『経典』に学ぶ
妙法蓮華経 譬諭品第三
経文
今此の三界は。皆是れ我が有なり。其の中の衆生は。悉く是れ吾が子なり。
而も今此の処は。諸の患難多し。唯我一人のみ。能く救護を為す。
現代語訳
「この宇宙は私のものです。その中にいる衆生は、すべて私の子です。しかも、この世界には、いろいろな苦しみが満ちています。それを救うものは、私だけしかいないのです」
〈我が有なり〉──ここでいう「私」とは、釈尊お一人のことだけをさしているのではありません。真理・法を意味する「仏」のことであり、「真理を悟ったもの」という意味です。
意味と受け止め方
みんな仏の子
釈尊は、方便品のなかで「もろもろの仏がさまざまな方法(方便)をもって教えを説かれるのは、衆生に諸法実相を悟る仏の智慧を得させたいためです。仏は、すべての人を平等に仏の境地へ導くという、ただ一つの目的のために法を説くのです」と説かれました。
つまり、仏さまは「すべての人が、自分の本質が仏性であることを自覚し、自分と他人を分けて自己中心に考える『我』の心を取り除きながら、いのちの大本である『一つの大きな輝くいのち(本仏)』と常に一体感を味わえる境地(成仏)に達してほしい」と願われているのです。
この説法を聞いた舎利弗は、いままで仏さまという存在は、自分たちとは遠く離れた特別な存在だと思ってきたけれども、自分たちも努力しだいで仏になれることがわかり、大感激します。
譬諭品は、「すべての存在は仏性であり、みんな仏のいのちの働きなんだ」と歓喜した舎利弗が、釈尊にお礼を申し上げるとともに、いままでの自分のいたらなさを懺悔する場面から始まります。
釈尊は舎利弗の懺悔をたいへん喜ばれ、「あなたがその気持ちを保ち続け、正しい行ないを続けていくならば、必ず仏の境地に達することができますよ」と成仏の保証(授記)を与えられます。
授記をいただいた舎利弗は、飛び上がらんばかりに喜びますが、釈尊に「いままで己の心の煩悩を消し去ることが修行の目的だと思い込んできましたが、それだけではなく、衆生のためにつくそうという菩薩の心を起こし、その行ないをずっと続けることで、最高の悟りに達せられることがわかりました。また、仏さまと私たちの関係も“親子”であるとわからせていただきました。しかし、多くの修行者たちは、まだそのことがハッキリと理解できずにいます。どうか、この人たちにもわかるようにお説きください」と申し上げます。
そこで釈尊は、「三車火宅の譬え」をお説きになられます。譬えのおおよその内容は次のとおりです。
ある国のある町に、長者がいました。屋敷は広大なものでしたが、ひどく荒れ果てていました。
その家が突然、火事になりました。家の中には子どもたちが大勢います。そのことに気づいた長者は驚いて引き返し、中にいる子どもたちに向かって、「このままでは焼け死んでしまうよ。早く外に出てきなさい」と叫びました。
ところが、子どもたちは遊びに夢中で、燃え盛る火に気づきません。思案にあまった長者はふと、子どもたちがいつも車(乗り物)をほしがっていたことを思い出しました。そこで長者は、「ここに、お前たちがほしがっていた羊の引く車や、鹿の引く車や、牛の引く車があるぞ。好きなものをあげるから、早く出てきなさい」と呼びかけました。
長者の声を聞いた子どもたちは、それいけとばかりに、次々と自ら外に出てきました。無事に助かったことを見届けた長者は、子どもたちがほしがっていた車ではなく、白い大きな牛の引く、しかもたくさんの宝物に飾られた立派な車(大白牛車)を、みんなに等しく与えたのです。子どもたちは、思いがけないすばらしい車を与えられて、大いに喜びました。
