『経典』に学ぶ
妙法蓮華経 観世音菩薩普門品第二十五
経文
衆生困厄を被って。無量の苦身を逼めんに。観音妙智の力。能く世間の苦を救う。神通力を具足し。広く智の方便を修して。十方の諸の国土に。刹として身を現ぜざることなし。種種の諸の悪趣。地獄・鬼・畜生。生・老・病・死の苦。以て漸く悉く滅せしむ。真観・清浄観。広大智慧観。悲観及び慈観あり。常に願い常に瞻仰すべし。無垢清浄の光あって。慧日諸の闇を破し。能く災の風火を伏して。普く明かに世間を照らす。悲体の戒雷震のごとく。慈意の妙大雲のごとく。甘露の法雨を澍ぎ。煩悩の燄を滅除す。諍訟して官処を経。軍陣の中に怖畏せんに。彼の観音の力を念ぜば。衆の怨悉く退散せん。妙音観世音。梵音海潮音。勝彼世間音あり。是の故に須らく常に念ずべし。念念に疑を生ずることなかれ。観世音浄聖は。苦悩・死厄に於て。能く為に依怙と作れり。一切の功徳を具して。慈眼をもって衆生を視る。福聚の海無量なり。是の故に頂礼すべし。
現代語訳
「人びとが困難に遭い、苦しみにさいなまれているとき、観世音菩薩のすぐれた智慧の力は人びとを救います。観世音菩薩は自由自在の力を具え、どのような場合にも、その人の救いにピタリと当てはまる智慧を身につけていますから、いかなる場所にも現われて救いの働きをされます。こうして人間を怒り(地獄)・貪り(餓鬼)・愚痴(畜生)といった悪道から救い、生・老・病・死の苦をしだいに取り除き、ついにはことごとく消滅させるのです。
観世音菩薩は真実を見きわめる眼(真観)、迷いのない清らかな眼(清浄観)、宇宙の万物を自分と一体と見る広大な眼(広大智慧観)、悩み苦しむすべての人を救ってあげたいというやさしい思いに満ちた眼(悲観)、すべての人を幸せにしてあげたいという慈しみをたたえた眼(慈観)を持っています。人びとは、常にそのような眼を持ちたいと願い、仰ぎ見て手本としなければなりません。
観世音菩薩の身からは、汚れなき清らかな光が放たれ、智慧は太陽のごとく、すべての迷いの闇を払い、もろもろの不幸を滅ぼして世の中全体を照らします。観世音菩薩の説かれる戒めは、人びとの苦しみを抜いてあげようという愛情に根ざしたものですから、その力は雷鳴のうち震うがごとく偉大です。また、人びとに幸せを与えずにはいられない心は、あたかも日照りに苦しむ国土を覆う大雲のようにありがたいものであって、甘露のように至上の味わいのある真理の教えの雨をあまねく降り注ぎ、煩悩の炎を消してくれます。
争いごとで役所の裁きを受けたり、それでも解決せずに力ずくの戦いとなって恐ろしい目に遭うようなときでも、観世音菩薩の力を念ずれば、もろもろの忌まわしいことは、たちまち消え失せてしまうでしょう。
観世音菩薩は、至上至妙の真理(妙音)を説き、世のあらゆる人間の願いを明らかに聞き分けて(観世音)くれます。教えを説く声は清らか(梵音)で、説かれる真理の言葉は海鳴りのように人びとの胸に響き入り(海潮音)、すべての迷いや苦しみを除いて(勝彼世間音)くれます。ですから、自分も観世音菩薩のようになりたいと常に思うことが肝心です。
ほんの一念にも疑ってはなりません。観世音菩薩は清らかな身であり、いろいろな苦しみや災難に遭ったときも、力強い寄る辺となります。一切の功徳を具えて、慈悲の眼で人びとを見てくれます。すべての川が海に集まるように、無量の福がその力によって呼び寄せられるのです。ですから観世音菩薩を礼拝し、その行ないに学んでいくことが大切なのです」
〈普門〉──この品の題にある普門の「普」とは、広くあまねく、どこにもかしこにもという意味です。「門」は、出入口の意味から転じて、家をさす言葉に用いられます。また、ものごとを分類する部門という意味もあります。したがって普門を直訳すると、「あまねくすべての家に」「人間が抱える問題のすべての部門に」という意味になります。わかりやすく言い換えれば、「この世のいたるところに、ありとあらゆる問題とあらゆる場面に、あらゆる場所に、自由自在に」ということになります。
意味と受け止め方
身近なお手本
如来神力品では、真理・法にそった歩みを続けるならば、理想は必ず実現するということを学びました。しかし、理想を実現化させるためには、長い時間を要する場合が多いものです。そのために、不断の努力を心がけていても、途中で不安を感じたり、挫折してしまうこともあります。
