『経典』に学ぶ
妙法蓮華経 如来寿量品第十六
経文
我仏を得てより来。経たる所の諸の劫数。無量百千万。億載阿僧祇なり。常に法を説いて。無数億の衆生を教化して。仏道に入らしむ。爾しより来無量劫なり。衆生を度せんが為の故に。方便して涅槃を現ず。而も実には滅度せず。常に此に住して法を説く。我常に此に住すれども。諸の神通力を以て。顚倒の衆生をして。近しと雖も而も見ざらしむ。衆我が滅度を見て。広く舎利を供養し。咸く皆恋慕を懐いて。渇仰の心を生ず。衆生既に信伏し。質直にして意柔輭に。一心に仏を見たてまつらんと欲して。自ら身命を惜まず。時に我及び衆僧。倶に霊鷲山に出ず。我時に衆生に語る。常に此にあって滅せず。方便力を以ての故に。滅不滅ありと現ず。余国に衆生の。恭敬し信楽する者あれば。我復彼の中に於て。為に無上の法を説く。汝等此れを聞かずして。但我滅度すと謂えり。我諸の衆生を見れば。苦海に没在せり。故に為に身を現ぜずして。其れをして。渇仰を生ぜしむ。其の心恋慕するに因って。乃ち出でて為に法を説く。神通力是の如し。阿僧祇劫に於て。常に霊鷲山。及び余の諸の住処にあり。衆生劫尽きて。大火に焼かるると見る時も。我が此の土は安穏にして。天人常に充満せり。園林諸の堂閣。種種の宝をもって荘厳し。宝樹花果多くして。衆生の遊楽する所なり。諸天天鼓を撃って。常に諸の伎楽を作し。曼陀羅華を雨らして。仏及び大衆に散ず。我が浄土は毀れざるに。而も衆は焼け尽きて。憂怖諸の苦悩。是の如き悉く充満せりと見る。是の諸の罪の衆生は。悪業の因縁を以て。阿僧祇劫を過ぐれども。三宝の名を聞かず。諸の有ゆる功徳を修し。柔和質直なる者は。則ち皆我が身。此にあって法を説くと見る。或時は此の衆の為に。仏寿無量なりと説く。久しくあって乃し仏を見たてまつる者には。為に仏には値い難しと説く。我が智力是の如し。慧光照すこと無量に。寿命無数劫。久しく業を修して得る所なり。汝等智あらん者。此に於て疑を生ずることなかれ。当に断じて永く尽きしむべし。仏語は実にして虚しからず。医の善き方便をもって。狂子を治せんが為の故に。実には在れども而も死すというに。能く虚妄を説くものなきが如く。我も亦為れ世の父。諸の苦患を救う者なり。凡夫の顚倒せるを為て。実には在れども而も滅すと言う。常に我を見るを以ての故に。而も憍恣の心を生じ。放逸にして五欲に著し。悪道の中に堕ちなん。我常に衆生の。道を行じ道を行ぜざるを知って。度すべき所に随って。為に種種の法を説く。毎に自ら是の念を作す。何を以てか衆生をして。無上道に入り。速かに仏身を成就することを得せしめんと。
現代語訳
「私が仏となってから、これまでに経った時間は無量・無限です。そのあいだ私は、常に真実の教えを説き、無数の衆生を教化して仏道に導きました。そのときからもまた、無量の月日が経っているのです。
私は衆生を救う手段の一つとして、この世から姿を消したこともありますが、実際は滅度(入滅)したのではなく、常にこの娑婆世界にいて法を説いているのです。 私は常にこの世界にいるのですが、自由自在な神通力によって、顚倒している(何ごとも自分中心に考え、ものごとの真実を見ようとしない)衆生には姿が見えないようにするのです。
衆生は、私が入滅したのを見て、舎利をまつって供養をし、そこではじめて真剣に仏の教えを求めようという心を起こします。求道の心を起こした衆生は、教えを心から信じ、柔らかく素直な心で、仏とともにいるという自覚を得ようと、命をも惜しまないほどの真剣さで努力します。
このような人びとが多くなれば、私は弟子たちとこの世に出てきて、『私は常にここにいますが、教化の手段として必要だと思われるときに入滅を見せるのです。また、この世界以外の場所でも、正しい教えを敬い、信じ、聞きたいと願う人たちがいれば、私はその人たちの前にも現われて無上の法を説きます』と衆生に語ります。多くの人は、このことを知らないために、私が滅度するのだと思い込んでいるのです。
仏の眼で衆生を見ると、多くの人は苦の海に沈んで、苦しみもがいています。さればこそ、私はわざと身を現わさないで、衆生に自ら仏を求める気持ちを起こさせるのです。