この譬えにある長者とは、仏さまのことです。子どもたちは私たち衆生をさし、荒れ果てた家は苦しみに満ちた現実の人間社会、火事は私たちの煩悩を意味しています。また、子どもたちがそれぞれにほしがっていた羊の引く車は声聞乗、鹿の引く車は縁覚乗、牛の引く車は菩薩乗のことです。すなわち、人間にはさまざまなタイプがあり、修行の道をたどるにも、自分に合った方法(声聞乗、縁覚乗、菩薩乗)を選べばいいのです。しかし、その道のずっと先は一つにつながっています。それが仏になる道(一仏乗)です。
いままで、自分が歩いている道が最高の境地へとつながっているとは、だれも知りませんでした。言うなれば、自分の好みによる羊、鹿、牛の引く車をもらえれば、それで最高だと思っていたのです。ところが、子どもたちは思いがけず、大白牛車(仏になる道)を、みんな等しく与えられて大歓喜します。この道が、仏の境地を得るための道につながっていたことがわかったからです。
つまり、「三車火宅の譬え」は、どのような境遇にある人でも、目の前に現われてくる苦しみや悩みを仏さまの教えにそって一つ一つ乗り越えていけば、やがて必ず最高の悟りを得ることができることを教えてくださっているのです。
宇宙はわがもの
『経典』に抜粋されている譬諭品の経文は、釈尊が「三車火宅の譬え」に続いて語られた部分です。譬えのすぐあとには、このように記されています。
「舎利弗よ、私もこの長者と同じ立場にいるのです。一切の衆生は、みんなかわいいわが子です。その子どもたちは、世間の楽しみに執着しているために、ものごとのほんとうのすがたを悟る智慧に欠けています。この世界は、ちょうど火のついた家のようなもので、いろいろな苦しみに満ちて、恐ろしいかぎりです」
このあとに、「この宇宙は私のものである──」と経文が続きます。経文にある「私」とは「真理を悟ったもの」という意味ですから、この一節は、「真理を悟ったものにとっては、全宇宙がその人のものだ」ということです。
宇宙の真理を悟り、本仏と一体になることができれば、まったくこの世は「わがもの」です。しかし、この言葉は「宇宙は自分のものだ」という所有権を主張するものではありません。反対に、自分が宇宙に溶け込んでしまったと感じることなのです。
宇宙に溶け込んでしまうと感じることは、無我になることです。小さな我を捨てると、宇宙のすべてに生かされている自分を発見できます。すると、自分という存在が、みるみる宇宙全体に広がっていきます。無我こそ「宇宙はわがもの」に通じる、ただ一つの道なのです。
宇宙がわがものであれば、その中に住む衆生は、すべてわが子であり、兄弟・姉妹であり、仲間です。すると自然と、人びとのために親身になってつくさずにはいられなくなります。これがほんとうの慈悲心なのです。
釈尊には遠く及ばないにしても、静かに目をつぶり、心を澄まして「宇宙はわがもの」と念じただけでも、何とも言えない広々とした心持ちになってきます。このように、日常のなかのふとした折々に、宇宙との一体感(大調和)を味わっていくことも、心を成長させるための大切な行の一つなのです。
四つの悟り
「宇宙はわがもの」という境地は、宇宙を貫く真理・法を自分のものとして、本仏と一体感を味わっていくことでもあります。
そして、真理・法をつかむということは、我の心を取り除くことです。我とは、水をにごらせる塵にたとえられます。にごりのもとである塵をすっかり取り除いてやると、水は清く澄んできます。つまり、我を捨てることによって、心が澄みわたり、ものごとのほんとうのすがた(相)を見通す力(智慧)を得ることができるのです。これが本質的な救われということです。
我を捨てきれないと、苦しみや悩みの世界から抜け出すことはできません。そこで釈尊は、譬諭品のなか(『経典』に抜粋されている部分の少しあと)で、苦しみの世界にいる人びとを救うために四諦の教えを説くのだと語られます。
四諦とは、「苦諦・集諦・滅諦・道諦」の四つの悟りです。
第一の悟りである「苦諦」とは、仏の教えを聞かない人びとにとっては、この世のすべてが苦しみであるということです。人生は精神的、肉体的、その他いろいろな苦しみに満ちています。その人生苦から逃げ隠れしないで、苦の実体を直視し、見きわめることが苦諦です。
