『経典』に学ぶ
無量義経 十功徳品第三
経文
仏の言わく、善男子、第一に、是の経は能く菩薩の未だ発心せざる者をして菩提心を発さしめ、慈仁なき者には慈心を起さしめ、殺戮を好む者には大悲の心を起さしめ、嫉妬を生ずる者には随喜の心を起さしめ、愛著ある者には能捨の心を起さしめ、諸の慳貪の者には布施の心を起さしめ、憍慢多き者には持戒の心を起さしめ、瞋恚盛んなる者には忍辱の心を起さしめ、懈怠を生ずる者には精進の心を起さしめ、諸の散乱の者には禅定の心を起さしめ、愚癡多き者には智慧の心を起さしめ、未だ彼を度すること能わざる者には彼を度する心を起さしめ、十悪を行ずる者には十善の心を起さしめ、有為を楽う者には無為の心を志さしめ、退心ある者には不退の心を作さしめ、有漏を為す者には無漏の心を起さしめ、煩悩多き者には除滅の心を起さしむ。善男子、是れを是の経の第一の功徳不思議の力と名く。
現代語訳
「仏さまはこのようにお説きになりました。『この経には第一に、次のような功徳があります。まず、大乗の教えを学んでいても、まだ心底から仏の智慧を得たいという心(発心)を起こしていない者に、心底から仏の悟りを得たいという心(菩提心)を起こさせます。
また、人を幸せにしてあげようという気持ち(慈仁)のない者には、情け心(慈心)を起こさせます。人を苦しめたり、生き物を殺したりすること(殺戮)を好む者には、かわいそうだと思う心や、苦しんでいる人を助けてあげたいという心(大悲の心)を起こさせます。
自分よりすぐれた人や幸福そうに見える人に妬み心(嫉妬)を感じるくせのある者は、仏さまの前ではみな平等な人間であるということがわかり、その真理の発見に対する心からの喜び(随喜)が起こるために、人を妬む気持ちがなくなります。さらに、地位や財産、愛する人などに必要以上に執着(愛著)しているため、誤った行ないをしたり、自分の心を苦しめている者は、捨てるときにはいつでも捨てることができるという、とらわれのないのびのびとした気持ち(能捨の心)を持つようになります。
また、もの惜しみする心や、むやみに欲しがる心(慳貪)が強かった者は、人のために施そうという心(布施)がわいてきます。《自分は悟っている》《行ないにもまちがいはない》というおごり高ぶった心(憍慢)の多い者も、この教えを聞けば、自分の心や行ないのまちがいが見えてくるために、仏の教えられた戒めを守って修行しようという謙虚な心(持戒)になります。
自己中心の心から、すぐ腹をたてるくせのある(瞋恚)者は、どんなことが起きても怒りや恨みの心を起こさなくなります(忍辱)。怠けたり、つまらぬことに打ち込んでいる(懈怠)者も、自分の進むべき道を真剣に歩むようになります(精進)。
まわりの状況が変化するたびに心が乱れ、動揺する(散乱)者も、この教えを聞けば、変化している現象もその本質においては常に大調和しているという真実がわかってくるので、いつも静かで安定した心(禅定)になります。目の前のことしか見えず、あとさきの分別ができない(愚痴)者は、智慧の心が働くことで縁起の道理がよくわかり、心も頭も澄みきってきます。
ほかの人を救ってあげよう(彼を度する)という心をまだ起こしたことがない者でも、自分だけがこの世に生きているのではないということがわかるので、自分も他人も一緒に救われなければ、ほんとうの幸せはないという真実に目覚め、ほかの人を救おうという気持ちが自然とわいてきます。また、いろいろな悪い行ない(十悪)をする者には、それらの悪行をすべて払い去った清らかな境地に達しようという心(十善の心)を起こさせます。
現象面の幸福ばかりを追って右往左往している(有為を楽う)者は、現象世界の奥にある大いなるいのちに生かされているという事実に目覚め、自己中心ではない心(無為の心)が生じます。信仰心があともどりする(退心)傾向のある者は、一歩も退くことのない不動の信仰心(不退の心)が起きてきます。
煩悩のおもむくままにものごとを行なう(有漏を為す)者は、真理にそってものごとを行なう心(無漏の心)が起こります。さらに、煩悩が多く、自ら心を苦しめている者には、真理を見つめることによって、煩悩をなくしてしまおうという心(除滅の心)を起こさせます。これがこの経の第一の功徳の力なのです』」
意味と受け止め方
大いなるいのち
無量義経は、釈尊が妙法蓮華経(法華経)をお説きになる直前に説法された教えです。法華経も無量義経から入ってこそ、ほんとうによく理解できることから、法華経の開経と呼ばれています。
無量義経は徳行品第一、説法品第二、十功徳品第三の三品で構成されています。
