『経典』に学ぶ
開経偈
経文
無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇たてまつること難し。
我今見聞し受持することを得たり。願わくは如来の第一義を解せん。
現代語訳
「仏さまがお説きになられた、このうえもなく尊く、非常に奥深い、そして言い表わしようもないほどすぐれた教えは、きわめて長い年月がたっても、なかなかめぐり遇うことのできないものです。それほどありがたい教えに、いまめぐり遇い、信仰する身となりました。このうえは、心を込めて読誦し、仏さまのお説きになった根本の真義をしっかりとつかませていただきます」
意味と受け止め方
遇いがたき仏法
文字どおり開経偈は、お経を読誦させていただく前に唱える偈(詩)文ですが、この短い偈文をとおして、仏さまの尊い教えに遇うことができた幸せと、その聖典を読誦することのできる有り難さをかみしめさせていただきます。
前半では、仏さまの説かれた教え(真理・法)に遇うことの難しさが「百千万劫にも遭遇たてまつること難し」と記されています。「劫」は、きわめて長い時間を計る単位です。
釈尊は、その長さを、「たとえば、広さ四十里もある石の山があって、その頂を百年に一度ずつ柔らかい衣の袖で撫でることによって、石の山が少しずつ磨れてゆき、すっかり磨りきれてしまうまでの年数よりも、劫というのはもっと長い時間である」とお説きになられました。ですから「百千万劫」とは、はかりしれないほど長い時間を意味します。
人間に生まれた喜び
それほどまでに遇いがたい仏法ですが、私たちは人間に生まれてきたからこそ仏法にめぐり遇うことができるのです。
会長先生は、ご著書『心田を耕す』のなかで、「この世界には無数の生物が生きていて、一つの生命系としてつながっています。生命は無数にあって、それぞれに尊いものですが、私たちは人間として生を受けたからこそ、いのちに与えられた能力によって、真理・法の認識ができるのです」と述べられています。
また、私たちは両親のおかげさまで、いま・ここに存在しています。しかし、世界の人口が六十億を超えるなかで両親が出会うということは、非常に希有なことです。その両親もまた、先祖のそうした出会いのおかげさまで生を受けることができたのです。
さらにさかのぼれば、地球上に生命が誕生してから今日まで、すがた形は進化の過程で変化していますが、個々のいのちの受け継ぎは一度も途絶えることなく連綿と続いてきたからこそ、いま私たちはここにいることができるのです。
このことを思うと、いまいただいているこの“いのち”が、いかに有り難く、尊いものであるかがわかります。
不思議なめぐり遇わせで人間として生を受けることができ、さらに遇いがたき仏法に遇えたことをかみしめるとき、何ごとにも代えがたい身の幸せと感激を覚えます。すると自然に、「いいかげんな気持ちで法を聞いたり、経典を読むことはできない」という真摯な気持ちが胸にわき起こってきます。それが、後半にある「願わくは如来の第一義を解せん」の誓願につながっていくのです。
主体的に生きる
では、如来の第一義(仏さまの悟りの根本の真義)とは何でしょう。それは、「無常」の法です。
釈尊は、この世に存在するすべてのものが、お互いに生かし合い、関係し合いながら(諸法無我)、絶えず変化している(諸行無常)と悟られ、そのような宇宙全体のありようを、一つの大きな輝くいのちと観じられました。しかし、現実の人間を見てみると、本来はみな同じいのちにつながっているにもかかわらず、自分と他人を区別して、《自分さえよければいい》という自己中心の思いから生じる執着心(貪欲)にとらわれている姿がありました。そして、苦悩の原因が貪欲にあることに気づかないために、輝いているはずのいのちを、人間は自らくもらせているのです。
そこで釈尊は、「貪欲から解き放たせて、一人ひとりのいのちを輝かせてあげたい」という大慈悲から、その人その人にふさわしい方法で、法を説かれたのです。
では、どうすれば、いのちを輝かす生き方ができるのでしょう。それには、如来の第一義、すなわち「無常」の法をしっかりとつかみ、ものごとをありのままに見る智慧に目覚めて、主体的に生きることです。
私たちは、人からやさしくされれば、自分もやさしくなれます。しかし、相手がケンカ腰だと、自分もケンカ腰になってしまいます。このように、ふれあう縁(人や環境などの条件)によって、心が反射的に左右されてしまうことがよくあります。これでは、心はいつも不安定に揺れ動き、自らいのちを輝かすどころではありません。
ですから私たちは、ふれあうすべての縁を《仏さまが私を成長させよう、向上させてあげようとしてくださっているんだ》と受けとめていくことが大切なのです。そして、真理・法に基づいて、目の前に次々と現われてくる「悟りのための縁」に対して、積極的にかかわっていくことこそが、輝いて生きることにほかなりません。
人間として生まれ、遇いがたき仏法に遇うことができ、その教えを受持できる喜び。その感激から生まれる「仏法の奥義を必ずつかませていただきたい!」との力強い決意──その表白こそが開経偈なのです。
事例から学ぶ
