法華経のあらましと要点

如来寿量品第十六

(しゃく)(もん)(はしら)である《(ほう)便(べん)(ぽん)(だい)()》においては、〈(しょ)(ほう)(じっ)(そう)〉ということを()かれました。その(けつ)(ろん)は〈(ほん)(まつ)()(きょう)(とう)〉すなわち〈()()える(げん)(しょう)は、(いっ)(てい)(ほう)(そく)によってさまざまな(へん)()()せるけれども、はじめ((ほん))からおわり((まつ))まですべて(ひと)しいのである〉ということでした。これはあくまでも(てつ)(がく)(てき)(しん)()であり、きわめて(れい)(げん)なものです。それだけに、たんにその(しん)()(さと)っただけでは、すぐさまそれが(にん)(げん)(すく)われや()きがいには(むす)びつかないのです。
それゆえ、お(しゃ)()さまは、その(しん)()(にん)(げん)(そく)して〈(にん)(げん)(ほん)(しつ)(ぶっ)(しょう)である〉という(ほう)(こう)へ、しだいしだいに()きすすめられました。はじめから(あき)らかにそれをお()きになっても、(いっ)(ぱん)(ひと)びとにはすぐのみこめるはずがないので、(たと)(ばなし)をなさったり、()()()(もの)(がたり)にことよせたりしながら、(あん)()(てき)にだんだんと(ひと)びとの(こころ)をその(ほう)(こう)()()せてこられたのです。

()(おん)(じつ)(じょう)(せん)(げん)

そして、ついにこの《(にょ)(らい)寿(じゅ)(りょう)(ほん)(だい)(じゅう)(ろく)》の(せっ)(ぽう)で、その(しん)(じつ)をハッキリとうち()けられるのです。すなわち、(ほとけ)寿(じゅ)(みょう)()(しょう)()(めつ)であり、その(ほとけ)()(おん)(じつ)(じょう)(ほん)(ぶつ)といい、(しゃく)(そん)こそその()(おん)(じつ)(じょう)(ほん)(ぶつ)であるとお()きになりました。そして、(にん)(げん)は((にん)(げん)()(がい)(ばん)(ぶつ)も)その()(おん)(ほん)(ぶつ)()かされている(ほとけ)(じっ)()であることを(あき)らかにされるのです。そこで、(れい)(げん)(てつ)(がく)(てき)(しょ)(ほう)(じっ)(そう)(さと)りに、(にん)(げん)(てき)(あたた)かい()(かよ)いはじめ、(ひと)びとは「()(ぶん)()(おん)(ほん)(ぶつ)()()にいだかれているのだ、()かされているのだ」という、しみじみとしたありがたい(おも)いにつつまれるようになるのです。そうなってこそ、ほんとうの(しあわ)せが()まれ、ほんとうの()きがいが(かん)じられてくるわけです。
いうならば、(しゃく)(もん)(てつ)(がく)(てき)(さと)りの(おし)えであり、(ほん)(もん)はそれに(せい)(しん)()()のエネルギーをあたえた、(しゅう)(きょう)(てき)(おし)えの(きょく)()なのであります。それゆえ、この(ほん)こそは《()()(きょう)》のみならず、(いっ)(さい)(きょう)(こん)(ぱく)であるといわれているわけであります。
この(ほん)には、そういう(しん)(じつ)()(ろん)(てき)にも()かれていますが、なんといっても、すべての(ひと)にわかりやすいようにというお(こころ)づかいから()かれた〈(ろう)()()()(たと)え〉が、この(ほん)(ちゅう)(しん)であるといっていいとおもいますから、その(たと)(ばなし)にもとづいて、この(ほん)(おし)えの(よう)(てん)(かんが)えていくことにしましょう。

(ろう)()()()(たと)