徳行品は、釈尊の完全円満な「徳」と衆生を救いきる「行」のすばらしさを讃歎した品です。説法品は、釈尊が実相ということをお説きになった、無量義経の理論的中心となる品です。十功徳品は、説法品で説かれた教えをほんとうに理解し、実践した人が受ける功徳を十に分けて説かれます。『経典』に抜粋されているのは第一の功徳の部分ですが、第一の功徳だけでも、これほどたくさんあるのです。
説法品で説かれた教えとは、
「人間の目には見えない、ただ一つの真実の世界(実相)によって、この世に起こるさまざまな現象は生み出されている。同様に、すべての教えも実相というただ一つの真理・法から生み出されているのである。したがって、この世のあらゆるものごとのありようは、一切が平等で、しかも大きな調和を保っている。ところが、そのことを知らない多くの人は、現象に心をまどわされて苦しんでいる。そうした人びとを、大慈悲の心をもって救ってあげなさい」
ということです。
その実相とは、いままで学んできた「宇宙の大いなるいのち」のことです。すべての存在は、その大いなるいのちの顕われであり、お互いに関係し合いながら変化し、変化しながら関係し合って宇宙全体の大調和を保っているのです。それが真実の姿です。
この大いなるいのちを本仏といいます。本仏は、すべてを生かす根源的ないのちであり、いつ、いかなるときでも私たちを見守り、私たちがよりよく成長できるよう、さまざまな縁をとおして後押ししてくださっているのです。本仏のみ心は、いわば子を一心に思う親の心そのものです。私たちは、この真実をしっかりと心に刻み込まなければなりません。
そのためには、朝夕のご供養をはじめとする菩薩行をとおして、日々、本仏と心を通い合わせることが大事です。本仏の絶対なる愛情を実感することができたとき、ほんとうの大安心が得られ、現代語訳にあるような、さまざまな善き心がふつふつとわき起こってきます。
これは、倫理・道徳とは根本的に異なります。自らのいのちの大本に目覚めることで、おのずから得られるすがすがしい心境です。これこそが、正しい信仰のもたらす大功徳なのです。
大安心を得るために
私たち一人ひとりを含むすべてのものは本仏のいのちの顕われですから、表面的には違い(差別)があるように見えても、その本質においてはみな平等です。ところが、この真実に気づかないために、この世の現実のいろいろな現象にとらわれてしまい、苦しみや悩みを次から次へと絶え間なく感じてしまうのです。
しかし、苦悩のまっただ中にいる人であっても、私たちのいのちの大本である本仏と心を通い合わせ、本仏の絶対なる愛情(大慈悲心)を実感することができると、それまで苦の種と感じられていた現象が、じつは自らが成長するための大きなチャンスであることに気づけるのです。
身のまわりに起きるすべての現象を、このように受けとめられるようになることこそが、大安心の確立にほかなりません。では、どのようにしたら本仏と心を通い合わせることができるかということを、この品の第一の功徳に説かれている四無量心と六波羅蜜の教えをとおして学びましょう。十功徳品には、無量義を理解し、実践すると、次のような善き心(功徳)が自然に心にわいてくると示されています。
はじめに「菩提心」を起こさせるとあります。菩提心、すなわち仏の悟り、仏の智慧を得たいと願う心は仏道修行の出発点です。ですから、最初に挙げられているのです。
そして、「慈心」「大悲の心」「随喜の心」「能捨の心」を起こさせると続きます。この「慈・悲・喜・捨」の四つの心が、仏さまのみ心そのものを表わした四無量心です。「慈」とは、人を幸せにしてあげたいと思う心です。「悲」とは、苦しんでいる人の苦を取り除いてあげたいと思う心です。「喜」は、人の喜びをともに喜ぶ気持ちです。「捨」は、人に施した恩も、人から受けた害も忘れ、一切の報いを捨て去る心です。
しかし、四無量心は、仏さまだけが持っている心ではありません。私たち一人ひとりにも、その心は宿っているのです。なぜならば、私たちは大いなる一つのいのち(本仏)の顕われ=仏性=であり、本仏と一つのいのちにつながっているからです。
私たちが「慈・悲・喜・捨」の心で人さまとふれあっていくと、心の奥底に眠っていたいのちの真実が本仏と感応し、いきいきと輝きはじめます。そのとき味わう、えもいわれぬ心地よさが本仏との一体感です。
次に示されているのが、「布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧」の六波羅蜜です。六波羅蜜は、人さまを救いつつ仏の境地をめざす菩薩の行です。