仏を恋慕する心が人びとに起これば、すぐに身を現わして、その人たちのために法を説きます。仏の神通力とはこのようなものであって、無限の過去から無限の未来まで、娑婆世界およびその他の世界に仏は存在しているのです。
衆生の目で見ると、世界全体が大火に焼かれてしまうような時代になっても、仏の国は安穏であって、天上界の者や人間界の者がたくさん集まり、楽しい生活を送っています。美しい花園や静かな林、光輝く宝玉によって飾られた立派な建物がたくさんあります。木々には美しい花が咲き、豊かな実がなっていて、その下で人びとは何の憂いもなく遊んでいます。天人は妙なる音楽を奏で、曼陀羅華の花びらを雨のように、仏や人びとの上に散じています。
仏の眼から見た世界は、このように平和で美しいのですが衆生の目から見ると、あたかも大火に焼かれるがごとく、不安や恐怖に満ちているように見えるのです。このような衆生は、よくない行ないを積み重ねるために、長い年月が経っても三宝(仏・法・僧)の名を聞くことができません。
反対に、世のため人のためにさまざまな善行をなし、心が柔和で素直な者は、私がいつもそばにいて常に法を説いている姿を見る(自覚する)ことができるのです。そのような人びとに対して、あるときは『仏の寿命は限りないものであって、無始無終である』と説きます。長いあいだかかって、ようやく仏の存在を知った人には、『仏に出会うことは難しいのだから、いま出会えた喜びを胸に刻んで、怠らず励むのですよ』と説くこともあるのです。
仏の智慧の力はこのように大きいものであり、その智慧の光が照らしだす世界は無量です。また、仏の寿命も無量であって、それは長いあいだ善業を積んで得た寿命なのです。
ほんとうの智慧を求めようとしているみなさんは、仏の寿命が永遠であり、智慧の力が無限であることを疑ってはなりません。もし、疑いを起こすような迷いの心があれば、永久に断ち切ってしまわなければなりません。仏の言葉は、すべて真実なのです。
先に述べた譬え話において、毒を飲んで本心を失ってしまった子どもたちを治すために、医師が善い方便をもって、実際は死んでいないのに『死んだ』と告げさせたことを、だれもとがめたりしないのと同じように、仏が姿を見えなくするのも決してうそ、偽りではありません。
私は父です。世の父です。さまざまな苦悩を抱える衆生を救う者です。いつも衆生のそばにいて、その苦しみを除こうとしているのですが、凡夫の心が顚倒しているので、その真実を見ることができません。そこで、その目を覚まさせるために、実際はそばにいても『時期がくれば姿を消すのだ』と告げるのです。
もし、いつでも仏に会えるのだということになれば、衆生にわがままな心が生じて五欲に執着する(己の欲望にとらわれる)ため、修羅(争いの世界)や地獄(怒りの世界)などもろもろの悪道の苦しみが人生に現われてくるのです。
私は衆生のすべてを常に見とおして、ある者はよく仏の道を行じており、ある者は行じていないということを知り尽くしていますから、衆生の心がけや教えを理解する力に応じて、適切な方法を選び、さまざまに法を説いてあげるのです。とはいえ、どんな衆生に対しても、私の本心は少しも変わりません。どうしたら衆生を仏の道に導き入れることができるだろうか、どうしたら速やかに仏の境地に達せしめることができるだろうかと、常にそれのみを念じているのです」
〈神通力〉──ここで言う神通力とは、修行などによって得られる不思議な力ということではありません。久遠実成の本仏は、宇宙の一切のものを生かしている根源の大生命ですから、自由自在の力を持っておられます。その力を表現しているのです。
〈霊鷲山〉──釈尊が法華経を説かれた場所が霊鷲山であったために、こうおっしゃられたのであって、真の意味は「この世」ということです。私たちが仏の教えを聞くところは、どんな場所であっても、そこが霊鷲山なのです。
〈余国〉──娑婆世界以外の国土ということですが、宇宙のありとあらゆる場所という意味にとらえるといいでしょう。
