法華経のあらましと要点
法師功徳品第十九
六根清浄の功徳
まえの《随喜功徳品第十八》の最後のほうにもすこしありましたが、この品には、五種法師(受持・読・誦・解説・書写の五つの行)を積極的に行なう人が、目や耳や鼻や舌や身や意(六根)に受ける功徳について、くわしく説かれています。ひじょうに象徴的な表現がしてありますので、現代の人にとってはたいへん不思議なような感じを受けるでしょうが、われわれは、その奥にある真実を、よくつかみとらなければならないとおもいます。
菩薩の四無畏
お釈迦さまは六根清浄の功徳の最初に、眼の功徳について説かれますが、その偈のなかに〈無所畏の心を以て 是の法華経を説かん〉という一節があります。
これはむかしから〈菩薩の四無畏〉として尊ばれてきたものです。つまり、「なにものをも畏れず、はばかることなく、信ずるところを説く、どうどうたる心境や態度」のことです。これは、仏さまの無所畏の心(仏の四無畏)に対応するものですが、末世にこの法華経を説き弘めようとする菩薩にとって、もっとも大切な心得であるといえましょう。
まず第一は〈総持不忘〉といい、自分が聞いたすべての教えをしっかりと記憶して忘れることがなければ、だれにたいして法を説いても、畏れはばかるところがないということです。
第二は〈尽知法薬〉といい、衆生のひとりひとりの機根と、心のもちかたのちがいによって、それぞれに適応した法の薬を処方できれば、なんの心配もなく法を説くことができるということです。
第三は〈善能問答〉といい、どんな質問や反駁にたいしても、真理に従って、はっきり筋道を立て、だれにも納得できるように答えてあげられれば、何の畏れもなく法を説くことができるということです。
第四は〈能断物疑〉といい、一切衆生をことごとく救おうという仏さまの大慈悲に通ずるような境地に立って、微妙な疑問にたいしても「仏さまのご真意はこうなのだ」といい切ってあげられれば、どんな人にたいしても、畏れはばかることがなく法を説けるというのです。
こう見てきますと、人に法を説くということは、まことに容易ならぬことであると、おじけづいてしまう人があるかもしれません。しかし、おじけてしまってはいけません。ここにのべたのは、あくまでも説法者の理想像であって、ここまでたっしたら、もはや大菩薩です。その大菩薩にしても、はじめから大菩薩だったわけではありません。長い年月、不断の努力をつづけ、たくさんの試行錯誤を経てこの境地にたっしたのです。
ですから、われわれ菩薩行を修しているものは、この四つの理想像をいつも胸におき、この四箇条を心のいましめとして、法を説けばいいのです。もし、むずかしい問題につきあたったり、もてあますような質問を受けた場合は、率直に「これはわたしの力に余る問題ですから、よく調べ、またはしかるべき人に教えを受けて、後日それをお取り次ぎしましょう」と答えるべきであって、その場をいいかげんにごまかすようなことをしてはなりません。
そして、そういう答えかたは、けっして説法者のねうちを低くするものではなく、かえって聞く人の信頼性を高める結果となるものです。
世法も仏法に一致
この品のなかに、見のがしてはならぬことばがあります。それは〈若し俗間の経書・治世の語言・資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん〉という一句です。現代語に訳せば、「もしその人が、日常生活についての教えや、世を治めるための言論や、産業についての指導を行なっても、それはおのずから正法に合致するものでありましょう」ということです。
正法というものは、けっしてたんに精神的な、個人的なものではなく、かならず社会へのひろがりをもつものです。そして世法を正しく生かすものです。そうでなければ、究極において人類全体を救うことはできないのです。このことは、よくよく胸に刻んでおきたいものであります。
法華経のあらましと要点
無量義経
- 無量義経とは
- 徳行品第一
- 説法品第二
- 十功徳品第三
妙法蓮華経
- 序品第一
- 方便品第二
- 譬諭品第三
- 信解品第四
- 薬草諭品第五
- 授記品第六
- 化城諭品第七
- 五百弟子受記品第八
- 授学無学人記品第九
- 法師品第十
- 見宝塔品第十一
- 提婆達多品第十二
- 勧持品第十三
- 安楽行品第十四
- 従地涌出品第十五
- 如来寿量品第十六
- 分別功徳品第十七
- 随喜功徳品第十八
- 法師功徳品第十九
- 常不軽菩薩品第二十
- 如来神力品第二十一
- 嘱累品第二十二
- 薬王菩薩本事品第二十三
- 妙音菩薩品第二十四
- 観世音菩薩普門品第二十五
- 陀羅尼品第二十六
- 妙荘厳王本事品第二十七
- 普賢菩薩勧発品第二十八
仏説観普賢菩薩行法経
- 仏説観普賢菩薩行法経