ある(ところ)にひとりの()()がいました。すぐれた()()をもち、(くすり)(しょ)(ほう)にも(じゅく)(れん)していて、どんな(びょう)()でも(なお)(めい)()でした。
その(ひと)にたくさんの()どもがありましたが、(ちち)()()(しょ)(よう)()(こく)()かけたるすに、あやまって(どく)になる(くすり)()んでしまいました。(ちち)(いえ)におればそんなことは()こらないのですが、るすのあいだはしたいほうだいの(せい)(かつ)をしているので、ついそんなことになったのです。
だんだん(どく)がまわってくると、()どもたちは()べたをころげまわって(くる)しみました。そこへ、さいわい(ちち)(かえ)ってきました。()どもたちは、あるものはあまり(どく)がまわっていず、あるものは(どく)のために(ほん)(しん)(うしな)っているものもありましたが、それでも(とお)くのほうに(ちち)姿(すがた)をみつけると、(いち)(よう)にたいへん(よろこ)びました。
みんな(ちち)(まえ)にひざまずいて、「おとうさん、よく(かえ)ってくださいました。わたくしどもはばかなことをしてしまったのです。まちがって、(どく)になる(くすり)()んでしまいました。どうか()(りょう)してください。(いのち)(たす)けてください」と(たの)みました。
(ちち)()どもたちが(くる)しんでいるのを()て、よく()(やく)(そう)の、しかも(いろ)(あじ)(かお)りのいいものを(えら)んで、()みやすく調(ちょう)(ごう)して、()どもたちにあたえました。「これはすばらしくよくきく(くすり)だ。さあ、すぐお()み。いまの(くる)しみが(なお)るばかりか、これから(さき)(びょう)()ひとつしなくなるよ」
()どもたちのなかで(ほん)(しん)(うしな)っていないものは、すぐそれを()みましたので、(どく)による(やまい)はすっかり(なお)ってしまいましたが、(どく)(ふか)くまわっている()どもたちは、さきほどは「(びょう)()(なお)してください」と(たの)んでおきながら、せっかくの(くすり)()もうともしないのです。なぜかといえば、(どく)のために(ほん)(しん)(うしな)っているので、その(くすり)(いろ)もわるく、へんな(にお)いがするように(かん)じられて、()()になれなかったのです。
それを()て、(ちち)()()(かんが)えました。「ああ、かわいそうに、(どく)のために(こころ)がすっかり顚倒(てんどう)しているのだ。しかたがない。こうなったからには()(じょう)手段(しゅだん)をとって、この()たちがかならず(くすり)()むようにしむけよう」
そこで、(ちち)は「みんなよく()きなさい。わたしはもう(とし)をとって、()()(ちか)づいている。それなのに、また(よう)があって()(こく)()かけなければならないのだ。それで、この(りょう)(やく)をここにおいておくから、かならず()むのだよ」といいのこし、(たび)()てゆきました。そして、(たび)(さき)から使(つか)いを()して、「お(ちち)(うえ)はおなくなりになりました」と()げさせました。
それを()いた()どもたちは、たいへんおどろき、(かな)しみました。「ああ、おとうさんがおられたらなあ……」という(こころ)(ぼそ)さが、(つう)(せつ)(かん)じられてきました。すると、そのショックで、ハッと(ほん)(しん)にたちかえることができました。
そこではじめて、(ちち)ののこしていった(くすり)(いろ)(かお)りもいいのに()がつき、さっそくそれを()みますと、たちまち(どく)による(やまい)はすっかり(なお)ってしまいました。
ところがどうでしょう。()どもたちが(なお)ってしまうと、()んだとばかりおもっていた(ちち)()(こく)から(かえ)ってきて、みんなの(まえ)(げん)()姿(すがた)をあらわしたのでありました。

すべての(ぼん)(のう)(こん)(ぽん)

(ちち)(めい)()(ほとけ)さまであり、()どもたちはわれわれ(ぼん)()です。(どく)になる(くすり)というのは()(よく)(ぼん)(のう)であり、(りょう)(やく)というのは(ほとけ)さまの(おし)えであります。
(ぼん)()はさまざまな(ぼん)(のう)をもっていますが、(ぼん)(のう)()こるいちばんの(こん)(ぽん)(げん)(いん)をさぐってみますと、〈()()えるもののみを(じつ)(ざい)とおもい、それにとらわれ、むさぼりの(こころ)()こす〉ところにあるのです。()(ぶん)のからだをはじめとして、()(まえ)にあるさまざまな(ぶっ)(しつ)や、(きん)(せん)や、まわりに()こるものごとを、(かっ)()として(じつ)(ざい)するものと()るために、それにとらわれ、(こころ)をふりまわされて(くる)しむのです。

(えん)()(かん)

そこでお(しゃ)()さまは、「この()のすべての(げん)(しょう)は、(いん)(えん)によって(しょう)じた()りのあらわれにすぎない。その(いん)(えん)がなくなれば(げん)(しょう)もなくなり、ちがった(いん)(えん)とが()(ごう)すれば、かならずそれにふさわしい(げん)(しょう)があらわれるのだ」という(しん)()(えん)()(かん))を(おし)えられました。その(しん)()にもとづいて〈(じゅう)()(いん)(ねん)〉・〈()(たい)〉・〈(はっ)(しょう)(どう)〉・〈(ろく)()()(みつ)〉など、いろいろな(おし)えを()かれました。そして、それらの(おし)えによって、おおくの(ひと)びとが(まよ)いをのぞき、(やす)らかな(しん)(きょう)にたっすることができました。

(ほとけ)さまは()(しょう)()(めつ)