〈曼陀羅華〉──天上界に咲く花で、見る人の心を喜ばせずにはおかない、美しい花のことです。
〈罪の衆生〉──仏教でいう罪とは、必ずしも悪いことをしたという意味だけではなく、煩悩に振り回されて、自らの仏性をくらましてしまっていることもいいます。
〈三宝の名を聞かず〉 ──仏さまに会うことも、仏さまの教えにふれることも、教えを求める仲間に入れてもらう機会にも恵まれないということです。
〈慧光照すこと無量に〉──仏の智慧の光が照らしだす世界は無量であるということは、いつ、いかなる場所でも、迷いの闇にいる衆生に救いの力を与え、仏性を輝かせる働きをするということです。したがって、すべての人が必ず真理に目覚めることができるという意味です。
意味と受け止め方
永遠のいのちに生きる
これまでに釈尊は、譬え話や過去世の物語などを用いながら、「人間の本質は仏性である」ということを、くり返しお説きになられました。説法を聞いていた人びとも順々に、自らが本仏のいのちの顕われであることに目覚め、自分が仏の子であるという自覚に立つことができるようになってきました。
人びとの心境が高まったことを見きわめられた釈尊は、いよいよ最高の真実を打ち明けるときが訪れたと判断されます。そして、仏の本体と仏の力(働き)について明らかにされるのです。
つまり、仏の本体は無限の過去から無限の未来まで(久遠実成)、あまねく宇宙に遍満している大いなる永遠のいのち(本仏)であり、本仏が万物を生かす力は、いつでもどこでも変わることなく永遠に存在することを教えられるのです。
これは「仏」についてだけ教えられたものではありません。私たちのいのちもまた永遠であることを示してくださっているのです。なぜならば、私たちはみな本仏のいのちの顕われであり、本仏と一つのいのちにつながっているからです。
人間としての肉体は、やがて必ず死を迎えます。それはちょうど、どんなに大切にしている服でも、いつかは古び、破れて、捨てるときがくるのと同じです。しかし、私たちのいのちの本質は肉体ではありません。仏性、すなわち本仏と一体の永遠のいのちです。
会長先生は、ご著書『心田を耕す』のなかで、このように述べられています。
「人間のいのちは有限ですが、私たちは無常の法、永遠なる真理・法を認識できる能力を具えています。それは、私たちが有限な存在でありながら無限にふれることができ、つまり永遠のいのちにジョイント(連結)できるということです。無常の法を認識することは、永遠のいのちを知ることに通じます。有限なる人間が無限なる法にふれ、結縁することによって、永遠に生き続けているのです」
万物を生かす本仏の働きとは、真理・法の働きそのものです。その働きは、私たちの身の外側にも内側にも顕われています。ですから、永遠なる真理・法は、私たちのいのちそのものなのです。
この真実を心の底から確信できたとき、私たちは「肉体の死」という、人間としての根本的な恐怖・苦悩から解き放たれます。そして、大いなる永遠のいのちに生かされて生きる喜びを味わいながら、人間として生まれた真の目的である、「自らの成長・向上」と「世の人びとへの貢献」に向かって、いきいきと歩み出すことができるのです。
如来寿量品が法華経全体の眼目とされる理由は、ここにあります。
一つになる
大いなる永遠のいのち・本仏と同じ一つのいのちにつながっているのは、何も人間だけではありません。花も鳥も、ありとあらゆるすべての存在が、本仏のいのちの顕われです。お互いに、さまざまに関連し合って生かされて生きているのです。
このことを深く見つめてみると、私たちは生きとし生けるものと一つのいのちを生きているということがわかります。ですから、永遠の大いなる一つのいのちを生きるということは、すべての存在と一つにつながっていく(大調和)ということなのです。
では、大いなる一つのいのちを生きている私たちは、なぜ人間に生まれてきたのでしょうか。それは法師品でも学ばせていただいたように、心の成長・向上をめざし(自利)、仏と同じ境地に至るためです。
