『経典』に学ぶ

道場観

経文

(まさ)()るべし、()(ところ)(すなわ)()(どう)(じょう)なり。
諸仏此(しょぶつここ)(おい)()(のく)()()(さん)(みゃく)(さん)()(だい)()諸仏此(しょぶつここ)(おい)法輪(ほうりん)(てん)じ、
諸仏此(しょぶつここ)(おい)(はつ)()(はん)したもう。

現代語訳

「みなさん、いまこそはっきりと()るべきです。この場所(ばしょ)こそ、(わたし)(しゃく)(そん))が(さと)りを(ひら)いた場所(ばしょ)(おな)じなのです。そして、()()(きょう)(こころ)から(しん)じられ、(こころ)(おし)えをしっかりと()け、()(つづ)けられ、(しゅ)(ぎょう)され、生活(せいかつ)のうえに実行(じっこう)されているこの場所(ばしょ)こそ、まさに諸仏(しょぶつ)最高(さいこう)智慧(ちえ)(さと)られた場所(ばしょ)であり、諸仏(しょぶつ)永遠(えいえん)(おし)えを()かれる場所(ばしょ)であり、諸仏(しょぶつ)(にゅう)(めつ)される(()くなられる)場所(ばしょ)なのです」

()(のく)()()(さん)(みゃく)(さん)()(だい)〉——(ほとけ)智慧(ちえ)(ほとけ)(さと)りのこと。
法輪(ほうりん)〉——むかしのインドでは、(とく)のすぐれた(おう)には(てん)から輪宝(りんぽう)というものが(さず)けられ、その輪宝(りんぽう)(ころ)がしていけば、すべてを征服(せいふく)できるという()(つた)えがありました。ところが、(ほとけ)さまの(おし)えは、それよりもはるかに強力(きょうりょく)なもので、一切(いっさい)煩悩(ぼんのう)()(くだ)くということから法輪(ほうりん)()われます。法輪(ほうりん)(てん)じるとは、(ほう)()くことを意味(いみ)します。
()(はん)〉——涅槃(ねはん)とは、(まよ)いや(なや)みをすっかり消滅(しょうめつ)して、永遠(えいえん)煩悩(ぼんのう)にまどわされることのなくなった(やす)らかな(さと)りの境地(きょうち)のことです。(はつ)()(はん)とは、完全(かんぜん)涅槃(ねはん)(はい)るという意味(いみ)で、ここでは、(さと)りを(ひら)かれた(ほとけ)さまの肉体(にくたい)(めっ)することをさします。

意味と受け止め方

(しゃく)(そん)(しょう)(がい)

この(きょう)(もん)(みょう)(ほう)(れん)()(きょう)(にょ)(らい)(じん)(りき)(ほん)(だい)二十一(にじゅういち)一節(いっせつ)です。経文(きょうもん)は、(しゃく)(そん)説法(せっぽう)文字(もじ)(あら)わしたものですから、経文(きょうもん)()むということは、(わたし)たちが釈尊(しゃくそん)説法(せっぽう)(ちょく)(せつ)()かせていただくことと(おな)じであり、釈尊(しゃくそん)()()うことなのです。

はじめに、(しゃく)(そん)のご(しょう)(がい)にふれてみましょう。
(わたし)たちが(した)しみを()めてお()びするお釈迦(しゃか)さまは、(ただ)しくは(しゃ)()()()()(そん)(もう)()げます。シャーキャ(釈迦(しゃか)(ぞく)出身(しゅっしん)聖者(せいじゃ)牟尼(むに))で()(たぐい)なき(とうと)(かた)世尊(せそん))という意味(いみ)で、(りゃく)して(しゃく)(そん)とお()びします。
(しゃく)(そん)(やく)()(せん)()(ひゃく)(ねん)(まえ)(きた)インドのカピラヴァスツ(こく)(おう)・シュッドーダナ((じょう)飯王(ぼんのう))と(きさき)・マーヤー(()()()(にん))のあいだに()まれ、「すべての(のぞ)みを(じょう)(じゅ)するもの」の意味(いみ)()めたシッダールタ((しっ)(だっ)())と()()けられました。
しかし、マーヤー夫人(ふじん)は、シッダールタ太子(たいし)生後(せいご)七日目(なのかめ)()くなられてしまいます。そのためでしょうか、太子(たいし)継母(けいぼ)のマハー・プラジャーパティー(()()()(じゃ)()(だい))の愛情(あいじょう)をたっぷりと()けて(そだ)ちましたが、(かん)じやすく、もの(おも)いにふけることが(おお)かったと(つた)えられています。
そんな太子(たいし)に、シュッドーダナ(おう)は、ぜいたくの(かぎ)りを(あた)えつくします。()(せつ)ごとに()()ける()殿(てん)(つく)ったり、大勢(おおぜい)家来(けらい)(したが)えさせて、(なに)不自由(ふじゆう)なく()らせるようにしました。しかし、青年(せいねん)になった太子(たいし)は、人間(にんげん)根本的(こんぽんてき)()()(しょう)(ろう)(びょう)())について(ふか)(かんが)えるようになっていました。(なや)()いた太子(たいし)は、この()解決(かいけつ)(もと)めて二十九歳(にじゅうきゅうさい)のときに妻子(さいし)()てて出家(しゅっけ)するのですが、仏伝(ぶつでん)出家(しゅっけ)のきっかけとなる()(もん)(しゅつ)(ゆう)というエピソードがあります。