「布施」には、金銭や物を施す財施、仏法や一般知識を正しく伝える法施、自分の身を使って人さまの役に立つ行ないをする身施があります。このように書くと難しいことのように感じられますが、ご宝前に一輪の花を捧げる、人に自分の知っていることを教えてあげる、相手を思いやる言葉を用いる、笑顔を見せることなども、真心のこもった立派な布施なのです。
「持戒」は、仏さまの戒めを守って、人のために役立つ人となるよう努めることです。人の役に立つ行ないをすること(利他)によって、その分だけ自分が成長・向上し(自利)、成長・向上することによってさらに人の役に立つ行ないができるようになります。このように、自利・利他の行は無限に循環していくものであり、そのために「持戒」は欠かせません。
「忍辱」とは、常に他に対して寛容であり、褒められても有頂天にならない平常心を持つことです。また、人に対してだけではなく、天地のあらゆるものに対して不平・不満を持たない心をいいます。
道元禅師は「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」と歌を詠みました。春には春のよさがあり、夏には夏、秋には秋、冬には冬のよさがあるというのです。この歌から教えられることは、天地一切のものはすべて様相が異なっているけれども、それぞれが絶対の価値ある存在であるということです。私たちは雨はいやだ、真夏の太陽は嫌いだなどと不平・不満を言ったりします。しかし、それは人間の一方的な価値観にほかなりません。「忍辱」とは、こうした一切の周囲の変化に心がとらわれないこともいうのです。
「精進」は、自分がめざす目的や目標に向かって、一途にくり返し努力し続けることです。「精」という字は、混じりけのない、純粋なという意味ですから、まずは目的を正しく持たなくてはなりません。
目的をハッキリとさせたら、次は他の余計なことに心を奪われることなく、ただひと筋に進んでいくことが大事です。一生懸命に努力していても、すぐに満足な結果が現われるとは限りません。壁に突き当たったり、妨害を受けることも往々にしてあります。しかし、そうした逆境こそ、自分を成長・向上させるチャンスなのです。ですから、こうと決めたからには、目的をしっかりと見つめて前進することが大切です。しかし、めざす目的や目標が達成されたらそれで努力しなくなるというのでは「精進」とはいえません。人生の本来の目的というのは、一切の変化や欲に心奪われず真理にそってひたすら歩むことであり、「精進」とはつまるところ、それをいのちある限り前進させていくことなのです。
「禅定」は、どんなことが起こっても、迷ったり動揺することなく、常に真理に心が定まっていることです。ただやみくもに突き進むのではなく、ときには心を落ちつけて周囲をじっくりと見、考えることも必要です。すると、狭くなりがちな視野を広げることができます。静かな池の表面には、月がスッキリと映し出されるように、心が静かであれば、ものごとのほんとうの姿が見えるものです。
そのほんとうの姿を見通す力が「智慧」です。諸法の実相、すなわち宇宙のありのままの相を見きわめ、実生活のなかで起きるさまざまな出来事に対して、自己中心の思いより生じる執着心(貪欲)からではなく、真理・法にそって対応できる力です。
この「智慧」を得るために、「布施」にはじまる六波羅蜜をくり返し行じるのです。「布施」は、自分さえよければいいという貪欲を取り除く行でもあります。貪欲を取り除いた分だけ「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」の行も深まっていきます。そういう意味では、「布施」こそ仏の智慧を得るための基本行であり、中心行であるといえるでしょう。
四無量心と六波羅蜜の実践をとおして、本仏と感応するときの心地よさは、次なる善行へと私たちを駆り立てずにはおきません。お互いに貪欲を取り除き、人さまのために精いっぱい心と体を使いながら、日々新鮮な喜びを味わっていきたいものです。
事例から学ぶ
事例編では、各品に込められた教えを、私たちが日々の生活のなかで、どのように生かしていけばよいかを、具体的な事例をとおして考えていきます。
鈴木さん一家を紹介します。
おばあちゃん・ミチコさん(75)…佼成会の青年部活動も経験している信仰二代目会員
アキオさん(45)…一家の大黒柱。ミチコさんの末息子
アキオさんの妻・夕カエさん(38)…婦人部リーダー。行動派お母さん
長女・ケイコさん(16)…やさしい心の持ち主の高校一年生。吹奏楽部
長男・ヒロシくん(9)…元気いっぱいの小学三年生
佼成会とは?