仏と同じ境地ということですから、見方を変えると、苦しみ悩む人びとを救うため(利他)に生まれてきたともいえるでしょう。世のため人のためにつくせる人間となるために自分を成長させるのであり、自分の成長・向上を図るために利他行に励む
──つまり自利と利他は表裏一体の行なのです。
親と子の関係
私たちが自利・利他に励む姿を、仏さまは、わが子の成長を楽しみにしている親と同じ心で、目を細めて見守ってくださっています。そのお姿を、釈尊は「良医の譬え」によって、わかりやすくお説きくださいます。
あるところに一人の名医がいました。医師にはたくさんの子どもがおり、父が所用で他国へ出かけているあいだに、誤って毒薬を飲んでしまいました。いつもは決してそんなことはしない子どもたちですが、父が留守のあいだに、やりたいほうだいの生活をしていたので、このような事態になってしまったのです。
子どもたちが地べたをはって苦しんでいるところへ、父が帰ってきました。子どもたちは、父の姿を見て喜び、「お父さん、私たちは愚かにも毒薬を飲んでしまいました。どうか助けてください」と訴えました。
父は、よく効く種々の薬草から、色も香りもよいものを選んで調合し、子どもたちに与えました。薬を飲んだ子どもはすぐに治りましたが、毒の回りが早く、苦しみの激しさに本心を失っている子どもは飲もうとしません。
そこで父は一計を案じ、「みんな、よく聞きなさい。私はもう年をとって体が弱っているので、いまのうちに行かねばならない所がある。これからまた出かけるが、薬をここに置いておくから自分で飲むのだよ」と言って、家を後にしました。そして、旅先から使いを出し、「父上は亡くなられました」と告げさせたのです。
子どもたちはたいへん嘆き、悲しみました。本心を失っている子どもも、そのショックではっとわれに返り、父が残してくれた薬を飲んで、毒を消すことができました。子どもたち全員が治ったことを見届けた父は、再び姿を現わして子どもたちを喜ばせました。
この譬えにある父の医師とは仏さまのことであり、子どもたちは私たち衆生をさします。毒は五欲に執着する煩悩のことであり、薬は仏さまの教えです。仏さまのみ教えを素直な心で受持し、身に行なえば、だれでも必ず救われることが示されています。
仏さまのような大導師がいつも身近にいて私たちを導いてくださっているときは、教えの尊さがわかり、教えにそった生活を送ることができます。しかし、指導者がいなくなってしまうと、教えはちゃんとそこにあるのに、ついわがままな心がわき起こり、自己中心のものの見方、考え方による執着心(貪欲)によって自ら苦悩を生じさせてしまうのです。譬えのなかで、子どもたちが毒を飲んで苦しんでいる姿は、このことを表わしています。
父が、さまざまな薬草を調合して飲みやすい薬をつくってくれたというのは、私たち衆生が理解できるようにと、仏さまがさまざまに法を説き分けてくださったということです。しかし、五官の楽しみに溺れ、煩悩に振り回されていのちの本質をくらましている人間は、教えを受持し、実践しようという気持ちになりません。それが本心を失っている子どもたちの姿です。
ところが、父は子どもたちの口を無理に開けて薬を飲ませることはせず、自らの意思で飲むまで待ちます。それは、信仰には「自ら」ということが何よりも大事だからです。
たとえば、勉強をする気のない子どもに、いくら親が「勉強しなさい」とくり返し言っても、塾に通わせても、本人にやる気がなければ何も身につきません。自分で求め、自分でつかんでこそ身になるのです。
仏さまは、教えを求める気持ちのない人びとをも決して見放したりせず、あらゆる手段を用いて救ってあげようとされます。そこで仏さまは、人びとの目を覚まさせるために、一時身を隠されるのです。すると、いままで無意識のうちに仏さまの慈悲に甘えっぱなしでいた人たちにも、自らの問題は自分たちで解決しなければならないという気持ちがふつふつと起こってきます。どんな人でも、いのちの本質は仏性なのですから、やがて真剣に教えを求めていこうという気持ちになっていくのです。
