法華経のあらましと要点

譬諭品第三

()()(きょう)》も、この(ほん)からたいへんやさしくなります。お(しゃ)()さまがこれまでの()(ろん)(てき)な、(てつ)(がく)(てき)()きかたをここで(いっ)(ぺん)され、(たと)えなどをさかんにもちいられて、(いっ)(ぱん)(たい)(しゅう)にもわかりやすい(せっ)(ぽう)へと(てん)(かん)されるからです。

(じゅ)()

さて、《(ほう)便(べん)(ぽん)(だい)()》のご(せっ)(ぽう)をうかがった(しゃ)()(ほつ)は、(よろこ)びを(まん)(めん)にあらわしながら、()ちあがり、「(ほとけ)さま、よくわかりました。ありがとうございます。こんなにうれしいことはございません」とお(れい)をもうしあげました。
なぜ(しゃ)()(ほつ)がそのように(かん)(げき)したかといいますと、いうまでもなく、()(ぶん)(ほとけ)になれることがハッキリわかったからです。いままでは、()(ぶん)はどこまでいっても(しょう)(もん)だとおもいこんでいました。()(さつ)より(いち)(だん)(おと)った(しゅ)(ぎょう)(しゃ)だと、(りょう)(しゃ)のあいだにハッキリ(いっ)(せん)()いていました。ましてや(ほとけ)さまとなると、もはや()(ぶん)とはまったくかけはなれた(そん)(ざい)のようにおもいこみ、(ほとけ)になろうなどということは、(だい)それたことだとして、(かんが)えたことさえなかったのです。
ところが、《(ほう)便(べん)(ぽん)》のご(せっ)(ぽう)で、〈()(じょう)あることなく(ただ)(ぶつ)(じょう)のみなり((ぶつ)(どう)に二つも三つもあるものではない。ただひとつ、(ほとけ)になる(みち)だけである)〉とお()きになり、〈(もろもろ)()(さつ)(きょう)()して (しょう)(もん)()()なし(わたしの()()はすべて()(さつ)であって、(しょう)(もん)()()というものはない)〉とおおせられ、(さい)()に〈(こころ)(だい)(かん)()(しょう)じて (みずか)(まさ)()(ぶつ)すべしと()れ〉とお(むす)びになりました。それをうかがって、()(ぶん)はいわば(しょう)(もん)という(こう)(こう)(せい)だとおもっていたのが、その(がっ)(こう)()(さつ)(だい)(がく)()()だったことがわかったのです。つまり、まだ(こう)(こう)(せい)だとばかりおもいこんでいたのに、じつは(だい)(がく)(せい)だったことがわかったのです。しかも、()(さつ)(だい)(がく)(ほとけ)になる(だい)(がく)だから、そこで(しゅ)(ぎょう)()みさえすればかならず(ほとけ)になれることが(こころ)(そこ)にハッキリとつかめたのです。ですから(だい)(かん)()せざるをえないのです。
そこで(しゃ)()(ほつ)は、(ほとけ)さまにお(れい)をもうしあげるとともに、いままでの()(ぶん)のいたらなさを、(そっ)(ちょく)(さん)()しました。すると(ほとけ)さまは、(しゃ)()(ほつ)(さと)りが(しん)(じつ)であることをおみとめになって、「そなたはかならず(ほとけ)(きょう)()にたっすることができる」という()(べつ)をあたえられます。これが、いわゆる(しょう)(もん)()()(さい)(しょ)(じゅ)()です。このあとで、(こう)(てい)たちがつぎつぎに(じゅ)()され、ついにはすべての()()(じゅ)()されます。ですから、〈()()(きょう)(じゅ)()(きょう)である〉という()かたをすることができるのです。すなわち、〈すべての(にん)(げん)(ほとけ)になることができる〉という()(しょう)をあたえられるお(きょう)だというわけです。これが()()(きょう)(いち)(だい)(とく)(しょく)なのであります。
さて、お(れい)(さん)()をもうしあげた(しゃ)()(ほつ)が、「わたくしはかならず(ほとけ)(さと)りを(じょう)(じゅ)し、()(じょう)(おし)えを()いて、おおくの(ひと)びとを(きょう)()いたしましょう」とお(ちか)いし、「こうしてわたくしは()をひらくことができましたが、ほかのおおくの(ひと)たちは、あまりにも(ほとけ)さまの(おし)えが(しん)(えん)なために、(とう)(わく)をおぼえております。どうぞ、その(ひと)たちにもこの(きょう)()をわからせてあげてくださいませ」とお(ねが)いいたします。
すると()(そん)は、つぎのような(たと)(ばなし)(かた)りはじめられるのです。いわゆる〈(さん)(しゃ)()(たく)(たと)え〉です。