ある()太子(たいし)郊外(こうがい)()かけようと東門(ひがしもん)をくぐると、やせ(おとろ)え、いまにも(たお)れそうに(ある)いている老人(ろうじん)()いました。(つぎ)南門(みなみもん)から外出(がいしゅつ)したときは、道端(みちばた)で、うめき(ごえ)(はっ)して(くる)しんでいる病人(びょうにん)()ました。また、西門(にしもん)から()たときは、死者(ししゃ)()()(おく)葬儀(そうぎ)(れつ)()くわしました。
(ひと)()のはかなさをうれいた太子(たいし)は、《(にん)(げん)は、()いや病気(びょうき)()()けて(とお)ることはできない。()きているということは、すなわち()()けるということだ》と(かんが)えました。そしてさらに、《(ひと)(なん)のために()まれてきたのだろうか。なぜ(ひと)()い、(やまい)()の苦しみを()けるのだろう》と疑問(ぎもん)()つようになりました。そんな太子(たいし)北門(きたもん)から()かけたときのことです。すがすがしさを(ただよ)わせた一人(ひとり)沙門(しゃもん)出家僧(しゅっけそう))と出会(であ)いました。太子(たいし)が「沙門(しゃもん)となる()(どく)(なに)ですか」と()くと、沙門(しゃもん)は「世間(せけん)(けが)れから()(だつ)()ました」と(こた)えました。
《これこそ(わたし)(もと)めていた(みち)だ!》
(かん)()した太子(たいし)は、こうして出家(しゅっけ)決意(けつい)したのです。

(ちち)継母(けいぼ)妻子(さいし)地位(ちい)財産(ざいさん)すべてを()てて、太子(たいし)沙門(しゃもん)となりました。この「(おお)いなる(ほう)()」のおかげで仏教(ぶっきょう)()まれ、現代(げんだい)まで(おお)くの(ひと)びとが(すく)われてきたのです。

沙門(しゃもん)となった太子(たいし)は、高名(こうめい)なアララ仙人(せんにん)、ウッダカ仙人(せんにん)弟子入(でしい)りして修行(しゅぎょう)しましたが、すぐに()(おな)じレベルに(たっ)してしまいました。しかし、(もと)めている境地(きょうち)には(いた)りません。(つぎ)に、当時(とうじ)沙門(しゃもん)たちがよく(おこ)なっていた断食(だんじき)などの苦行(くぎょう)六年間(ろくねんかん)(つづ)けましたが、それでもまだ(しん)(さと)りに(たっ)することはできませんでした。そこで緑豊(みどりゆた)かな()()提樹(だいじゅ))の(した)(しず)かに(すわ)り、(ふか)いめい(そう)(はい)りました。次々(つぎつぎ)(おそ)ってくる(こころ)(まよ)いを退(しりぞ)けると、(こころ)はこれまでになく()みわたり、ついに万物(ばんぶつ)のほんとうのすがた、すなわち実相(じっそう)をありありと()とおされるようになったのです。つまり、()(ちゅう)(つらぬ)(ぜっ)(たい)(しん)()(ほう)()(じょう)をはっきりと(さと)られたのです。
(ぶっ)()真理(しんり)(さと)った人)となられた釈尊(しゃくそん)は、その()四十余年間(しじゅうよねんかん)(あし)(うら)(いた)のようになるほど布教(ふきょう)伝道(でんどう)(ある)かれました。深遠(しんえん)難解(なんかい)なる真理(しんり)(ほう)を、一人(ひとり)ひとりの生活(せいかつ)環境(かんきょう)理解(りかい)する(ちから)(おう)じて()く(方便(ほうべん))ことで、(ひと)びとの()(のう)()()り、(しん)()(かた)()()めさせていった釈尊(しゃくそん)は、(いき)()()られる直前(ちょくぜん)まで(おし)えを()(もの)(ほう)()き、そして、八十年(はちじゅうねん)生涯(しょうがい)(しず)かに()えられました。

いまこの()(どう)(じょう)