たとえば注射を打つとき、幼い子どもは注射器を見ただけで、泣いたり、逃れようと抵抗します。ところが大人は、注射は必要なものであり、痛いのも一瞬だということがわかっているために平気でいられます。同じ痛みを感じることに変わりはないのですが、腹を据えて苦を直視すれば、たいていの苦は苦でなくなってしまうのです。
第二の悟りである「集諦」とは、さまざまに起きてくる人生苦が、なぜ起きたのかという原因を探究し、反省し、それをハッキリと悟ることです。
苦しみのさなかにいるときは、その原因がどこにあるのかを冷静に見きわめることが大事です。どのような因が、どのような縁と出会って、どのような果と報を生んだのかということを、報からさかのぼって見つめていくと、相・性・体・力・作を具えた因が、いかにあったかに気づくことができます。それが集諦の悟りです。
第三の悟りである「滅諦」は、さまざまな苦悩を消滅した安らぎの境地です。一時的な安らぎではなく、どんなことが起きてもグラつくことのない、ほんとうの安らぎは、釈尊が悟られた諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の三法印を悟ることができて、はじめて得られるものです。
ところが、この三法印、すなわち三大真理を悟ることは容易ではありません。日々の生活のなかで、教えに照らし合わせた行ないに励むことが大切です。
すなわち、後で述べる八正道と、先に学んだ六波羅蜜に精進することによって、自己中心だった自分のものの見方や考え方、人とのふれあい方を変えていく努力をすることです。これが第四の悟りである「道諦」です。
四諦を要約すると、人生は苦の世界であることを直視し(苦諦)、苦のほんとうの原因をつかみ(集諦)、日々の修行によって自己中心のものの見方や考え方を変えていくことで(道諦)、あらゆる苦悩は必ず解決できる(滅諦)という教えなのです。
苦の根本原因は貪欲にある
人生苦には必ず原因があります。釈尊は、この品のなかで「諸苦の所因は、貪欲これ本なり」として、苦の根本原因は貪欲であると説かれています。
貪欲とは、ものごとに「必要以上に執着する心」です。この執着が自己に向かうと、人は我の強い心になります。そして、我をつぶされると「自尊心を傷つけられた」などと思って腹を立てます。執着が外に向かうと、他人に「こうしてほしい」「こうでなければならない」「こうあるべきだ」などと要求する心が強くなり、求めるものが得られないとまた腹を立てるのです。
このようにして貪欲から瞋恚(怒りの心)が生まれ、その怒りによってものごとをありのままに見る智慧が覆い隠されてしまい、身(行ない)、口(言葉)、意(心)に愚かな行為をくり返し(愚痴)、結果的に悩み、苦しみが尽きなくなるのです。
まさしく貪欲こそ、すべての苦を生み出すもとです。人間は、この貪欲が苦の原因だと気づかないために、欲望に執着して苦から離れられないでいるのです。ですから、自己中心の生き方をほんとうにあらためること(道諦)ができれば、苦は消滅(滅諦)してしまうのです。
式典などで発表される体験説法は、四諦の教えをこのように実践しましたという実例集です。あることで苦しみ悩んでいた人が、苦から逃れたいために教えの縁にふれ、サンガとともに歩むなかで苦の根本原因に気づき、自分のこれまでの生活をあらため、教えに照らし合わせた人生を歩むようになる。いま、毎日がいきいきとしている──。
体験説法を聞かせていただくと、苦は一見マイナスのように見えますが、苦があったおかげで仏法の縁にふれ、教えを学び、教えにそった人生を歩めるようになったことがわかります。ですから、苦はマイナス要因ではなく、私たちがよりよく成長していくためのプラス要因であるといえるのです。
