『経典』に学ぶ
妙法蓮華経 法師品第十
経文
若し善男子・善女人あって、如来の滅後に四衆の為に是の法華経を説かんと欲せば、云何してか説くべき。是の善男子・善女人は、如来の室に入り、如来の衣を著、如来の座に坐して、爾して乃し四衆の為に広く斯の経を説くべし。如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心是れなり。如来の衣とは柔和忍辱の心是れなり。如来の座とは一切法空是れなり。是の中に安住して、然して後に不懈怠の心を以て、諸の菩薩及び四衆の為に、広く是の法華経を説くべし。
現代語訳
「もし在家の男女の修行者が、私の滅後に多くの人びとのためにこの法華経の教えを説こうとするならば、どのように説いたらよいのでしょうか。
その人たちは、如来の室に入り、如来の衣を着、如来の座にすわり、そして多くの人びとに広くこの法華経を説かなければなりません。
如来の室とは、すべての人びとに対する大慈悲心のことです。如来の衣とは、柔和であり、しかも、外からの影響にまどわされない強い心(忍辱)です。如来の座とは、一切は空である──すべての人間は、本仏(大いなる宇宙の根源のいのち)に平等に生かされている──という根本の真理を深く認識することです。この大慈悲心と柔和忍辱の心と、空の教えを胸の奥にしっかりと持ち続け、常に怠ることのない強い 意思を持って、多
くの菩薩や大衆のために広くこの法華経を説かなければならないのです」
意味と受け止め方
感謝の心と思いやりの実践
この品の題にある法師とは、「出家、在家を問わず、法華経を世に広めるために努力する人」のことをいいます。
法華経を世に広めるとは、大きくとらえると法華経の精神をお伝えしていくということです。では、法華経の精神とは何でしょう。言葉やわらかに言うならば、生かされていることに感謝する心と、慈しみの心(思いやり)です。
私たちは、いのちを得てこの世に生を受けました。鳥でもなく、魚でもなく、人間として生まれたのです。考えてみると、こんな不思議はありません。
また、私たちは決して一人では生きられません。大自然の恩恵を受け、衣・食・住など多くの人のお世話によって生活ができるのです。このことに思いをはせると、おのずと「ありがたい」という感謝の心がわいてきます。
こうして、いのちの不思議さ、生かされていることの喜びを心の底から感じると、自分だけではなく、すべてのいのちの尊さが実感できます。他を慈しみ、幸せになってほしいという思いやりの実践が自然とできるようになるのです。
このような心で人とふれあう人は、周囲をあたたかくします。そして、ふれあう人びとに大きな影響を与えます。「私もあの人のようになりたい」と努力する人も現われるでしょう。
これこそが、法華経の精神の伝道です。ですから法師とは、感謝と慈悲の実践者といえるのです。
願って生まれた
法師品には、いくつかの要点があります。その一つが、『経典』に抜粋されている部分よりも前のところで説かれる願生です。
この品で釈尊は、「この世において法華経の教えを受持し、それを説き広めている人は、浄土に生まれることができる身であるにもかかわらず、悩み苦しむ人びとを救ってあげたいという慈悲の心から、自ら願ってこの世に人間として生まれてきたのです」と説かれます。すなわち、法華経の教え・精神をお伝えしている人は、人びとを救うという「願い」を持って人間に生まれてきたのだと、釈尊は明かされたのです。 大いに注目すべきお言葉です。
会長先生は、ご著書『心田を耕す』のなかで、「人間としての『生きがい』があるように、もう一方で、人間としての『生まれがい』もあると思います」と述べられています。
「生きがい」と「生まれがい」を明らかにし、それを十分に味わう日々を送ってこそ、人生がより豊かになり、ほんとうに喜びのある生き方ができるようになるのです。
そのためには、「私たちがなぜ人間に生まれたのか」を考えてみる必要があります。