こうして子どもたちがすっかり治ったあとで、父が再び姿を現わしたということに、また大きな意味があります。これは、私たちが仏の教えを心から受持し、教えにそった生き方をすれば、仏さまの姿が見えてくるということです。もちろん、実際に肉眼で仏さまの姿が見えるということではありません。自分にふれるさまざまな縁のなかに、仏さまの大きな慈悲が確かに見えてくるのです。その結果、「常に仏さまといっしょにいるんだ。仏さまに見守られているんだ」ということが自覚できるわけです。
仏さまと人間の関係は、支配者と支配される者というものではありません。釈尊は、この譬えによって、本仏と私たちが親子であること、私たちが本仏の深い慈悲に抱かれて、生かされて生きていることを明らかにされたのです。
仏さまは深い慈悲の心で私たち一人ひとりを案じ、どうしたらよりよく成長・向上できるかを念じてくださっています。そして、私たちの成長の度合いに応じて、最も適切な「学びの機縁」を与えてくださるのです。
すべてが成長の種
ここで私たちは、仏さまがくださる「本質的な救い」の真の意味をはっきりと心に刻まなければなりません。仏さまの本質的な救いとは、「私たちの肉体生命は有限であっても、宇宙の永遠のいのちを認識することによって、私たち一人ひとりのいのちが、かけがえのないいのちであることに気づくこと。そして、真理・法にそいながら、自らの成長と他者への貢献の喜びを満喫できるような境涯になること」です。では、そうした目的に向けて、仏さまはどのように導いてくださるのでしょうか──。
地球には、六十億の人間が生活していますが、仏さまはその一人ひとりをわが子として見守り、いのちの大本の親として、絶対の慈悲を注いでくださっています。仏さまの慈悲のみ心は、ちょうど次のような言葉に表わせるでしょう。
「わが子よ、いつも心安らかであれ。そして、大いなる希望を持って成長の階段を一歩一歩踏みしめよ。仏はそのために必要な、あらゆる縁を与えるであろう」
こうして私たちに与えられる縁は、うれしいことや楽しいこと(順化=己事)も、悲しいことや辛いこと(逆化=他事)も、すべてが私たちを成長・向上させるための仏さまのお導きであり、私たちにとって貴重な学びの機縁なのです。
しかも、この学びの機縁は、私たち一人ひとりの成長の度合いに応じて、いまの自分が一歩向上するために最も効果的なかたちで、また絶妙のタイミングで与えられるのです。これを仏さまの偉大な方便(正しい教化の手段)といいます。人のやさしさや美しい音楽、創意工夫ができる仕事などのうれしい縁は、私たちの心を豊かにし、躍動させながら成長の機縁となってくれます。同時に、病気や経済的な苦、人間関係の悩みなどといった辛い縁も、いままでの自分をひとまわりも、ふたまわりも大きく成長させてくれるのです。
悩みのなかで、私たちは他人の心の痛みを理解できるようになり、多くの人に支えられていることに気づき、人を信じること、許すことの尊さを知っていきます。目の前に現われるすべての縁には意味があります。その意味に私たちが気づき、大きな学びを得ることを、仏さまはじっと念じてくださっているのです。
アンテナを磨く
いま、私たちは仏さまと自分の関係、そして、仏さまの大いなる慈悲の中身を知ることができました。ところが、実際に苦に直面すると「これも仏さまのお慈悲」とは、なかなか受けとめられないものです。どんな出来事も素直に仏さまの慈悲として受けとめられるようになるには、ただ一つ、慈悲を感じとる心のアンテナを磨いていくほかにありません。
具体的に言うと、日々の生活のなかで《ありがたい》と思える出来事(己事)を見逃さないで、しっかりと味わっていくことです。
すばらしい書物に出合えた、おいしい食事をいただけた、席を譲って気持ちよかった……。こうした出来事があるたびに、「うれしいなあ。仏さまは私をほんとうにかわいがってくださっているんだ」と味わっていきます。
すると、徐々に「仏さまはいつ、いかなるときも、私に親としての絶対のお慈悲を注いでくださっている」という真実が、知識ではなく実感として納得できるようになるのです。