しかし、お(しゃ)()さまのようなりっぱな()(どう)(しゃ)がいつも()(ぢか)におられて、たえずそのような(おし)えによって(ひと)びとを(みちび)いてくださるうちは()()ですが、そのような()(どう)(しゃ)がいなくなると、だんだんと(もと)(もく)()()にもどっていくのが、(ぼん)()(かな)しさです。()()えるものしか(しん)じられない(ぼん)()は、()(おん)(じつ)(じょう)(ほん)(ぶつ)である(ほとけ)さまはつねにそばにおられるのに、()()える(ほとけ)さま(お(しゃ)()さま)が(にゅう)(めつ)されてしまうと、つい(みち)をふみはずすようになるおそれがあります。
(しゃ)()さまはそれを(しん)(ぱい)され、そのために、〈(ほとけ)()(しょう)()(めつ)である〉ということをしっかり(おし)えこんでおこうとして、この(たと)えをお()きになったのです。たとえ()(どう)(しゃ)がいなくても、(しん)(じつ)(おし)えさえのこっておれば、それで(すく)われるからです。
()どもたち((しゅ)(じょう))が、(ちち)(ほとけ)さま)のるすに、あやまって(どく)になる(くすり)()んで(しち)(てん)(ばっ)(とう)したのは、りっぱな()(どう)(しゃ)がいなくなったために、したい(ほう)(だい)(せい)(かつ)をしはじめ、それで(くる)しみを(まね)いたというわけです。
そこへ、(ちち)(うえ)(りょ)(こう)から(かえ)ってこられました。(どく)()(よく)にふりまわされる(せい)(かつ))のために(ほん)(しん)(うしな)っていた()どもたちも、それを()てたいへん(よろこ)びました。なぜかといえば、どんなに(みち)をふみはずしていても、(にん)(げん)には、(ぶっ)(しょう)というものがちゃんとあるからです。

(しゅう)(きょう)(きゅう)(くつ)におもう(しん)()

(めい)()(ちち)すなわち(ほとけ)さまは、〈(まよ)いをのぞく(くすり)〉とか、〈ほんとうの()()()させる(くすり)〉とか、〈ひとのためにつくす(こころ)()こさせる(くすり)〉など、いろいろ()(ちょう)(くすり)調(ちょう)(ごう)し、それを(ぼん)()にものみやすいようにしてあたえられました。これが(ほう)便(べん)(おし)えです。
それを()んだ(しゅ)(じょう)はすぐ(すく)われたのですが、せっかくの(りょう)(やく)()もうともしない(しゅ)(じょう)もたくさんいるのです。なぜかといえば、ほんとうは(かお)りも(あじ)もよいその(くすり)が、(ほん)(しん)(うしな)っている(しゅ)(じょう)にとっては、へんな(にお)いのする、いやな(いろ)(くすり)()えるので、()()したがらないのです。ということはつまり、()(よく)(たの)しみにおぼれきっている(しゅ)(じょう)は、(ほとけ)さまの(おし)えがなんとなく(きゅう)(くつ)なように(かん)じられて、その(おし)えのなかにはいろうとしない……というわけです。

(れん)()渇仰(かつごう)(おも)

これは、まったくあさはかな(にん)(げん)のわがままなのです。そこで、(ほとけ)さまは(しゅ)(じょう)()()まさせるために()(じょう)(しゅ)(だん)をおとりになります。すなわち、()えないところへ、(いち)()()をおかくしになるのです。
(れき)()(てき)にいえば、お(しゃ)()さまが(にゅう)(めつ)されることです。そうすると、(ひと)びとは、にわかに(こころ)(ぼそ)くなり、(うしな)った(だい)()(どう)(しゃ)()(した)(かん)(じょう)(もう)(れつ)()こってきます。のどの(かわ)いた(ひと)(みず)(もと)めるような(せつ)(じつ)さで、(ほとけ)(もと)める(こころ)()いてくるのです。この(おも)いを、(きょう)(てん)()のなかでは〈恋慕(れんぼ)〉・〈渇仰(かつごう)〉といってあります。
そういう(つう)(せつ)(おも)いが(しょう)ずれば、(にん)(げん)はかならず(ほん)(しん)にたちかえります。()()めるのです。これはなんとかしなければならない──とおもって、のこされた(おし)え((りょう)(やく))にとびついていくのです。
この〈(れん)()渇仰(かつごう)〉の(あい)()は、かならずしも現実(げんじつ)(ほとけ)さまにはかぎりません。これを(ちゅう)(しょう)(てき)(かんが)えれば、つぎのようになります。いままでは(かみ)とか(ほとけ)とかにまったく()(かん)(しん)で、ただ()()(せい)(かつ)()(ちゅう)になっていた(ひと)が、ある()()(ちょく)(めん)して、なにかにすがりつきたい()(もち)になったとき、もしくは(ぶっ)(しつ)(せい)(かつ)(まん)(ぞく)しきってしかもなんとなく(むな)しいものをおぼえ、なにか(こころ)(まん)(ぞく)をあたえてくれるものはないかとおもうとき、その〈すがりつきたい〉〈(こころ)(まん)(ぞく)をあたえて()しい〉とおもう(あい)()が、たとえ()(ぶん)では()(しき)しなくても、じつは(かみ)(ほとけ)なのです。
このように、(れき)()(てき)(そん)(ざい)であった(ほとけ)さまでもよし、(ちゅう)(しょう)(てき)(そん)(ざい)である(ほとけ)さまでもよし、とにかくほんとうに()(ぶん)(すく)ってくれるものを、のどが(かわ)いた(ひと)(みず)(もと)めるように(もと)め、()いあこがれる(おも)いがあってこそ、その(ひと)(こころ)(きよ)められ、(すく)われるのです。(しゅう)(きょう)が、(てつ)(がく)(どう)(とく)(おし)えとちがうところは、その(いっ)(てん)にあるのです。りっぱな(てつ)(がく)(どう)(とく)(おし)えは、(あたま)(ひょう)(めん)(こころ))で「なるほどそうか」と()(かい)するものです。すべての(ひと)が、それを()(かい)し、そのとおり(じっ)(せん)できれば、(もん)(だい)はありません。ところが、じっさいはなかなかそうはゆきません。〈(ひょう)(めん)(こころ)〉ではわかっていても、(にん)(げん)には〈かくれた(こころ)〉という()(まつ)のわるいものがあって、それがしらずしらずのうちに(にん)(げん)(まよ)わせ、よくない(こう)(どう)をさせるのです。ですから、この〈かくれた(こころ)〉までも(きよ)めなければ、(にん)(げん)(すく)われないのですが、それをしてくれるのが(しゅう)(きょう)であり、(しん)(こう)なのであります。
このことが、この(ほん)(よう)(てん)のひとつであります。