そこで釈尊は、さまざまな菩薩を登場させ、「この菩薩を手本として、菩薩の行ないをまねて歩んでいけば大丈夫だよ」と、私たちを励ましてくださいます。この品の表題にある観世音菩薩も、私たちが手本として学ぶべき菩薩です。
「観音さま」と、古来、日本人に親しまれ、各地であつい信仰を集めている観世音菩薩は、世間のあらゆる人びとの苦しんでいることや望んでいることをよく察し、その人に応じた教えを説いて苦しみから解き放ち、また望んでいる方向へ導いてくださる菩薩です。そして、人を救い、導くときには、その人にふさわしい相をとって現われます。あるときは知識人や役人であったり、学者や先生、出家・在家の修行者、またあるときは子どもであったりします。さらには人間以外の生き物など、相手がいちばん教えを受け入れやすい相に自由に身を変じて現われるのです。
こうした観世音菩薩の行ないに学び、手本とするということは、私たちもまた家庭や職場、地域などにおいて、相手が何に苦しみ、何を望んでいるのかをよく聞き分けて知り、どのようにふれあったら、私たちの声が相手の心に届くのかを見きわめたうえで救いの手をさしのべていくということです。その行動が、観世音菩薩の大慈悲心にほかなりません。
私たち自身が、観世音菩薩になるためには、まず私たちの身のまわりにも多くの観世音菩薩がいてくださることに気づくことが大切です。これまでに自分のまわりに起こった出来事などをふり返ってみてください。学校の先生、運動部でともに汗を流した仲間、職場や街なかで出会った人たち、佼成会のサンガなど、「あのとき、あの人のおかげで」という経験がだれにもあるはずです。
そして、現在でも私たちのまわりには、私たちの成長・向上を見守ってくれる人、後押しをしてくれる人が必ずいます。大きな慈悲に裏打ちされた苦言をもって、自分を省みる機縁を与えてくれる人がいます。じっとまわりを見わたしてみましょう。私たちのすぐそばに、自らの成長・向上には欠かせない人たちがたくさんいることがわかります。この人たちこそ、本仏から遣わされ、さまざまな相に変じて現われた観世音菩薩そのものなのです。
ここに気づけば、 “身近な観音さま”をお手本として、私たちもきょうから観世音菩薩の行に踏み出せるでしょう。
まず人さま
私たちは観世音菩薩の行にならい、自らが観世音菩薩になっていくことが大切です。そして、身のまわりにいろいろな困難や争いが生じたときは、観世音菩薩の精神を思い起こしましょう。摩擦や争いごとは、その大小にかかわらず、すべて「我の角突き合い」「不寛容な心」から起こります。自分の主義・主張、欲といったものを譲ることができなければ、人と衝突するのが当然です。また、自己中心から生じる執着心は、環境の変化を受け入れられず、苦悩を増大させるもとになります。
いけないこととはわかっていても、相手に譲れない、相手を許すことができないとき、そして、大きな苦しみや悲しみに直面し、底知れぬ孤独の闇に沈んでいるときは、「すべての人の苦しみを抜き去ってあげたい」という観世音菩薩の大いなる願いと、やさしい慈愛にあふれたお姿を思い起こしてください。必ず観世音菩薩と心が通じ合います。暗く冷たくなっていた心にぽっと明かりが灯り、あたたかく和やかになってきます。そうすると、己の自己中心の姿に気づくことができ、あるいは生きる力がわいてきて、自らの成長と他者への貢献にチャレンジする日々を再び歩みはじめることができるでしょう。
事例から学ぶ
事例編では、各品に込められた教えを、私たちが日々の生活のなかで、どのように生かしていけばよいかを、具体的な事例をとおして考えていきます。
鈴木さん一家を紹介します。
おばあちゃん・ミチコさん(75)…佼成会の青年部活動も経験している信仰二代目会員
アキオさん(45)…一家の大黒柱。ミチコさんの末息子
アキオさんの妻・夕カエさん(38)…婦人部リーダー。行動派お母さん
長女・ケイコさん(16)…やさしい心の持ち主の高校一年生。吹奏楽部
長男・ヒロシくん(9)…元気いっぱいの小学三年生
お客さま最優先
アキオさんが食品売り場の統括マネジャーをしている大型総合スーパーに、早朝、本社から担当事業本部長が視察に訪れ、開店前に全管理職を集めて定例のミーティングを開きました。
席上で本部長は、お客さまの満足度を百パーセントかなえられる商品の充実と売り場配置の研究、要望やクレームに迅速に対応できる柔軟性をくり返し述べたあと、最後に、パートを含めた売り場スタッフの教育の重要さを強調して本社に帰っていきました。