なぜ人間に生まれたのか──。私たちはこの品までに、人生の目的は「本仏と常に一体感を味わえる境地(成仏)をめざすこと」であると学んできました。やさしく言い換えるならば、心の成長・向上をめざす旅が人生であるということです。そしていま、私たちは釈尊の説法で、苦しみ悩む人びとを救うために、願ってこの世に人間として生まれてきたということを知りました。これらの教えから、私たちが「なぜ人間として生を受けたのか」をハッキリと知ることができます。すなわち、私たちは自らの成長・向上と、世の人びとへの貢献を表裏一体の願いとして、その願いを果たすにふさわしい環境に、「自分の意思で飛び込んできた」のです。自分はどうして生まれてきたのか、何を目的に生きるのかが明確になれば、人生の意義が大きく転換します。世のため人のためにつくせる人間となるために自分を成長・向上させ、自分の成長・向上を図るために利他の行ないに励むという尊い「いのちの使い方」に目覚めることができるからです。
さまざまな出来事を経験し、「なぜこんなに苦労ばかりするのだろう」と思うことが往々にしてあります。また、大きな苦に直面したときに、「この苦のおかげさまで成長・向上することができるんだ」と、なかなか思えない人もいるでしょう。
しかし、自分が願っていまの環境に生まれてきたことを知ると、目の前の解決すべき課題や苦悩は、自らの成長・向上という最も大事な目的のために、現われるべくして現われているということがわかります。
それは、自分で用意したともいえるし、仏さまが用意してくださったともいえるでしょう。ですから、目の前の苦というものは、決して乗り越えられないものではないのです。
小学生には、決して高等数学の問題は与えられません。解けないことが明白だからです。問題を解くにふさわしい学力を身につけた学生のみに与えられます。問題を与えられた学生たちは、さまざまに苦しみながらも、工夫や細かい計算を重ね、懸命に難題解決に取り組みます。壁に突き当たったときは、どこかで計算違いをしていないか、違う視点があったのではないかと、それまでの過程を慎重に確かめていくはずです。こうして学生たちは、取り組む問題の難易度を少しずつ上げながら実力を養っていきます。
これと同じように、自分自身の苦であっても、他につくすなかで生じる悩みであっても、それらはすべて、自らの成長・向上にふさわしい現象として生じてくるのです。自分にとって無理な課題は、目の前に一つとして現われることはありません。
願生を心の底にしっかり植えつけると、その瞬間から人生の風景が一変します。
日々味わう楽しいことや辛いこと、うれしいことや悲しいことも、すべてが貴重な学びの機縁として意味を持ちはじめます。こうした「いのちの真実」に目覚めることで、私たちの人生は限りなく豊かになっていくのです。
慈悲と柔和忍辱
願生について説かれた釈尊は、法師が人びとに法華経の教えや精神をお伝えするときの心構えとして、三つのことをお示しくださいます。それが『経典』に抜粋されている衣・座・室の三軌です。軌とは、軌道の軌で、正しい道という意味です。
あらためて、経文の現代語訳を読み返してください。仏さまは、広く深い慈悲の心で、あらゆる人をご自分の部屋に救い入れてくださいます。私たちも、たとえ相手が自分につっかかってくるような人であっても、仏さまがすべての人をわが子としてあたたかく包み込んでくださるのと同じように、人びとを抱きとってあげる大きな慈悲心を持つことが大切だと教えてくださっているのです。
では、慈悲とはどのような心をいうのでしょう。
「慈」は、すべての人を分けへだてなく見る平等心です。自分が楽しいと感じれば、ほかの人にも同じ楽しみを味わわせてあげたい、自分が得た喜びは、みんなにも分けてあげたいという与楽(楽しみを与える)の心のことです。
「悲」は、さまざな問題に悩み苦しんでいる人たちの声を聞いて、共感し、苦しみの世界から救ってあげたいという抜苦(苦を抜く)の心です。