事例編では、各品に込められた教えを、私たちが日々の生活のなかで、どのように生かしていけばよいかを、具体的な事例をとおして考えていきます。
鈴木さん一家を紹介します。
おばあちゃん・ミチコさん(75)…佼成会の青年部活動も経験している信仰二代目会員
アキオさん(45)…一家の大黒柱。ミチコさんの末息子
アキオさんの妻・夕カエさん(38)…婦人部リーダー。行動派お母さん
長女・ケイコさん(16)…やさしい心の持ち主の高校一年生。吹奏楽部
長男・ヒロシくん(9)…元気いっぱいの小学三年生
いのちの不思議
夕食後、小学三年生のヒロシくんはテレビに見入っていました。その番組は、アフリカのサバンナで、シマウマなどの草食動物の親子が懸命に生きる姿を追ったドキュメンタリーです。
台所で後片づけを終えた母親のタカエさんが、エプロンをはずしながらヒロシくんの隣に座って話しかけました。
「真剣に見てるわね。おもしろい?」
「うん、ぼく人間に生まれてほんとうによかったよ」
「どうして?」
「シマウマたちは、いつも肉食動物に注意しながら生きているんだ。ほら、このお母さんシマウマを見てよ。たったいま子どもがライオンに襲われて食べられてしまったんだよ。悲しそうな顔をしているでしょう。もし、ぼくがシマウマだったら、いつ死ぬかもしれないと、毎日ビクビクしながら生きなければならないんだ。そんなのはいやだよ」
「それじゃあ、ライオンだったらいいんじゃない?」
「それもいやだよ。ライオンだっていつも狩りに成功するわけじゃないんだ。ライオンの子どもも飢えて死んだり、ハイエナやほかのライオンに襲われて食べられたりして、大人になれるのは生まれた子どもの半分ぐらいなんだって」
「あら、ライオンも楽じゃないのね」
「そうだよ。だから人間に生まれてよかったと思ったんだ。でも、ぼくは何でほかの動物じゃなくて、人間に生まれてきたのかな?それに、どうしてお母さんの子どもに生まれてきたんだろう?」
「ほんとうに不思議ね。それは仏さまのはからいとしか言いようがないのよ。だから、こうして人間に生まれ、いまここに生きていることに、『ありがたい』と感謝していくことが大事なの。『ありがたい』という文字を漢字にすると『有ることが難しい』って書くのよ」
「ほんとうに『有り』『難い』んだね。いままで人間として生きていることが当たり前のような気がしていた、っていうか、そんなこと考えたこともなかったけど、人間に生まれることができて、超ラッキーだったんだ」
生まれがい
「そんな話がヒロシとできたのか。よかったじゃないか」
残業を終えて帰宅した夫のアキオさんが、風呂上がりのビールを飲みながら言いました。
「ほんとうに、いのちとは不思議だよ。ぼくらが自分の意思で生きているとは、絶対に言えないものな。ほら、法句経に『人の生を受くるは難く―』という有名な一節があるだろう。人間として生まれることはたいへん稀で、しかも、いま自分が生きていることは、ほんとうに希有な、ありがたいことである。まして、仏の教えを聞くことができるのは、それよりももっとむずかしく、ありがたいことである、という内容だよ。確かこの一節のことを会長先生は、ご著書『心田を耕す』のなかで、人間としていのちをいただいたことへの感謝と、仏と法に帰依すること、これが私たちの人生で最も大事なことである、と述べられていたような気がしたなあ……」
タカエさんは、アキオさんの空いたグラスにビールを注ぎながら言いました。
「先月の研修で、『人間として生まれたことはありがたいことだけれども、ただ生まれただけでは、まだほんとうの人間とはいえない。仏法に出遇うことによって、人間の真の目覚めが得られる。それが人間の第二の誕生なんだ』っていうことを学んだの」
「それが、会長先生の言われる『人生で最も大事なこと』なんだね」
「うん、それで私はもう信仰をいただいているから、第二の誕生ができていると思ったのよ。でも、よく自分を見つめてみると、毎日ほんとうに仏法にそった生き方ができているだろうか、まだまだ自己中心の強い人間じゃないかしらって、そう感じたの。だから、この第二の誕生ということは、じつはとてもむずかしいことなんだわと、そう思ったのよ」
「なるほど。タカエがそう感じたことは大事なことだと思うよ。だけど会長先生は、仏法の第一義は『無常』であるとお説きくださっているから、すべてのいのちが無常の真理のなかでお互いに生かされていることに気づくこと、それがすでに第二の誕生といえるんじゃないかな。何て言うのか、つまり自分をふり返ってみて、自己中心だったなあと思ったら内省をしていく、それが第二の誕生を自覚した人間であり、会長先生のご指導にある、『人間の生まれがい』を味わっていける人間だと思うよ」
「うん。言葉にすると固いけど、仏さまの教えにふれて、生かされて生きているすべてのいのちに合掌できる人間になっていくことなのかしらね」
開経偈は、人間として生まれ、遇いがたき仏法に出遇うことができた喜び、そして、教えを受持できる感激から生まれる「仏法の奥義を必ずつかませていただきたい」という力強い決意の表白です。
仏教徒であるなしにかかわらず、「人としてほんとうの生き方をしていきたい」という、すべての人間が本来持ち合わせている願いなのです。