しかし、無理は禁物です。たとえば、道で転んだとき、《ついていないな、ひどい目にあった》と思ったとしたら、それはそれでいいのです。ただし、そのあとにうれしい出来事があったら、そこは見逃さないで、《また仏さまにかわいがられた》と味わっていきます。前に起こった出来事と、そこから生まれた感情をいつまでも引きずってはいけません。それは“とらわれ”であり、アンテナの感度を鈍くするもとです。気持ちをすっきりと切り換えましょう。
こうして無理なく、しかも注意深く仏さまの慈悲を味わっていくうちに、アンテナはしだいに感度を増していきます。すると、それに伴って「きのうまではありがたくなかったことが、きょうはありがたく感じる」という現象が次々に起きてくるのです。そして、たとえ前と同じように道で転んでも、《ひざを擦りむいたけど、この程度ですんでよかった。ありがたい》と自然に思えるようになっていきます。
子どもが親の愛を日ごろから目に見えるかたちで味わっていれば、ときに厳しく叱られても、そこに込められた親のほんとうの気持ちを理解して、自らの成長の糧とすることができます。しかし、親の愛をふだん感じていない子どもは、叱られると落胆し、反発心すら抱くことがあります。
私たちも、親である仏さまの存在とその絶対の愛(慈悲)を、日ごろから身近に味わっていくことが大切です。そうすれば、心のアンテナは感度を増し続け、慈悲と思える現象の範囲はどんどん広がり、ついには目の前に現われるすべての縁に対して「これも親である仏さまがくださった絶対のお慈悲なんだ。よし、また一歩成長するぞ」と、元気にチャレンジできるようになるのです。
事例から学ぶ1
事例編では、各品に込められた教えを、私たちが日々の生活のなかで、どのように生かしていけばよいかを、具体的な事例をとおして考えていきます。
鈴木さん一家を紹介します。
おばあちゃん・ミチコさん(75)…佼成会の青年部活動も経験している信仰二代目会員
アキオさん(45)…一家の大黒柱。ミチコさんの末息子
アキオさんの妻・夕カエさん(38)…婦人部リーダー。行動派お母さん
長女・ケイコさん(16)…やさしい心の持ち主の高校一年生。吹奏楽部
長男・ヒロシくん(9)…元気いっぱいの小学三年生
タロウくんが結婚
日曜日に、アキオさんの兄・ノブオさんが訪ねてきました。しばらく兄弟で話をしたあと、母親の部屋がある二階にあがっていきました。
「母さん、正月以来、顔を見せなくてすみませんでした。元気そうですね」
「あら、その口のひげ……。ますます父さんに似てきたわねえ。それはそうと、きょうは一人で来たの」
「ええ、ちょっと話がありまして」
「どうしたのよ、あらたまって。あなたらしくないじゃない」
「じつは、きょうは母さんにお詫びをしようと―」
「ノブオさんは、二男のタロウくんのことから話し始めました。タロウくんは大学院で海洋学を勉強していますが、先月になって突然、大学院をやめると言いだしたのです。外資系の商社に勤める、五つ年上の女性と結婚するために、どこかに就職したいというのが理由です。
ノブオさんと妻のユミコさんは、息子が女性と交際していることさえ知らなかっただけに、言葉が出ないほど驚きました。ノブオさんが心を落ちつけて話を聞くと、タロウくんは「学生のままで結婚したら、彼女に経済的な負担をかけてしまう」と言います。しかも「卒業まで待てない。どうしても年内に結婚したい」の一点張りです。
後日、ノブオさんはタロウくんとその女性に会いました。彼女の話では、二人のあいだで確かに結婚の話をした。彼の気持ちはとてもうれしい。しかし、早急に結婚しようとは考えていない。彼に大学院で勉強を続けてもらい、時期を見て結婚できる環境が整えばそうしたい、ということでした。
三人でじっくりと話し合った結果、一人あせっていたタロウくんは彼女の言い分を聞き入れ、勉強を続けることになりました。結婚のことは、これからお互いの家族を交えて、折々に話し合っていくということで合意を得たのです。
仏さまはそばにいる
「ユミコさんは、何て言っているの?」