(さん)(しゃ)()(たく)(たと)

「ある(くに)のある(まち)に、(おお)きな(ちょう)(じゃ)がありました。その(いえ)やしきは(こう)(だい)なものでしたけれども、(もん)はごく(せま)いのがひとつしかありませんでした。しかも、(いえ)はたいへん()れはてていました。
その(いえ)がとつぜん()()になりました。()はみるみる()えひろがりました。(いえ)のなかには(ちょう)(じゃ)()どもたちがおおぜいいるのです。(そと)にいた(ちょう)(じゃ)がおどろいてひきかえしてきてみると、()どもたちは()(ちゅう)(あそ)びたわむれているではありませんか。
()()かれそうになっているのに、いっこうに()づかず、したがって、()げだそうという()()こさない(よう)()なのです。(ちょう)(じゃ)はそれを()て、(いっ)(しゅん)(かんが)えました。──()(ぶん)には(だい)(りき)があるから、なにか(はこ)のようなものにみんなを()せて、(いっ)()(そと)()()して(すく)おうか──。しかし、すぐ(かんが)えなおしました。──()てよ、それでは、こぼれ()ちたものは()()んでしまう。やはり、()のおそろしいことを()らせて、()(ぶん)から(そと)()るようにしむけるのが(だい)一だ──。
そこで(ちょう)(じゃ)は、(おお)(ごえ)で『このままでは()()んでしまうぞ。(はや)(そと)()なさい』と(おし)えてあげましたが、()どもたちは(ちょう)(じゃ)(かお)をチラリチラリと()るだけで、(もん)(だい)にしません。そのとき(ちょう)(じゃ)は、ふと、()どもたちがいつも(くるま)()しがっていたのをおもいだしましたので、『おまえたちの()きな、(ひつじ)のひく(くるま)や、鹿(しか)のひく(くるま)や、(うし)のひく(くるま)(もん)(そと)にあるぞ。()しいのをあげるから、(はや)くいってとりなさい』と(さけ)びました。
()どもたちは、そのことばを()くと(しょう)()にかえって、それいけとばかり、われ(さき)(はし)りだし、()えさかる(いえ)から()ることができました。(ちち)(ちょう)(じゃ)は、みんなが()()なく(だっ)(しゅつ)したのを()て、やっと(あん)(しん)しました。()どもたちは(ちち)のすがたを()ると、(くち)(ぐち)(やく)(そく)(くるま)をせがみます。すると(ちち)(ちょう)(じゃ)は、()どもたちが()しがっていた(くるま)ではなく、(おお)きな(しろ)(うし)()く、しかもおおくの(たから)ものに(かざ)られたすばらしい(くるま)を、みんなに()()()()あたえたのでありました」
この(たと)(ばなし)にこめられた()()は、すでにおわかりのこととおもいますが、(ねん)のためかんたんに(せつ)(めい)すれば、(ちち)(ちょう)(じゃ)はいうまでもなく(ほとけ)さまです。()どもたちはわれわれ(ぼん)()()れはてた(いえ)というのは(げん)(じつ)(にん)(げん)(しゃ)(かい)()()はわれわれの(ぼん)(のう)をさしています。(じん)(せい)()(ぼん)(のう)(げん)(いん)です。(ぶっ)(しつ)(にく)(たい)などにすっかりとらわれて、精神(こころ)()(ゆう)()(ざい)(うしな)っているから(くる)しいのです。しかも、おろかな(しゅ)(じょう)は、()(ぶん)精神(こころ)()(ゆう)()(ざい)さがないことにさえ()がつきません。そのため、(ぼん)(のう)()()かれようとしていることがわからず、ただ()()(せい)(かつ)(こころ)をうばわれているのです。
そうした(にん)(げん)()(こう)(すく)うために、お(しゃ)()さまはいろいろな(おし)えをお()きになりました。(にん)(げん)にはいろいろな(かた)があって、(すく)いの(みち)をたどるにも、いい(おし)えを(いっ)(しん)()いて(まよ)いを()ろうとつとめる(しょう)(もん)(がた)(ひと)もあり、()(ぶん)ひとりで(めい)(そう)()(さく)して(みち)をきりひらこうとする(えん)(がく)(がた)(ひと)もあり、また、()(じょう)(さと)りを(もと)めると(どう)()(たい)(しゅう)(きゅう)(さい)(うん)(どう)(てい)(しん)しようとする()(さつ)(がた)(ひと)もあります。(ひと)びとは、お(しゃ)()さまの(おし)えのなかに()(ぶん)(けい)(こう)にピッタリしたものがあれば、しらずしらずのうちにその(おし)えにひきこまれてゆきます。それぞれ()どもが、()しい(くるま)をもらおうとして、ひとりでに(もん)(そと)(はし)()たというのは、こういう()()です。

