめから(さい)(こう)(おく)()(おし)えようとすれば、()いた(ひと)はなんのことやらわからず、とうていついていけないので、()(ちゅう)からやめてしまう(ひと)(ぞく)(しゅつ)するでしょう。ですから、(おし)える(がわ)にしてみれば、ごくごく(しょ)()のやさしいことからはいって、だんだんに(しゅう)(れん)()ませたのち、いちばん(さい)()(だん)(かい)で、ギリギリ(さい)(こう)(おく)()(おし)えなければなりません。そのことが、この(たと)えのなかに(あん)()されているのです。

()()(てき)(しゅ)(ぎょう)(じゅう)(よう)

これをひっくりかえして、(しゅ)(ぎょう)する(がわ)(こころ)()として()れば、〈()()(てき)(しゅ)(ぎょう)こそ、(さい)(こう)(おく)()にたっするために(ひつ)(よう)()くべからざるものである〉ということになります。(げん)(だい)(にん)(げん)、とくに(こう)(とう)(きょう)(いく)()けた(わか)(ひと)たちは、とかくこうした()()(てき)(しゅ)(ぎょう)をいやがり、いきなり(たか)いところへゆきたがります。そのため、(にん)(げん)としても、(しょく)(ぎょう)(じん)としても、(ちゅう)()(はん)()(そん)(ざい)となってしまうのです。()()(てき)(しゅ)(ぎょう)こそ、(たい)(せい)のための(ぜっ)(たい)(ひつ)(よう)(じょう)(けん)であることを、この(たと)えのなかから(まな)びとらなければならぬとおもいます。

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