相手の苦悩を抜く、和らげてあげるためには、自分の経験がたいへん大きな力となります。悩み苦しむ人の話を聞かせていただくとき、かつて自分も同じような苦しみを経験したことがあると、その人の苦しみが心の底から理解できるからです。
見方を変えると、過去、現在において、さまざまな悩み苦しみを経験している人ほど、相手を思いやる心が深くなり、そのための能力も身につくということです。
次に釈尊は、如来の衣とは柔和忍辱の心であると説かれます。
「柔和」とは、人の欠点をついたり、批判ばかりするのではなく、人を大きく包み込み、周囲と調和していく精神のことです。
どんな人と接しても、自分がその人との出会いをよき縁(機会・条件)にしていけば、おのずと調和の世界が開けていきます。相手の仏性(すべての人の本質である、本仏と同じいのちの働き)をひたすら拝み、その人の仏性を輝かせてあげられるような縁にならせていただく、これが柔和な心の極致であるといえましょう。
「忍辱」とは、反抗や迫害、悪口など、外から加えられるマイナスの力に耐え忍ぶことです。また、称賛や褒め言葉など、外部から与えられる好意に対しても、おごり高ぶらない心のことを指します。
空とは無常を悟ること
釈尊は最後に、如来の座とは空であると説かれます。空とは、何でしょう。
すべての現象は、因(原因)と縁(機会・条件)がふれあうことによって生じています。これが縁起です。因がどのような縁と、どのように結びつくかによって現象はさまざまに変化します(重々無尽の因縁)から、この世に固定した現象や存在というものは決してありません。
自分に批判的な人と接したとき、こちらも反発する気持ちで接すると、その人がま すます嫌な人間に見えてきます。しかし、「この人は、私の欠点を教えてくださっているんだ」と、ほんとうに謙虚な気持ちで接してみると、相手の思わぬ長所や美点が見えてきて、お互いの人間関係も自然に好転していきます。
つまり、「Aさんはこういう人だ」という固定した見方は法に則した見方ではありませんから、その固定した見方・受けとめ方がおのずと苦を呼び、苦を増幅させるのです。
いずれにしても、すべてのものごとは、因と縁のかかわり方に応じて「いま、仮の姿を現わしている」にすぎません(諸法無我)。そして、刻々と変化していきます(諸行無常)。
こうした見方をしていくと、目の前のものごとを善とか悪で区別(差別)することも、ほとんど意味のないことがわかります。そこにあるのは、本仏と同じいのちに生かされ、お互いに密接な関係を持ちながら無限に変化・流動している平等の存在だけです。そのことを見きわめることが空の教えなのです。
事例から学ぶ
事例編では、各品に込められた教えを、私たちが日々の生活のなかで、どのように生かしていけばよいかを、具体的な事例をとおして考えていきます。
鈴木さん一家を紹介します。
おばあちゃん・ミチコさん(75)…佼成会の青年部活動も経験している 信仰二代目会員
アキオさん(45)…一家の大黒柱。 ミチコさんの末息子
アキオさんの妻・夕カエさん(38)…婦人部リーダー。 行動派お母さん
長女・ケイコさん(16)…やさしい心の持ち主の高校一年生。 吹奏楽部
長男・ヒロシくん(9)…元気いっぱいの小学三年生
青山さんの愚痴
「―というわけなんです、鈴木さん。ひどいと思うでしょう。たしかに私は養子です。弱い立場ですよ。でも、女房の態度は度を越していると思いませんか?うちの支部長さんは私に『仏教徒の大きな特長は、柔和忍辱の心といえるのよ。奥さんの言葉や態度に腹が立っても、決してけんかなどしてはだめよ』なんて言うんです。だから私はいつもグッとがまんしているんですよ。だけどね、私にだってがまんの限界っていうものがありますよ」
アキオさんは、南支部の青山さんと帰宅途中の電車に偶然乗り合わせ、電車を降りてから二人で駅前の居酒屋に入ったのでした。青山さんは酔いがまわるにつれ、自分が妻からいかに冷たくあしらわれているか、どれだけ辛い思いを味わい、がまんしてきたか、という愚痴を延々とこぼしました。
