法華経のあらましと要点

法師功徳品第十九

(ろっ)(こん)(しょう)(じょう)()(どく)

まえの《(ずい)()()(どく)(ほん)(だい)(じゅう)(はち)》の(さい)()のほうにもすこしありましたが、この(ほん)には、()(しゅ)(ほっ)()(じゅ)()(どく)(じゅ)()(せつ)(しょ)(しゃ)の五つの(ぎょう))を(せっ)(きょく)(てき)(おこ)なう(ひと)が、()(みみ)(はな)(した)()(こころ)(ろっ)(こん))に()ける()(どく)について、くわしく()かれています。ひじょうに(しょう)(ちょう)(てき)(ひょう)(げん)がしてありますので、(げん)(だい)(ひと)にとってはたいへん()()()なような(かん)じを()けるでしょうが、われわれは、その(おく)にある(しん)(じつ)を、よくつかみとらなければならないとおもいます。

()(さつ)()()()

(しゃ)()さまは(ろっ)(こん)(しょう)(じょう)()(どく)(さい)(しょ)に、(まなこ)()(どく)について()かれますが、その()のなかに〈()(しょ)()(こころ)(もっ)て ()()()(きょう)()かん〉という(いっ)(せつ)があります。
これはむかしから〈()(さつ)()()()〉として(とうと)ばれてきたものです。つまり、「なにものをも(おそ)れず、はばかることなく、(しん)ずるところを()く、どうどうたる(しん)(きょう)(たい)()」のことです。これは、(ほとけ)さまの()(しょ)()(こころ)(ほとけ)()()())に(たい)(おう)するものですが、(まっ)()にこの()()(きょう)()(ひろ)めようとする()(さつ)にとって、もっとも(たい)(せつ)(こころ)()であるといえましょう。
まず(だい)一は〈(そう)()()(もう)〉といい、()(ぶん)()いたすべての(おし)えをしっかりと()(おく)して(わす)れることがなければ、だれにたいして(ほう)()いても、(おそ)れはばかるところがないということです。
(だい)二は〈(じん)()(ほう)(やく)〉といい、(しゅ)(じょう)のひとりひとりの()(こん)と、(こころ)のもちかたのちがいによって、それぞれに(てき)(おう)した(ほう)(くすり)(しょ)(ほう)できれば、なんの(しん)(ぱい)もなく(ほう)()くことができるということです。
(だい)三は〈(ぜん)(のう)(もん)(どう)〉といい、どんな(しつ)(もん)(はん)(ばく)にたいしても、(しん)()(したが)って、はっきり(すじ)(みち)()て、だれにも(なっ)(とく)できるように(こた)えてあげられれば、(なん)(おそ)れもなく(ほう)()くことができるということです。
(だい)四は〈(のう)(だん)(もつ)()〉といい、(いっ)(さい)(しゅ)(じょう)をことごとく(すく)おうという(ほとけ)さまの(だい)()()(つう)ずるような(きょう)()()って、()(みょう)()(もん)にたいしても「(ほとけ)さまのご(しん)()はこうなのだ」といい()ってあげられれば、どんな(ひと)にたいしても、(おそ)れはばかることがなく(ほう)()けるというのです。
こう()てきますと、(ひと)(ほう)()くということは、まことに(よう)()ならぬことであると、おじけづいてしまう(ひと)があるかもしれません。しかし、おじけてしまってはいけません。ここにのべたのは、あくまでも(せっ)(ぽう)(しゃ)()(そう)(ぞう)であって、ここまでたっしたら、もはや(だい)()(さつ)です。その(だい)()(さつ)にしても、はじめから(だい)()(さつ)だったわけではありません。(なが)(とし)(つき)()(だん)()(りょく)をつづけ、たくさんの()(こう)(さく)()()てこの(きょう)()にたっしたのです。
ですから、われわれ()(さつ)(ぎょう)(しゅ)しているものは、この四つの()(そう)(ぞう)をいつも(むね)におき、この四()(じょう)(こころ)のいましめとして、(ほう)()けばいいのです。もし、むずかしい(もん)(だい)につきあたったり、もてあますような(しつ)(もん)()けた()(あい)は、(そっ)(ちょく)に「これはわたしの(ちから)(あま)(もん)(だい)ですから、よく調(しら)べ、またはしかるべき(ひと)(おし)えを()けて、()(じつ)それをお()()ぎしましょう」と(こた)えるべきであって、その()をいいかげんにごまかすようなことをしてはなりません。
そして、そういう(こた)えかたは、けっして(せっ)(ぽう)(しゃ)のねうちを(ひく)くするものではなく、かえって()(ひと)(しん)(らい)(せい)(たか)める(けっ)()となるものです。

()(ほう)(ぶっ)(ぽう)(いっ)()

この(ほん)のなかに、()のがしてはならぬことばがあります。それは〈()(ぞっ)(けん)(きょう)(しょ)()()()(ごん)()(しょう)(ごう)(とう)()かんも、(みな)(しょう)(ぼう)(じゅん)ぜん〉という(いっ)()です。(げん)(だい)()(やく)せば、「もしその(ひと)が、(にち)(じょう)(せい)(かつ)についての(おし)えや、()(おさ)めるための(げん)(ろん)や、(さん)(ぎょう)についての()(どう)(おこ)なっても、それはおのずから(しょう)(ぼう)(がっ)()するものでありましょう」ということです。
(しょう)(ぼう)というものは、けっしてたんに(せい)(しん)(てき)な、()(じん)(てき)なものではなく、かならず(しゃ)(かい)へのひろがりをもつものです。そして()(ほう)(ただ)しく()かすものです。そうでなければ、(きゅう)(きょく)において(じん)(るい)(ぜん)(たい)(すく)うことはできないのです。このことは、よくよく(むね)(きざ)んでおきたいものであります。

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