「本心は結婚を許せないようですけど、タロウを信じて認めようと自分に言い聞かせているみたいですよ」
「ユミコさんの気持ちは痛いほどよくわかるわ。ノブオ、ユミコさんにやさしくしてあげるのよ」
「はい。タロウのことがあって、ぼくも母さんや父さんに、どれだけ心配をかけてきたかということが身にしみましてね。それでいまさら何ですが、そのことをお詫びしたいと思ったんです」
「まあ」
「ぼくは父さんの反対を押し切り、家を出て家具職人になりましたからね。父さんに、大学まで出てなぜだと怒鳴られたときのことを、いまでもハッキリと覚えていますよ。それに、母さんたちに内緒で結婚までしてしまって……。ずっと申しわけなかったと思っていたんです。でも、それを言いだすきっかけがなくて」
ノブオさんが顔をあげると、ミチコさんは眼鏡をずらし、ハンカチで目を押さえていました。
「母さん。勝手なことばかりしてきて、すみませんでした。父さんには今朝、お墓の前で手を合わせてきました。でも、父さんと母さんが信仰を伝えてくれたから、冷静にタロウと彼女の話を聞くことができ、いま、ぼくたち家族と彼女がどうすればいいのかを、仏さまの教えに基づいて考えられたんだと思います。仏さまがタロウのことをとおして、自分を見つめなさいと説法してくださっていることがよくわかるんです。これほど仏さまの存在を肌で感じたことはなかったですからね」
「いままでも、仏さまはノブオのそばにずっといてくださり、お慈悲をかけてくださっていたのよ。ノブオが気がつかなかっただけ。家を出てからのことをふり返ってごらん。たくさんのお慈悲をいただいていることがわかるはずだよ」
「いままでもずっと、お慈悲をかけてくださっていた?」
「そうよ。親方、いや社長さんの家に住み込みで働かせてもらい、一人前に育ててもらったんじゃない。結婚をして、子どもが三人も授かって……」
「そうですね。親方は厳しい人だったけど、そのお陰でぼくも工房を持てるようになったんですからね。ユミコにもだいぶ苦労をかけたけど、子どもたちがいたから……」
「これまでのノブオには、辛いことや苦しいことがたくさんあったと思うけど、ふり返ってみると苦労がみんな自分の人間形成の肥やしになっているんじゃない?仏さまは、そのときどきに、どうしたらこの人がよりよく成長・向上できるだろうかと、さまざまな方便を用いて現象を見せてくれるの。ノブオはいま仏さまの存在を感じると言ったけれど、仏さまはいつでもノブオを導いてくださっていたのよ。あなたが仏さまの存在を心の目で観ようとしていなかったから、その存在に気づけないでいただけ」
「仏さまは、いつでも私たち一人ひとりに説法してくださっている……」
「そう。私たちが仏さまを観ようとすれば、仏さまも姿を観せてくださるの」
「きょう母さんに会ってよかった。これからは、常に仏さまと対話していくよ。母さん、ありがとう」
事例から学ぶ2
事例編では、各品に込められた教えを、私たちが日々の生活のなかで、どのように生かしていけばよいかを、具体的な事例をとおして考えていきます。
鈴木さん一家を紹介します。
おばあちゃん・ミチコさん(75)…佼成会の青年部活動も経験している信仰二代目会員
アキオさん(45)…一家の大黒柱。ミチコさんの末息子
アキオさんの妻・夕カエさん(38)…婦人部リーダー。行動派お母さん
長女・ケイコさん(16)…やさしい心の持ち主の高校一年生。吹奏楽部
長男・ヒロシくん(9)…元気いっぱいの小学三年生
中村さん親子の苦悩
その日の午後、タカエさんは道場に支部長さんを訪ねました。婦人部の中村レイコさんの一件を報告するためです。
「支部長さん、お昼前に中村さんと会ってきました。中村さんは一晩かけてじっくりと、これまでの自分をふり返り、母親としてのあり方を見つめ直すことができたと話してくれました。私はその話を聞いているうちに、とてもすばらしい気づきをされたなあと感動しました」
「まあ、それはよかった。これで娘さんとの関係も修復されていくわね」
タカエさんと支部長さんが話している中村さんの一件とは、おおよそ次のような出来事です。