その日の昼、社員食堂でアキオさんは鮮魚売り場の田沼主任と並んでランチを食べていました。話題は今朝のミーティングの件です。
「鈴木さん、本部長はいつも同じ話しかしませんね。うちの店舗はお客さまアンケートの回収率が低いけれども、それなりにお客さまのニーズをキャッチして、販売に結びつけているんじゃないかと思っているんですけど」
「まあ、お客さま最優先の対応は、商売の鉄則だからね。でも、あのように毎回同じことをくり返し言われていると、本社からは、われわれの仕事が不十分に見ているのかなあと、そんな気にもなってくるよ」
「そうなんですよ。食品売り場はマネージャーを先頭に、私たち各セクションの主任たちが、駅向こうのライバル店に差をつけるべく、お客さまが集まる企画を一生懸命に考えて、いろんなフェアを開催しているんですから。向こうの店より企画力と集客力、そして販売実績においても勝っています。それなのに、これ以上何をしろって言うんでしょうねえ」
アキオさんはランチを食べる手を休めて、しばらく考え込むようなしぐさをしてから言いました。
「いままでは、ライバル店と競争することが、うちの店を存続させるエネルギーにもなっていたけど、もう、そういう時代は終わったんじゃないかな。あくまでも、お客さまにどれだけサービスできるか、代価以上の満足感を提供できるかが求められてくる。さらに言えば、地域社会、市民への奉仕という視点も持たなくてはいけないだろうね」
「ライバル店を蹴落とすことが、自分たちが生き残る方法ではないということですか。企業努力の目がお客さまに向いていなければ、何にもならないと」
「うん。それにはやはり、これまで以上にしっかりとしたお客さまの現状分析とニーズ把握が重要になってくるんだ。お客さまが望んでいることは、こちらが受け身でいてはわからない。声にならないお客さまの心の声を、いかに洞察していくか。そのことが、いままで以上に求められている時代なんだよ。田沼さん、観世音菩薩って知っているかい?」
「はい、いわゆる観音さまですよね」
「うん、田沼さんも知っているように、私は立正佼成会の会員で仏教を信仰しているんだけれども、以前、佼成会で観世音菩薩の名前について学んだことがあるんだ」
観世音とは
「観世音の観とは観察という言葉があるように、ものごとをはっきりと見分けること。世音とは、市井の人びとの声のことなんだ。声といっても、口から出てくる声ではなくて、むしろ心のなかで切実に望んでいることをいうんだよ。つまり観世音菩薩は、世間のあらゆる人の苦しみや望んでいることをよく察し、それに応じた教えを説いて、その苦しみから解き放ち、また望んでいる方向へ導いてくださるんだ。そして、人を導くときは、相手にふさわしい相をもって手を差しのべてくださるんだよ」
「ものすごい洞察力を持っているんですね。あやかりたいものです」
「母親と赤ん坊の関係で考えれば、わかりやすいかな。母親は経験を重ねると、赤ん坊が泣いていても、おむつがぬれているのか、おなかがすいているのか、だっこしてほしいのかわかるものだよね。それと同じように、私たちはお客さまの心を“観世音”して、お客さまに尽くさせていただく―他店の動きよりも、このことに集中して仕事に臨ませていただくことが、今最も求められていると思うんだ。こうしていましゃべっているうちに気がついたんだけれど、おそらく、今朝の本部長の話も、そのように受け取るべきなんじゃないかな」
「なるほど。本部長は毎回同じことを言っているようだけど、言葉に含まれている意味合いが違うということですね」
「私たちの意識が変わっていかないと、本部長の言葉の意図するところは理解できないのかもしれない」
その晩、帰宅したアキオさんは、妻のタカエさんに、きょうの出来事を話しました。
「そういう話が職場ででき、すぐ仕事に生かせるなんて、すばらしい環境ね」
「そうだね。ランチの最後に、田沼主任と私たちがスタッフ一人ひとりの能力や性格はもちろん、どんな望みを持ち、どんな不満や悩み持っているかをはっきりと洞察し、一人ひとりにふさわしい方法で対応できるようになっていこうと確認させてもらったんだ。それがスタッフ教育の第一歩だと感じたからね」
「仏さまの教えは、いつでもどこでも生かせるのね」