めざめれば(ほとけ)さまが()える

この()どもたちも、(ちち)にたいする(れん)()(かつ)(ごう)(ねん)()こしたからこそ、()がさめたのです。ところが、()をさまして(ほん)(しん)にたちかえると、たちまち(ちち)(かえ)ってきました。ということはつまり、(しゅ)(じょう)がハッと()がつけば、いつでも(ほとけ)さまはそこにいらっしゃるのだ……という()()です。
(ほとけ)さまは()(しょう)()(めつ)であり、(いっ)(しゅん)たりともわれわれのそばから(はな)れられることはないのです。いや、〈そば〉ということばもほんとうは(せい)(かく)ではなくて、(ほとけ)さまはつねにわれわれの(うち)にも(そと)にも()()ちておられるのです。われわれは(ほとけ)さまと(いっ)(たい)なのです。
ですから、そういう()()(ほとけ)さまが姿(すがた)()されるというのは、われわれがそれを(わす)れ、()(うしな)ってしまうことにすぎないのです。(にん)(げん)は、()(かん)でもって(じっ)(さい)(かん)じられないものにたいして、いつもはあまり(かん)(しん)がありません。また、()(かん)(かん)じられるものですら、たとえば、(くう)()でも、(たい)(よう)でも、(みず)でも、ふだんはほとんどその(そん)(ざい)(わす)れています。しかし、なにかことがあれば、とくにそれが(けつ)(ぼう)してくると、そのありがたさをおもいだします。
(ほとけ)さまにたいしても、われわれはおなじような(あやま)りをおかしているのです。(ほとけ)さまの(ほん)(たい)は、この()のありとあらゆるものを()かしておられる()(おん)(じつ)(じょう)(ほん)(ぶつ)です。ですから、その(ほん)(ぶつ)のみ(こころ)のとおりに()きておれば、(こころ)()(ゆう)()(ざい)であり、いつもしあわせにしておられるのに、ついそれを(わす)れてしまうために、わがままな(おこ)ないをして、そのためにみずから(くる)しみを(まね)いているわけです。

()かされている()(かく)

もしわれわれが、いつも「()(ぶん)()(おん)(じつ)(じょう)(ほん)(ぶつ)()かされているのだ」という()(かく)(ふか)くもち、「()(おん)(じつ)(じょう)(ほん)(ぶつ)()かされているかぎりは、そのみ(こころ)のとおりに()きることが(ただ)しい()きかただ」という(めい)(かい)(しん)(じつ)(さと)り、(ほん)(ぶつ)のみ(こころ)にもとづいて()かれたお(しゃ)()さまの(おし)えにしたがって()きてゆきさえすれば、つねに(だい)()(しん)をもった(せい)(かつ)ができ、(じん)(せい)()などはあってもなきにひとしくなってしまうのです。
それが、ほんとうの(にん)(げん)らしい()きかたであり、この(ほん)は、(さい)(だい)(よう)(てん)としてこのことを(おし)えられているのです。

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