(ほとけ)(おし)えはただ一つ

ですから、(ほとけ)さまの(おし)えは(さい)(しゅう)(てき)にはただひとつ〈(ほとけ)になる(みち)〉しかないのですけれども、その()()(だん)(かい)として、さまざまな〈(ほう)便(べん)(おし)え〉をお()きになるわけです。(ひと)びとは、それぞれの(おし)えにしたがってけんめいに(じん)(かく)(こう)(じょう)()(りょく)をするのですが、その(しゅ)(ぎょう)がだんだん(たか)まってきますと、それぞれの(みち)がずっとむこうではひとつになっているのを(はっ)(けん)するのです。それがすなわち〈(ほとけ)になる(みち)〉にほかなりません。そこで、いままで()(ぶん)(あゆ)んできた(みち)()(りゅう)(さん)(りゅう)(みち)だとばかりおもいこんでいたのが、じつはすべて(さい)(こう)(しん)(じつ)(みち)にそのままつづいていることがわかり、(おお)きな(あん)(しん)と、()(ぼう)と、(かん)()をおぼえるのです。(よう)(しゃ)鹿(ろく)(しゃ)()(しゃ)をもらえるとばかりおもっていた()どもたちが、(だい)(びゃく)()(しゃ)という(さい)(こう)(くるま)(ほとけ)になる(みち))を、みんなひとしくあたえられて(きょう)()したというのは、このことをいってあるわけです。
この(たと)(ばなし)を、いわゆる(がん)(こう)()(はい)(てっ)するような()みかたをしていくと、()(じょう)にのべた(しゅ)()のほかにも、いろいろたいせつな(おし)えが(あん)()されていることがわかります。

()(りき)()(りき)