生活を正す八つの道
滅諦の悟りは、私たちが日常の生活のなかで直面する、さまざまな苦しみや悩みを根本的に解決し、どんなことが起きてもグラつくことのない、ほんとうの安らぎ(絶対安穏)の境地です。この絶対安穏の境地に至るために、日々の生活のなかで教えに照らし合わせた行ないに励むことが道諦でした。その具体的な方法を示した教えの一つが八正道です。
この品の後半(『経典』に抜粋されている部分の少しあと)で釈尊は、「滅諦の為の故に、道を修行す」と説かれます。この「道」とは、八正道をさしています。
八正道は、「正見・正思・正語・正行・正命・正精進・正念・正定」の八つの正しい道であり、正しい生活の実践行です。「正しい」とは、真理に合ったという意味で、ものごとを自分本位に、また固定観念によって見たり考えたりしないことです。
「正見」は、自分中心のものの見方を捨てて、正しく公平にものごとを見ることです。
「正思」は、むさぼる心(貪欲)や怒りの心(瞋恚)、我を押し通す心(邪心)を捨て、すべてを正しく、仏のような大きな心で考えることです。
「正語」とは、うそ(妄語)、二枚舌(両舌)、わるぐち(悪口)、でまかせな言葉(綺語)のない正しいものの言い方をすることであり、相手の思いに立った言葉をかけることです。
「正行」は、意味なく動植物の生命を絶つ(殺生)、盗みを働く(偸盗)、道ならぬ男女の過ち(邪淫)のない正しい行ないをすることです。
「正命」は、人のために役立つ正しい仕事で得た収入で、生活必需品を求めることです。
「正精進」とは、自分がめざす正しい目的や目標に対して、一途に努力し続けることです。
「正念」は、常に正しい心を持ち、正しい方向に心を向け続けることです。つまり、感謝の心、仏さまに生かされていることを心に思いめぐらし、そのことを毎日の習慣にすることです。
それにより、心は周囲の変化によってグラグラ動かされないようになります。これが「正定」です。
人生には、人間関係や経済的なことなど、さまざまな苦悩が次々と起きてきます。
しかし、いま自分が置かれている環境がどのようなものであっても、八正道に示されているように心の持ち方を変えて生活を正すと、貪欲が薄れていくため、日々の心の持ち方や行ないが自然と真理にそい、意識しなくても周囲と調和した生き方ができるようになります。すると、おのずと人生が楽しく、いきいきと送れるようになります。この周囲と調和した生き方こそ、宇宙に溶け込んでしまった(宇宙はわがもの)という境地に至る道なのです。
事例から学ぶ
事例編では、各品に込められた教えを、私たちが日々の生活のなかで、どのように生かしていけばよいかを、具体的な事例をとおして考えていきます。
鈴木さん一家を紹介します。
おばあちゃん・ミチコさん(75)…佼成会の青年部活動も経験している信仰二代目会員
アキオさん(45)…一家の大黒柱。ミチコさんの末息子
アキオさんの妻・夕カエさん(38)…婦人部リーダー。行動派お母さん
長女・ケイコさん(16)…やさしい心の持ち主の高校一年生。吹奏楽部
長男・ヒロシくん(9)…元気いっぱいの小学三年生
ひとつのいのち
小学三年生のヒロシくんが学校から帰ってくるなり、居間で洗濯物をたたんでいる母親のタカエさんに言いました。
「お母さん。きょうね、学校でユニセフについて勉強したんだ」
「あら、よかったわね」
「ぼく、ユニセフのことは前に佼成会の少年部で教えてもらっていたから、たくさん発言したよ。駅前で募金箱を持って『ユニセフ募金へのご協力をお願いしまーす』って大きな声でお願いしたことも話したんだ」
「去年の五月の青年の日に、少年部のみんなで駅前やスーパーの前に立って、行き交う人たちにユニセフ街頭募金への協力を呼びかけたんだったわね」
「最初は声を出すのが恥ずかしかったけど、たくさんの人が募金箱にお金を入れてくれるから、うれしかったなあ」