夫が二年前から海外で単身赴任している中村さんは、大学三年生の長男と高校一年生の長女の三人暮らし。長女のミキさんは、全国にもその名が知られる有名・進学校に通っています。
そのミキさんが、きのうの夕方、大型書店でマンガ本を万引きしたのです。書店の店長から呼び出しを受けた中村さんはひどく動揺し、タカエさんに電話して、一緒について行ってもらいました。タカエさんが知っているミキさんは、どちらかといえば内気な性格でしたから、彼女が万引きをするなど、書店に着くまで信じられませんでした。
しかし、書店の事務室のいすに座っているミキさんの姿を見て、タカエさんは目を疑いました。まじめを絵に描いたような彼女が髪を染め、派手な化粧をしているではありませんか。ミキさんとは二か月ほど前に会ったきりですが、その変容ぶりに驚かされました。
店長に何度も頭を下げてミキさんを家に連れ帰った中村さんとタカエさんは、ミキさん自身から詳しい事情を聞こうとしましたが、本人は泣きじゃくるばかりで話をしてくれません。タカエさんは、声を荒らげて娘を詰問する中村さんをなだめ、ミキさんの部屋で二人だけで話しをすることにしました。
部屋に入るとミキさんは、これまでの母親との関係について話し始めました。ミキさんは、兄と同じ有名進学校に入学したものの、学校の授業についていけず、一学期の成績は学年のなかでも下位のほうでした。決してなまけているわけではなかったのですが、成績表を見た母親から厳しく叱られ、自信を失ってしまったのです。夏休みに入り、母親から毎日「あなたに遊んでいる時間などないはずよ。もっと勉強しなさい」と言われ続けたことで精神的に追い詰められ、さらには「こんな成績では、恥ずかしくて保護者会にも行けない。この学校で常にトップクラスだったお兄ちゃんの顔に泥を塗るつもりなの」と言われて、心に深い傷を負ったのでした。
ある日突然、ミキさんは髪を染め、細いまゆ毛姿で母親の前に立ちました。
以来、家族とは一切口をきかないようになったと言います。マンガ本を万引きしたのも、母親に対する反抗の表われだったのでしょう。
部屋から出てきたタカエさんは、ミキさんから聞いた話を、すべて中村さんに伝えました。
「そうだったの。私がガミガミ言ったのは、あの子に勉強する意欲がないからだと思っていたの」
「ミキちゃんも一生懸命にやっていたのよ。だけど、それが成績に結びつかなかったから、苦しんだと思うわ」
タカエさんと中村さんは、その晩遅くまで、ミキさんの気持ちや母親としてどのようにふれあっていけばよいかなどについて話し合いました。
仏さまのはたらき
「支部長さん。中村さんはミキちゃんの姿をとおして、仏さまが母親としてのあり方を教えてくださったと言うんです」
タカエさんと支部長さんは道場の法座席で、ご本尊さまを見上げるようにして座っています。
「中村さんは、優秀だったお兄ちゃんとミキちゃんを見比べて、お兄ちゃんがこれだけできたのに、どうしてミキちゃんにできないのかと、いつも責めていた自分の姿に気づいたそうです」
「きょうだいでも、一人ひとりは違う人格なのだから、その子の持っている個性を認めてあげることが大事なんだということに気がついたのね」
「はい。それから中村さんは、勉強のできる子どもを持っていることが自慢で、子ども自身を愛していたのではなく“よい成績”を愛していた愚かな母親だったと、涙を流されていました。母親としての絶対の愛情を子どもたちに注いでいなかった、ほんとうに申しわけなかったとも、おっしゃっていました」
「よかったわ。ミキちゃんのことをとおして、中村さんの心が開いたのね。『如来寿量品』に六或示現が示されているように、仏さまはさまざまな方便を用いて私たちを救おうとはたらいてくださっているの。避けて通りたいような出来事のなかにも、仏さまの慈悲がたくさんつまっている。中村さんも、ミキちゃんの一件をとおして、いままで見えなかった大事なものを、仏さまから教えてもらったのね」
「私たちは一つ一つの現象のなかから、仏さまの慈悲をしっかりとつかみとり、味わっていくことが大切なんですね」