はじめは≪まいったなあ≫と思ったアキオさんですが、青山さんの話を聞いているうちに、何だか気の毒になってきて≪きょうは、思う存分しゃべらせてあげよう≫という気分になり、腰をすえて話を聞いてあげたのです。
柔和の心
その晩遅く帰宅したアキオさんは、妻のタカエさんがいれてくれた熱いお茶を飲みながら、青山さんがこぼした愚痴の一部分をタカエさんに話しました。
「青山さんって、南支部で壮年部の庶務をしている、ほっそりとした方よね」
「そうだよ。おとなしい感じの人だね。だから話を聞いているうちに、余計に気の毒になってしまってね」
「でも、南支部の支部長さんも厳し過ぎるんじゃない?柔和忍辱が仏教徒の大きな特長だから、腹が立ってもがまんしなさいっていうのは……」
「まあ、正確なことはわからないけど、ぼくはこう思うんだ。柔和とは“やわらぎ”だよね。心がやわらいでいる人は、どんな人と会っても、どんな出来事が起きても、ものごとの真実を見ていける人だと思うんだ。反対に、とげとげしい心の人は、すべてのことを自己中心的にとらえてしまうから、ものごとの上っ面しか見えなくなって、右往左往してしまうんだよ」
「自己中心という穀を破ることで、やわらぎの心になれるっていうこと?」
「うん、そういうことになるね。タカエはおもしろい表現をするね。やわらぎ、つまり心が柔軟だから内省できるんだ。たとえば、自分に怒りを向けてくる人がいるとすると、ふつうはこちらも怒りを持って対応してしまうよね。でも、ほんとうに内省できる人は、『自分には、この人を怒らせてしまう何かがあったのだろう』とか『相手に誤解を生じさせてしまったのは自分である』という思いを抱くことができるんだね。『自分はいつも正しい』『過ちは起こさない』などと思わずに、『自分は愚かな凡人である』という自覚に立っていくと、自然と心がやわらいでいくんじゃないかなと、そう思うんだ」
「でも、自分は愚かな人間だなんて、とっさには思えないかも……」
忍辱の心
「じゃあ、タカエは忍辱についてどうとらえている?」
「うーん。迫害や侮辱にも耐え忍んで、ほめられたり、おだてられても有頂天にならないってことかしら」
「そうだね。だけど、歯を食いしばって耐え忍ぶ、ということとは違うんだ」
「私も聞いたことがあるわ。いわゆる“がまん”ではないって」
「うん。忍辱の心を養うには、がまんをすることから出発するのかもしれないけど、『この苦難や困難は、仏さまが私をより成長・向上させてあげようという思いからくださった試練なんだ』と受けとめて、『仏さまは私に、このことをとおして何を教えてくださっているのだろう』と見ていくなかに、歯をくいしばってがまんする、ということがなくなっていくんじゃないかと思うんだ」
「だれかに言いがかりと思えるようなことを言われたり、避けて通りたいことに遭遇したとき、『これも仏さまのはからいだ』とは、なかなか思えないけどね。だけど、そう思えない自分というのは、やはりどこか自己中心なのよね。真理・法の働きというか、仏さまの慈悲というものを頭の中ではわかっていても、受け入れられないのよ、我があって」
「そうだね。怒っている人を前にして、その人の仏性を拝むなど、ふつうではできないよね。だからこそ、『自分は愚かな凡人である』と自覚していくことが大事なんじゃないかな。やわらぎの心で、『自分が愚かだから、この人を怒らせてしまった』
と見ていけると、相手がどのような人であろうとも、その人の仏性を拝んでいけるんじゃないかな」
「そうした心になっていくと、すべてのものごとに感謝できるようになるのね」
「うん。南支部の支部長さんは、青山さんに、それが言いたいんだと思うよ。奥さんを縁として修行させていただきましょうってね」
「私も、柔和忍辱の心を身につけられるように精進していくわ」
「お互いにがんばろう」