「集められたお金は、世界の子どもたちの健康と教育のために役に立つのよ」
「でも、きょう思ったんだけど、なぜ佼成会はユニセフに協力するの?」
「世界には、戦争や地震などの災害で家を失ったり、寒さをしのぐ服や毛布を持っていなかったり、食べ物がなくてひもじい思いをしている人たちがたくさんいるでしょう」
「アフリカの難民キャンプの様子を映したビデオを、教会で見たことがある。ものすごくやせた子どもたちが、たくさんいたよ」
「もし、ヒロシが難民生活をしなくてはならない状況になったら、どんな気持ちになるかしら?」
「うーん……悲しくなるなあ」
「そうよね。そんな辛く悲しい思いをしているときに、だれかが援助をしてくれたら、うれしいと思わない?」
「うん、すごくうれしい。希望がわいてくる感じかな」
「だから佼成会は、『世界のみんなが幸せに暮らせますように』という願いのもと、日本国内はもちろん、世界の人びとの役に立つ行動を起こしているの。でも、佼成会だけでは、できることに限りがあるから、世界各地でさまざまな援助活動をしているユニセフを応援しているのよ」
「わかった!いいことをするのに佼成会とかユニセフとか、そんなことにとらわれることはないんだね」
「そのとおり。ヒロシは『同悲同苦』という言葉を知っている?」
「うん。少年部で教えてもらったよ。困っている人の気持ちになって、その人の役に立つ行ないをすることでしょう」
「そう。仏さまが『すべての人はみんな私の子どもだ』とお説きくださっているように、世界の人びとは、みんなきょうだい・親戚なのよ。むずかしく言えば、仏さまと同じ一つのいのちにつながっているのだから、悲しみや苦しみのさなかにいる人がいたら、他人ごととは思えなくて、その人の幸せを願ってともに歩んでいきたいというのが『同悲同苦』の考え方なのよ」
すべては一仏乗
ヒロシくんが「遊びに行ってくる」と玄関を元気に飛び出したあと、台所で話を聞いていたおばあちゃんのミチコさんがタカエさんに話しかけました。
「いまの話を聞いていて、むかしのことを思い出したよ」
「戦後、日本もユニセフから援助を受けていたということですか?」
「私が青年部のときのことよ。私の父親はね、はじめ信仰に反対だったの」
「まあ、たくさんの人をお導きした幹部さんだったと聞いていますけど」
「それがね、入会後しばらくは、母親も私も父親を説得するのがたいへんで、活動にほとんど参加できない時期があったの。これでは信仰をしている意味がないと思ったくらいよ。そのときにね、主任さんが、『活動に出ているから信仰をしているとは言えません。お父さんに仏さまとのご縁を結んでいただくお手伝いをするのも、立派な仏道修行です。それにはまず、自分が仏さまの弟子であるという自覚に立って、教えにそった身の振る舞いができているか、常に省みることが大事です』と教えてくださったの」
「まあ、そんなことがあったんですか」
「ええ。人格を完成するための仏道修行には、さまざまな形があるから、『これがほんとうの修行で、こっちは二次的、三次的なものだ』などということはないのね。譬諭品にあるように、自分の目の前のことを精いっぱいさせていただくことが、そのまま一つの道・成仏につながっていくんだと、私たちは父親のことをとおして学ばせていただいたの」
「ユニセフを支援するのも、家庭や職場でのご法の実践も、みんな同じように尊い仏道修行なんですね」
「譬諭品には、『すべての人は等しく仏の子である。自我をこえて一心に修行に励めば、その道が成仏の道につながっていることがわかり、さらに修行を重ねると仏との一体感、すべての存在との一体感を味わえる』と説かれているよね」
「ええ。大事なことは、私たちがすべて仏さまの子どもだという自覚に立つことですね」
「私もみんなも仏さまの子どもなんだと思うだけで、心があたたかく柔らかになった気がしてくるね」