法華経のあらましと要点
仏説観普賢菩薩行法経
このお経は、《妙法蓮華経》の最後の《普賢菩薩勧発品第二十八》のあとを受けて、さらに普賢菩薩を主役として説かれたもので、徹底した懺悔の法をお説きになっているために、一名《懺悔経》と呼ばれています。
普賢菩薩を観ずる
題名の〈普賢菩薩を観ずる行法〉というのは、普賢菩薩の〈行〉の徳をしっかりとみつめることによって、その精神に自分の心が一致するようになり、心が仏道に定まり、ついに普賢菩薩とおなじような〈行〉ができるようになる、そのような修行の方法……という意味です。
この品には〈普賢菩薩の身を見る〉ということがくりかえしくりかえし説かれていますが、それはつまり、自分の心が普賢菩薩の精神にピタリと一致するということにほかなりません。まだそのような境地にたっしていないならば、修行のいたらなさを反省・懺悔する必要があるというのです。
また、〈普賢菩薩の身を見る〉ことができても、それで満足せず、こんどは〈仏身を見る〉ように努力しなければならぬことが説かれています。仏さまのみ心と一致することができてこそ、修行の完成があるからです。
懺悔の極致は実相をおもうこと
それゆえに、〈懺悔の極致は諸法実相を思うことである〉と説かれています。諸法実相というのは第一義空ということです。六情根を懺悔したうえで、このことを一心に思惟し、徹底することができれば、すなわち仏さまのみ心と一致することができたわけで、もろもろの罪はあたかも霜露のごとく、その大智慧の光によって消滅すると説かれているのです。
在家信者の懺悔の実践
最後に仏さまは在家のもの、特に心ある人びとに、現実的な懺悔の実践を教えてくださいました。
一、三宝を敬い、出家僧などの信仰修行の邪魔をせず、六念の法(仏・法・僧・戒・施・天)を修し、大乗の教えを保つひとをたいせつにし、いつも〈第一義空(諸法実相)〉ということに、心をとどめていなさい。
二、父母に孝養をつくし、先生や、目上のひとを尊敬しなさい。
三、正法にもとづいて国を治め、まちがった考えによって、人民を邪道へ曲らせないようにしなさい(政治家として調和のとれた正しい政治を行なうこと。あるいは、組織などのリーダーとして正しく人びとを導くこと)。
四、月の六度の精進日には、自分の治めている土地(影響力の及ぶ処)に布告をだし、支配力(影響力)の及ぶかぎりの処で、あらゆるものの生命を尊重するように呼びかけなさい。
五、因果の道理を深く信じ、仏に至る菩薩道を信じ、久遠本仏はつねに自分とともにいてくださり、決して滅しられることのないことを知りなさい。
仏教の総まとめ
以上の五つの懺悔の実践は、民主主義の現代においては、われわれ一人ひとりが実践するべき大切な項目であります。特に五つ目の、〈但当に深く因果を信じ、一実の道を信じ、仏は滅したまわずと知るべし〉とのおことば、これこそ、仏教全体を総まとめした、じつに尊いご指導といわなければなりません。
〈因果〉とは原因・結果の法則であり、〈因縁の法門〉とも〈縁起の法〉ともいい、仏教の骨格をなす教えです。
〈一実の道〉とは、だだひとつの真実の道、仏になる道、菩薩道のことです。したがって仏の教えにはさまざまなちがいがあるようでも、すべてが、あらゆる衆生を〈仏の境地にみちびく〉というただ一つの真実につらぬかれているということです。これが〈一実の道〉です。
〈仏は滅したまわずと知る〉とは、いうまでもなく、久遠実成の本仏は不生不滅であり、われわれはその久遠本仏に生かされているのだという真実を知ることです。
この三つの信が心のなかに確立すれば、いかなる人もほんとうに自由自在の心境にたっすることができます。それこそが、ほんとうの救いなのであります。まことにこれは、法華三部経の掉尾を飾るにふさわしい大金言なのであります。
法華経のあらましと要点
無量義経
- 無量義経とは
- 徳行品第一
- 説法品第二
- 十功徳品第三
妙法蓮華経
- 序品第一
- 方便品第二
- 譬諭品第三
- 信解品第四
- 薬草諭品第五
- 授記品第六
- 化城諭品第七
- 五百弟子受記品第八
- 授学無学人記品第九
- 法師品第十
- 見宝塔品第十一
- 提婆達多品第十二
- 勧持品第十三
- 安楽行品第十四
- 従地涌出品第十五
- 如来寿量品第十六
- 分別功徳品第十七
- 随喜功徳品第十八
- 法師功徳品第十九
- 常不軽菩薩品第二十
- 如来神力品第二十一
- 嘱累品第二十二
- 薬王菩薩本事品第二十三
- 妙音菩薩品第二十四
- 観世音菩薩普門品第二十五
- 陀羅尼品第二十六
- 妙荘厳王本事品第二十七
- 普賢菩薩勧発品第二十八
仏説観普賢菩薩行法経
- 仏説観普賢菩薩行法経