まず、(ちょう)(じゃ)がいったんは「(だい)(りき)をもってみんなを(はこ)のようなものに()せて(そと)()しだして(すく)おうか」とおもったのに、(かんが)えなおして、()どもたちが()(ぶん)から(そと)()るようにしむけた……ということです。
これは〈()(りき)(すく)い〉と〈()(りき)(すく)い〉とどうちがうかを(あん)()してあるのです。なんにもいわず、(しゅ)(じょう)()(がい)(そと)()しだしてあげるのは、()(りき)(すく)いです。しかし、(しゅ)(じょう)(もく)(ぜん)(たの)しみや(よろこ)びにうつつをぬかしているのですから、その(すく)いの(はこ)からこぼれ()ちることもおこります。(きゅう)(くつ)(はこ)などに()っているよりは、()れてはいてもひろびろとした(いえ)(なか)(あそ)ぶほうがおもしろいからです。(ほん)(にん)(さと)らなければ、そうなりやすいのです。また、いったんは()(いえ)から()されても、なかのおもしろさにひかされて、またもどっていくこともおおいにありえます。
そこで、なんとかして()(ぶん)(ちから)(すく)われるように、(ほとけ)さまはみちびかれるのです。どんな(だん)(かい)(すく)いを(もと)めて(はし)()るのでもいい、(よう)(しゃ)(ねが)ってもいいし、鹿(ろく)(しゃ)(もと)めてもいいし、()(しゃ)()しがってもいい、とにかく〈()(ぶん)()()(もん)(そと)()る〉ことにねうちがあるのです。()(ぶん)()()()たのなら、よほどのことがなければあともどりはしません。(しん)(こう)は、そうでなければならないのです。ただ(かみ)(ほとけ)に「(すく)ってください」と(たの)むばかりで、()(ぶん)(こころ)()くしようとか、()(ぶん)(おこ)ないを(ただ)そうとかしないならば、ほんとうの(すく)いにたっするはずはないのです。()(ぶん)()()で、()(ぶん)(しゅ)(ぎょう)によって()()(じん)(かく)(かん)(せい)してこそ、ほんとうの(すく)いが(じつ)(げん)するのです。
しかし、そういった(しゅ)(ぎょう)(さい)(しゅう)(てき)にゆきつくところはどこかといいますと、(ちい)さな〈()〉を()てて(てん)()(しん)()(ずい)(じゅん)し、(ほとけ)(だい)()()(しん)のなかへ()()(きょう)()にほかなりません。ですから、この〈()(りき)〉というのは、けっして「おれが、おれが」というような〈()〉の(ちから)ではないのだということを()らなければならないのです。
つまり、()(りき)(しん)(こう)とは、()(ぶん)()()()(りょく)によって(ほとけ)()()していくことをいうのです。()(りき)(そく)()(りき)であり、()(りき)(そく)()(りき)であります。そして、それでなければ(しん)(すく)いにはたっすることはできないのです。そのことが、ここに(あん)()されているわけです。

()()てる

つぎに、ごく(せま)(もん)がひとつしかない……ということ。そのただひとつの(もん)というのは〈()()てる〉という(こころ)(いち)(だい)(てん)(かい)にほかなりません。(ぼん)()にとって、これはたいへんむずかしいことですから、(せま)(もん)だといってあるのです。
この〈()()てる〉ことには、いくつもの(だん)(かい)があります。(だい)一の(だん)(かい)は、〈おおかたの(じん)(せい)()は、()のかたまりであるもろもろの(とん)(よく)からつくりだされるのだ〉という(げん)()(さと)ることです。それを(さと)っただけでも、ずいぶんと()からはなれることができます。しかし、それではまだ()というものの(しょう)ずる(げん)()まではわかっていませんから、(じゅう)(ぶん)ではないのです。
そこで(だい)二の(だん)(かい)として、〈(えん)()(ほう)(そく)〉によって、われわれがけんめいに()しがったり(しゅう)(ちゃく)したりするものごとは、すべて(いん)(えん)とによってできた()りのあらわれだということを(さと)らなければなりません。また、〈(じゅう)()(いん)(ねん)〉の(ほう)(そく)によって、そういう(とん)(よく)のおおもとになるのは()(みょう)()())だということを()らなければなりません。
それらの(ほう)(そく)(さと)れば、いままでにぎりしめていた()というものが、じつは(じっ)(たい)のないものだということがわかります。したがって、()()(ちゅう)(しん)(かんが)えかたからひとりでにはなれていくことができるのです。
ところが、もっと(しゅ)(ぎょう)がすすむと、〈この()(ちゅう)のすべての(そん)(ざい)はもともと(びょう)(どう)であり、(だい)調(ちょう)()しているのだ〉という(しん)(じつ)(さと)ることができます。みんな(びょう)(どう)(ぶっ)(しょう)をもっており、(ほとけ)()である(なか)()だ、きょうだいなのだという(いっ)(たい)(かん)を、しみじみ(あじ)わうことができます。そこまでくると、もう()などというものはすっぽりと()けてしまって、(かげ)(かたち)もなくなるのです。