高校一年生の長女・ケイコさんが、吹奏楽部の部活を終えて帰宅したのは夜の七時半。しかし、きょうも母親のタカエさんは家を空けていました。玄関脇にきちんとそろえてある母親の赤い部屋履きのスリッパが、それを物語っています。靴を脱ぐとケイコさんは、深いため息をつきました。
これで四日連続です。ときには母親をうとましく思うこともあるケイコさんですが、やはり帰宅したときは、母親からやさしい声で「おかえりなさい」と迎えてもらいたいのです。わずか四日とはいえ、「早く手を洗ってらっしゃい。すぐにご飯にしてあげるからね」という、母親のいつもの決まりきったあのひとことが、とても懐かしく思えました。
自分の部屋に入る気にもなれず、制服姿のまま台所に行き、カバンを冷蔵庫の横に置きました。
「おばあちゃん、ただいま」
「おかえり。先にヒロシくんと夕飯をすませてしまったよ。いま準備しようね」
「ううん、自分でできるから大丈夫よ。それより、きょうもお母さん出かけているんだ」
「五時ごろ支部の婦人部員さんから電話がかかってきてね、何だかとても困っているらしいのよ。それでお母さんは大あわてで夕飯の支度をしてから、支部長さんと一緒に、その人の家に向かったの」
「ふーん。火曜の夜はヒロシのサッカークラブの保護者会だったけれど、おとといは佼成会の支部会議、きのうの晩は法華経の勉強会、そしてきょうは会員さんのためにと……。毎日よく佼成会のことばっかり考えていられるよね」
「お母さんもがんばっているのよ。だから応援してあげましょうよ」
ヒロシくんは、居間でミカンをほおばりながらテレビに夢中です。ケイコさんは、夕食のおかずを電子レンジで温めなおしてから、お茶をいれているおばあちゃんの背中に向かって言いました。
「ねえ、おばあちゃん。前から聞こうと思っていたんだけど、佼成会ってどういう宗教なの?」
「そうねえ。わかりやすく言うと、親孝行と先祖供養、そして人さまに喜んでもらえる行ないをしましょうという会かしらね」
「それなら前にも聞いたことがある。でも親や先祖を敬い、人の役に立つことをするっていうのは道徳と同じみたい」
よき心を育てる
「うん。道徳と仏さまの教えは、まったく違うものではないのよ。だけど、大きく違う点があってね。それは、仏教は人間の心を、その奥底からよきものにしていくというところにあるの。よい心を育てていくって言ってもいいかしら」
「よい心を育てる?」
「そうよ。仏さまはね、いつも慈・悲・喜・捨の四つの心で私たちを導いてくださっているの。慈というのは『人を幸せにしてあげたいと思う心』のことで、悲とは『人の苦しみを取り除いてあげたいと思う心』のことをいうのね。喜は『人の喜びを一緒に喜んであげる心』のことで、捨は『どんなことに出合ってもありのままに受けとめて、怒ったり驚いたり過剰に反応しない安らかな心』のことをいうの。たとえば、人に何かをしてあげたことに見返りを求める気持ちや、人から受けたいやなことを一切捨ててしまう心のことね。この仏さまの四つの心を、私たちも身につけていこうというのが、佼成会の修行の大切なポイントの一つだと、おばあちゃんは思うのよ」
「佼成会では、その四つの心を育てていくの?」
「そうよ。この心を『四無量心』っていうの。動物には生存競争に勝って生き抜いていくために、本能というものがあるけど、四無量心は本能とは正反対の心といえるかしらね。本能は、無意識のうちに出てくるものだけど、四無量心は、だれもがスッと表に出せる心じゃないの。だから大きく育てていかなければならないのね。そのために修行という努力が必要になってくるのよ」
「ふーん。でも何で四無量心を身につけることがそんなに大事なの?」
「人間はどうしても、まず自分が幸せになりたいと思うものなの。自分より不幸な人がいれば同情もするけど、自分よりいい生活をしている人が失敗すると『それみたことか』なんて思ったりするし、人にうれしい出来事が起きれば嫉妬したり、人に親切にしたら感謝してもらいたいと思うものなのよ。これらの気持ちはみんな、ふだんは心の奥底にしまわれている本能から出てくるものなの。でも、いつもこんな気持ちでいるなんて、ちょっと悲しいでしょう?四無量心のほうが気持ちいいし、楽しく生きられるんじゃないかしら?だからお母さんも、四無量心を大きく育てて身につけ、家族みんなで、そして世界の人たちみんなで幸せに生きていくために、こうしてがんばっているのよ」
「そうなんだ。私、自分のことばかり考えていたから、寂しくなって……」
「いいのよ。ケイコちゃんが寂しくなったその気持ちを、お母さんに正直に伝えてごらん。きっと喜ぶわよ」
「うん、ありがとう、おばあちゃん。私、お母さんを応援してあげる」