《いま、ご(ほう)(ぜん)()かっているこの()は、釈尊(しゃくそん)諸仏(しょぶつ)がご一生(いっしょう)(おく)られた()(おな)じなんだ。ここで(ほう)()いてくださっているんだ。ここが(わたし)道場(どうじょう)なんだ》
経典(きょうてん)最初(さいしょ)(どう)(じょう)(かん)があるのは、そのことをしっかりと(こころ)(きざ)みつけるためです。
釈尊(しゃくそん)は、天界(てんかい)極楽(ごくらく)など(わたし)たちと(べつ)世界(せかい)存在(そんざい)したのではありません。現実(げんじつ)のこの世界(せかい)()まれ、(さと)りを(ひら)き、(にゅう)(めつ)されたのです。(わたし)たちも、真理(しんり)(ほう)認識(にんしき)することで(みずか)らの(こころ)()(なお)すことができ、いまこの()(すく)われ、(しあわ)せになり、いのちを(かがや)かすことができるのです。
道場(どうじょう)とは、修行(しゅぎょう)のための建物(たてもの)だけをさすのではありません。釈尊(しゃくそん)(さと)りを(ひら)かれた道場(どうじょう)も、そこに修行(しゅぎょう)建物(たてもの)があったわけではありません。(はやし)のなかの菩提樹(ぼだいじゅ)(した)(すわ)り、そこで真理(しんり)(みち)(もと)めて修行(しゅぎょう)(はい)られたから道場(どうじょう)というのです。
ですから、(わたし)たちが日々(ひび)生活(せいかつ)のなかで法華経(ほけきょう)読誦(どくじゅ)したり、(おし)えをかみしめたり、実践(じっせん)する()は、すべて道場(どうじょう)なのです。家庭(かてい)職場(しょくば)電車(でんしゃ)のなかも、(わたし)たちの(こころ)がけしだいで、すべて道場(どうじょう)になるのです。
しかし、だからといって、(みち)修行(しゅぎょう)するために()てられた道場(どうじょう)はいらない、というのではありません。修行(しゅぎょう)するには、修行(しゅぎょう)するにふさわしい環境(かんきょう)というものがあります。釈尊(しゃくそん)も、(ぜん)(じょう)(はい)られるために(しず)かな(はやし)のなかを(えら)ばれました。まして、ふつうの生活(せいかつ)(いとな)んでいる(わたし)たちは、家庭(かてい)職場(しょくば)(まち)なかなどでは(こころ)をかき(みだ)されることが(おお)く、(こころ)(しず)かに()ちつかせて真理(しんり)(ほう)(おも)うことは容易(ようい)ではありません。
そこで、道心(どうしん)(おな)じくする(ひと)びとが(あつ)まれる場所(ばしょ)(もう)け、(たが)いに(こころ)()(かた)(まな)()うことが大切(たいせつ)になってきます。そうした(まな)()いを(かさ)ねていくと、しだいに日常(にちじょう)のあらゆる場所(ばしょ)(みち)(もと)める修行(しゅぎょう)()、すなわち「道場(どうじょう)」とすることができるようになってくるのです。

(ほとけ)さまとの一体感(いったいかん)

道場観(どうじょうかん)最後(さいご)に、「諸仏此(しょぶつここ)(おい)(はつ)()(はん)したもう」とありますが、なぜここが(ほとけ)さまが()くなられる場所(ばしょ)だと(かんが)えることが大切(たいせつ)なのでしょうか——。
それは、「(ほとけ)さまと(わたし)たちは親子(おやこ)関係(かんけい)なのだから、(ほとけ)さまは、(おや)()()せる絶対(ぜったい)愛情(あいじょう)()())で見守(みまも)ってくださっているんだ」という感情(かんじょう)(わたし)たちがしっかりと(いだ)いていくためです。たとえば、「ここで(おや)()くなったんだ」という場所(ばしょ)にたたずむと、(おや)(なつ)かしむ(おも)いが自然(しぜん)にわいてきます。それと(おな)じで、(おや)である(ほとけ)さまがここで()くなられたんだという(おも)いを(つよ)くしていくと、自分(じぶん)(ほとけ)さまが(ひと)つに()()った心境(しんきょう)になっていくのです。
このように道場観(どうじょうかん)は、すべての場所(ばしょ)(みち)(もと)める道場(どうじょう)となり、(わたし)たちと(ほとけ)さまがいのちの親子(おやこ)として「(おお)きな(ひと)つのいのちを()かされて()きている」という一体感(いったいかん)(ふか)(こころ)(きざ)()むために(とな)えるのです。

