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2001年05月10日 チャコール神父に「第18回庭野平和賞」を贈呈

庭野平和財団の「第18回庭野平和賞」贈呈式が10日、東京都内のホテルで行われました。今回の受賞者はイスラエルのパレスチナ人で、カトリック・メルキト派の神父であるエリアス・チャコール師(61)。民族対立に揺れるイスラエルにあって、教育を基盤とした平和活動に取り組んできたことなどが授賞理由になりました。

チャコール師は1939年、キリスト教(カトリック・メルキト派)を信仰する両親の元に生を受けました。8歳のころ、一家はユダヤ人入植者によって土地を奪われ、避難民になるという「民族の悲劇」を体験しました。そうした過酷な迫害を受けながらも、チャコール師は暴力による解決は望みませんでした。対立する人々が触れ合い、互いに学び合うことで理解と融和が生まれると確信したからです。
ナザレで聖職者に就いたのち、チャコール師は、相互理解の場を提供するため、ガリラヤ地方のイビリンで学校創設に取りかかりました。そして、1982年、「マー・エリアス学園」の第一歩となる高等学校を創設したのです。
以来、施設は拡充され、幼稚園や小学校、工学技術大学、科学技術大学に加え、教員センター、宗教多元論センターなどが次々と誕生しました。いまや4000人以上の学生が在籍する教育機関へと発展しました。現在、チャコール師は総長を務めています。
同学園の特長は、創立以来、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教といった宗教の相違に関係なく、イスラエルのあらゆる人々に門戸を開放してきたことにあります。民族や宗教の違いを超えて協力し、共に未来を形成していこうとする人々を多く輩出してきました。この教育を基盤とした平和実現への努力と功績が讃えられ、今回の受賞となりました。
当日の贈呈式では、庭野欽司郎・同財団専務理事より選考経過報告が行われたあと、庭野総裁からチャコール師へ賞状と副賞として顕彰メダル、賞金2000万の目録が手渡されました。
次いで、あいさつに立った庭野総裁はイスラエルとパレスチナをめぐる状況に触れながら、「チャコール師は、教育を通し平和の人を一人ずつ育んでいます。それは地道な活動ではありますが、まさに人の心深く平和の種を植える確実な歩みでもあります」とチャコール師へ賛辞を贈りました。
続いて、遠山敦子・文部科学大臣(代理)、イツハク・リオール駐日イスラエル大使、白柳誠一・日本宗教連盟理事長=WCRP(世界宗教者平和会議)日本委員会理事長、カトリック枢機卿=がそれぞれ祝辞に立ちました。その中で、リオール駐日大使は、「パレスチナとイスラエルの民族対立は悲劇的で、あまりにも複雑な問題が多く絡みあっています。こうした状況の中で、チャコール先生は強く心から信じたことを実践し、困難な状況を変えうることができると、身を持って示してくれました。共存という目的、その平和の実現に大きく貢献されたのです」と述べました。このあと、チャコール師が登壇。記念講演を行いました(要旨別掲)。
午後からは、同ホテル内で懇親会が開かれ、アムブロゼ・ビー・デ・パオリ駐日ローマ法王庁大使が祝辞を述べました。

エリアス・チャコール師記念講演 要旨

神は預言者の時代を未だ、終わらせたもうてはいない。これが私の確信であります。神は預言者の出現の地を彼の聖なる土地、エルサレムのある中東の地に限りたもうてはいません。聖なる光は日本の地にも輝き、すべての信仰あるものが力を合わせ、互いの尊敬と信仰によって結ばれた多様で多元的な社会を作りだそうと招き寄せるのです。キリスト教のみが神と聖霊とを独占するものではない。私はそう信じます。我々の創造主は、特定の宗教や国家に限定され「キリスト教化された」神ではないのです。

まず私の社会的立場がどれほど複雑か、そのことについて触れさせていただきます。私は、パレスチナ人であることに誇りを持っています。一方でイスラエル国家の市民でもあります。アラビア語を母国語とし、キリスト教を信仰しています。パレスチナ人でキリスト教徒であるというだけで、すでに常識を超えた複雑さです。アラブ人がイスラエル市民であると言ったら、どれほど複雑な状況か、お分かりいただけるでしょうか。

一体、どの属性が優先されるべきか。私は迷いました。そして、遂に一人の人間として、神を信じる者として、すべての他者に対する同胞として、どの結びつきにも勝って、何よりもまず私は「いのちの子」であることに気づいたのです。私は、自分が神や創造主の姿、形に似せて創造されたのだと信じています。神が創造したもうたすべてのものの中で、生まれてくる赤子の一人ひとり、そしてそれぞれの人格がもっとも美しく、価値があり、尊いものであると思うのです。

私の家と村を破壊したイスラエル兵士を思い出すとき、祖国の土地から同胞であるパレスチナ人を追放したイスラエル軍を目にするとき、今なお続くパレスチナの占領という醜い行為を考えるとき、私は自分に言って聞かせるのです。兵士も、軍隊も、ユダヤ人も、神の御姿に似せて創り出された子のなのだ、と。

私たち宗教者は、創造も、あるいは破壊もしうる、途方もなく大きな力を与えられています。その力を世俗主義と宗教的排他主義を広めるために使うべきでしょうか。宗教を分裂と破壊の言い訳に、追放と根絶の言い訳に使うべきでしょうか。答えは「ノー」です。

21世紀の人類は、世俗主義と宗教的排他主義によって深刻な脅威を受けています。これに対し私は、すべての宗教と宗教者が力を合わせて人類社会を作り直し、社会に希望を与えるよう、神から求められていると考えます。「他者の他者たるゆえん」を受け入れることは、これまでの私たち人間の生き方やあり方に対する挑戦です。それはやがて、私たちを豊かにし、一人一人の信仰の意義を深めることにつながっていくものだと思うのです。

かつて私は難民にされ、国外に追放され、第二級の市民とされ、見捨てられた人間として扱われた時期がありました。この経験にも関わらず、いえむしろ、この経験ゆえに、私は自分の置かれた社会環境を作り直し、すべての人が特定の宗教や国家の成員である前に、まず「いのちの子」として扱われるようにしたいと決意したのです。あらゆる宗教、国籍、政治的信条を持つ学生に開かれた「マー・エリアス学園」を創設した理由がそこにあります。

平和を達成する任務は、平和条約を調印してこと足れりと考えがちな政治家、大臣、首相にのみ負わせていてはなりません。平和を涵養するためには、まず人々の心に平和の根を植えつける必要があります。その根とは、若者の心に宿る正義感と誠実さです。そこから生まれてくる平和とは、「他者の他者たるゆえん」を寛大に受容することです。私たちが互いの複写物でないことは、何とありがたいことでしょうか。違いがあるからこそ、互いに補い合うことができます。多様であるからこそ、寛容と尊厳を備えた相互受容の"交響楽"を響かせることが可能なのです。

私たちは、マー・エリアス学園で誠実さと、互いへの尊厳を持ちつつ共同生活することが信仰を強めると信じ、これを実行しています。絶望と希望を、悲しみと喜びをユダヤ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、そして他の宗教の人々と共に分かち合っているのです。私たちは、暴力に訴えることなく、互いに協力して地球に平穏な生活を実現する大切さを、より一層学んでいかなければならないように思います。

皆さま、共に働き、多様性を保ちつつ協力し、強者への服従ではなく、自発的な一致を形づくっていくことにより、嵐がいかに強くても、打ち勝っていこうではありませんか。

(2001.05.20 記載)