(しゅ)()(しん)(さん)(とく)

この(ほん)のなかに、(ぶっ)(きょう)(ぜん)(きょう)(でん)のなかでもすぐれて(とうと)いものといわれている、(ゆう)(めい)()があります。
(いま)()の三(がい)は (みな)()()()なり ()(なか)(しゅ)(じょう)は (ことごと)()()()なり (しか)(いま)()(ところ)は (もろもろ)(げん)(なん)(おお)し (ただ)(われ)(にん)のみ ()()()()す〉
この()(ちゅう)(ぜん)()わたしのものだ。(ばん)(ぶつ)(ばん)(にん)はすべてわたしの()だ。その()どもたちが(くる)しみ(なや)んでいるのを(すく)うことのできるのは、わたしひとりしかないのだ──という()()です。
これは、なにもお(しゃ)()さまが「()(ちゅう)()(ぶん)のものだ」と(しょ)(ゆう)(けん)(しゅ)(ちょう)しておられるのでもなければ、「()(ぶん)ひとりしか(すく)えないのだ」といばっておられるのでもありません。「どのような(ひと)でもみな(ぶっ)(しょう)をもっているのだ。だから、わたしはすべての(ひと)にそのことをわからせ、一人(ひとり)もあまさずに、わたしとおなじ(ほとけ)(さと)りを()させてあげたいのだ」とおおせられているのです。
(にち)(れん)(しょう)(にん)はこの(いち)()から〈(しゅ)()(しん)(さん)(とく)〉ということを(みちび)きだして、お(しゃ)()さまのお(とく)(さん)(たん)しておられます。(しゅ)(とく)とは(いっ)(さい)(しゅ)(じょう)(しゅ)()してくださること。()(とく)とは(いっ)(さい)(しゅ)(じょう)(おし)(みちび)いてくださること。(しん)(とく)とは、(いっ)(さい)(しゅ)(じょう)()(あい)してくださることをいいます。
そして、(にち)(れん)(しょう)(にん)(ふか)()(さく)とさまざまな(しゅう)(きょう)(てき)(たい)(けん)から、()()(きょう)(しん)(じっ)(せん)するものにも、このような(さん)(とく)(そな)わるものであることを、ご()(しん)()(かく)として()かれました。
また、この(いち)()(つぎ)のように、より(せっ)(きょく)(てき)()()ることもできます。
われわれが、ほんとうに()()てることができれば、かならず、すべてのものに()かされている()(ぶん)(はっ)(けん)することができます。そして、すべてのものすなわち、()(ちゅう)(ぜん)(たい)()かされている()(ぶん)をしみじみ()つめることができれば、()(ぶん)がみるみる()(ちゅう)(ぜん)(たい)にひろがっていくのです。
そうなると、(こころ)はまことに()(ゆう)()(ざい)です。なにものにもとらわれず、おもうようにふるまっても、それがすべて(しん)()(みょう)(ほう))にかない、()(ぶん)をもすべての(ひと)をも()かす(こう)()になってしまうのです。
また、()(ちゅう)がわがものであれば、したがって、その(なか)()(しゅ)(じょう)はすべてわが()であり、きょうだいであり、(なか)()です。だから、それらのために(しん)()になってつくさずにはいられないのです。これがほんとうの(だい)()()であり、(ほとけ)(きょう)()にほかなりません。
このことは、この(ほん)においてはただ(あん)()だけにとどめられています。なぜかといえば、いきなりこのことをズバリと()いても、なかなか(さと)りにくいことだからです。それで、これからも(こん)()よく(なが)(せっ)(ぽう)をおつづけになるわけですが、(あん)()によってある(いん)(しょう)をあたえておけば、いつかはそれが()をふくことがあるわけで、お(しゃ)()さまはそれをお()とおしになって、このあとでもこのような(あん)()をつぎつぎとあたえられるのです。

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