事例から学ぶ

事例編(じれいへん)では、各品(かくほん)()められた(おし)えを、(わたし)たちが日々(ひび)生活(せいかつ)のなかで、どのように()かしていけばよいかを、具体的(ぐたいてき)事例(じれい)をとおして(かんが)えていきます。

鈴木さん一家登場

事例編の主人公・鈴木さん一家を紹介します。

おばあちゃん・ミチコさん(75)は、佼成会の青年部活動も経験している信仰二代目会員です。
アキオさん(45)は、一家の大黒柱。ミチコさんの末息子です。
アキオさんの妻・夕カエさん(38)は婦人部リーダーで、とても行動的。
長女・ケイコさん(16)は、高校一年生。やさしい心の持ち主です。吹奏楽部でクラリネットを担当。
長男・ヒロシくん(9)は、元気いっぱいの小学三年生。
いつもにぎやかな鈴木さん一家を、どうぞよろしくお願いします。

つのる不満

教会道場では午前中、婦人部の研修会が開かれていました。いつもは真剣にメモを取るタカエさんですが、きょうはため息ばかりついています。しかし、それにはわけがありました。
夫のアキオさんは、大型スーパーで食品売り場のマネージャーをしています。
仕事がら休みは不規則なうえ、せっかくの休みも家でゴロゴロしてばかり。以前は映画を見たり、買い物に出かけたりと、二人で過ごすことが多かったのですが、最近はタカエさんが「どこかに行こうよ」と誘っても、「また今度ね」と、にべもありません。
しかし、タカエさんの不満は、そればかりではないのです。長女のケイコさんが、高校に入学してからは勉強に身が入らないようで、一学期の成績は平均以下でした。それでも本人は、ブラスバンド部の活動に夢中で、成績のことなど気にしていない様子。「しっかり勉強しなさい」と言っても「わかってる、わかってる」と、まじめに聞いてくれません。近ごろは、自室にいる時間が多く、親子で会話をする機会も少なくなってしまいました。
長男のヒロシくんは、昨日クラスの友達と大ゲンカをしてしまい、タカエさんは放課後、学校に呼び出されました。家に帰ってヒロシくんを叱ると、「ぼくが悪いんじゃないや」と言ったきり、一切口をきかないのです。
≪まったくもう、みんな自分勝手なことばかりやっているんだから!≫
研修が終わって、お弁当を広げていたタカエさんは、隣に座っていた婦人部長に、思わず愚痴をこぼしていました。

すべてが道場

「うちも同じよ。子どもは心配ばかりかけるし、夫は、休みのたびにパチンコなのよ。『ストレス解消にはこれが最高』なんて言ってるけどね。でも、きょうの『道場観』の研修を聞いて、あらためて思ったの。講師さんが『道場とは、教会道場のことだけではなく、仏さまの教えをかみしめたり、実践する場所は、電車の中でも街の中でも、どこでも道場なんですよ』って言っていたでしょう。私の生活の中心は家庭だから、まず家庭を道場として教えを実践していこうってね」
「うーん、家庭が道場ねえ… …」
「ご主人さん、今年マネージャーに昇格したんでしょ」
「うん、課長職なんだって」
「全国にお店がある有名店だもの、お仕事はたいへんなんじゃないかしら。それとケイコちゃんのことだけど、芯はしっかりしている子だから、きちんと自分のことは考えていると思うの。ねえ、鈴木さんがご家族に不満を持っているのはなぜかしらね?こうなってほしいという思いが強いからじゃないかしら … …」
「そうなのよ、ぜんぜん言うことを聞いてくれないから … …あっ!」
タカエさんは、はたと気づきました。
≪相手にこうなってほしいと思うのは、自己中心だからだ。そうか、家のなかこそ、自己中心をあらためる道場なんだ。会員綱領に家庭・社会・国家・世界とあるように、まず家庭のなかでご法を実践し、あたたかな雰囲気をつくっていこう≫
タカエさんは、すっきりした面持ちで道場を後にしました。
家族は、いちばん身近な存在であるだけに、どうしても自己中心の心がわき、感情のままに言葉を発したり、行動してしまうことがあります。そこでタカエさんは、≪家族を縁として、家族から仏さまの教えにそった見方、考え方、ものの受けとめ方を学ばせていただこう≫と決意し、まずは家族一人ひとりの立場になってものを考えることに努めました。
夫には休みの日に思う存分リラックスしてもらうことを心がけました。ケイコさんには顔さえ見れば「勉強しなさい」と言っていた自分をあらため、ヒロシくんにも頭ごなしに「ああしなさい、こうしなさい」という命令口調を一切やめて、子どもたちの話をとことん聞くように心がけました。
ときには、つい文句を言ってしまい、反省することもあるタカエさんですが、いま、安らぎのある家庭づくりをめざして、いきいきと教えを実践しています。

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