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2002年05月11日 京都で「庭野平和財団シンポジウム2002」開催

『京都発:宗教者の新たなチャレンジ--共生のグローバリゼーション』をテーマに「庭野平和財団シンポジウム2002」が5月11日午後、立正佼成会京都教会で行われ、識者、各宗教の代表者はじめ市民ら400人が詰めかけました。

当日は、「第19回庭野平和賞」受賞者であるサミュエル・ルイス・ガルシア師が基調発題。そのあと、パネルディスカッションが行われ、ルイス師に加え、カトリックのシスターである石川治子氏=カトリック中央協議会社会部=、開発、経済学の専門家である西川潤・早稲田大学教授がパネリストとして参加しました。李仁夏(イ・インハ)・在日大韓基督教会川崎教会名誉牧師がコーディネーターを務めました。

庭野平和財団シンポジウム
サミュエル・ルイス・ガルシア師 基調発題(要旨)

テーマ 「グローバル化した世界での共生」

一般にグローバリゼーションとは、互いに関連しあいながら変化を生み出す5つの要素に基づいた、世界経済の成長的統合を表します。5つの要素としては、1国際交易2資金流動性(外国投資)3コミュニケーション(各メディア、インターネット)4技術革新(交通機関、電子機器、バイオ技術等)5人口(特に労働人口)の可動性、が挙げられます。

1990年代末、このグローバリゼーションの概念は経済的分野から政治的分野へと変化することになります。そこでは、WTO(世界貿易機関)といった正当な政治的基盤が重視され、このような組織は個々の国の規範・法律を超えた形で機能します。グローバル化は歴史的なチャンスとして政治的目標となり、社会の規則や資源の分配は、多国籍企業の活動、作用によって決定されます。その結果、全世界が巨大なショッピングモールとなり、人間の唯一の正当な存在条件は消費者であるということに限られます。これがグローバル化の根底にあるユートピアです。

しかし、グローバル化のプロセスは矛盾をはらんでおり、その真実性、成功には、次のような理由から疑問が投げかけられています。一つは、再生不可能な天然資源の急激な消費。次に、化学物質による環境破壊が地球そのものの存続を脅かしていること。三番目が、産業の自動化が労働力を排除し、非就業者の増加による市場の縮小。第四は、経済力が一握りのエリートに集中し、国内の経済的格差が拡大すること。そして、最終的には、最新技術による"征服 "が進み、人間性が奪われていくと懸念されるのです。

現在、世界は2つの速度で動いています。グローバル化とネオ・リベラリズム(新自由主義)のもとにあるのは世界人口の20パーセントに当たる先進諸国の人々に過ぎず、一方、80パーセントの貧困層は"排除された "人々です。先進国の中にも、第三世界の人々と連帯を築こうとする動きもありますが、その善意は認められるものの、貧者との連帯の体験を目的に援助が行われるケースも見受けられ、本当の意味で社会変革を進める覚悟は見られません。
今日の社会で、"排除された "人々は大きなグループを形成しており、先進国にもそのような人たちがいます。彼らは人間性に満ちあふれた世界、人間と自然が最も重要な関心事となる世界への回帰を求めています。しかし、先進国は、経済世界から資産が影響を受けることばかりに拘泥しています。企業にとっては利益の最大化こそが命題であり、そこに貧困を減らす提言を求めることは、「サイエンスフィクション」のようなものなのです。
このように見てくると、グローバル化の恩恵を受けているのはだれか、ということが理解しやすいと思います。単なるグローバル化が、世界各国、諸民族の平和的共存をもたらすことは決してないのです。

一つの例として、「アメリカ大陸構想」があります。これは、プエブラ・パナマ・プラン(PPP)、コロンビア計画、北米自由貿易協定(NAFTA)を3本柱とするものです。表向きは中米諸国やメキシコの経済・社会開発援助などが目的に掲げられていますが、実際にはそれらの国の人々への恩恵は期待できません。未熟練労働者として搾取されること、アメリカによるアマゾン流域の豊富な資源の独占などが想定されます。ラテンアメリカ諸国が真に発展するためには、ネオ・リベラリズムのやり方そのものを抜本的に方向転換しなくてはなりません。
市場経済中心のグローバル化は、個人の尊厳を傷つけ、不公正を拡大します。金融世界は倫理から遠ざかってしまいました。かつての経済モデルでは、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が言及されているように、労働と財の生産の間には明確な関係がありました。しかし、今は、さしたる労働もせずに巨額の富を得ることが可能なのです。必要なのは新たな倫理観であり、それに基づいて国際的な司法制度と金融部門の行動規範を確立することが求められています。
この倫理観は、経済のみから導き出されるものではありません。倫理観はグローバル化の産物ではなく、文化や人間の本質的な価値に基づくものだからです。そして、グローバル化は、社会の最も弱い立場の人々のニーズに応えるという観点から、規制、調整されなくてはなりません。グローバル化の根本的な訂正が必要とされているのです。

さらに、今や、自然保護の問題には、まさにグローバルな視点から取り組まれなければなりません。人類は、全生物圏を破壊する2つの殺戮機械をつくりました。一つは核兵器であり、もう一つは生態系構造の破壊です。この2つの警告によって、ようやく私たちは目覚めつつあります。私たちはエコロジーを道具として、私たちがその生死を握っている地球を救わなくてはなりません。私たちに必要なのは、博愛と慈悲、鋭い感受性、より多くのやさしさ、連帯、人間同士そして地球に対する責任感です。地球を守るために、基本的な環境教育を行い、将来の世代のニーズを満たすことを考えながら、持続可能な生活スタイルを学ばなくてはならないのです。

このような新しい世界の建設の中心となるのは、グローバル化の犠牲となってきた貧困層の人々です。これまでと違う世界を求める人々の声が聞こえます。異文化、諸宗教間の対話が続けられ、正義が万民の権利であり、共生が人類全体の財産と考えられるような世界が実現されることを願ってやみません。

ディスカッションでのパネラー発言(要旨)

石川治子氏(カトリック中央協議会社会部)

人権を無視されている人、あるいは人間とみなされないような生活を強いられている人......。私はさまざまな国を訪問する中で、今、そういった人々が本当に増えていること、つまり悪い意味でのグローバリゼーションというものを肌で感じています。
最近訪れたパキスタンにあるアフガニスタン難民のキャンプでは、報道されている以上に、米軍の空爆によって多くの市民が亡くなっていました。家族を目の前で失ったトラウマに苦しんでいる人も少なくありません。また、米国の世界貿易センタービルで亡くなった方に支払われる賠償金が億の単位であるのに対し、アフガンの空爆で亡くなった方には数十万円という現実。同じ人間、同じいのちでありながら、なぜこのような差が生まれるのでしょうか。
フィリピンでは日本のODAによる河川工事で、川辺の棲家を失う貧しい市民がいます。バングラデシュでは地球の気候の変化がもたらす洪水や干ばつのため、人々は厳しい環境に置かれています。では、それらの原因はいったいどこにあるのでしょうか。
今、一部の富裕層のために貧困層が広がるという状況が世界の各地で見られます。私たちは創造力を働かせなくてはならないのです。「自らの生活がそれに加担してはいないか」「経済の発展が、貧しい人々により重い荷物を背負わせてないか」ということを。

西川 潤氏(早大教授)

グローバル化によって、開発途上国の国々では、紛争や災害、失業などの問題が生じ、さらに貧困層を増大させています。環境問題も深刻です。
一方、日本人の生活は、こうした国々からもたらされる膨大な資源やエネルギーに支えられています。国内では、国債や地方債を多量に発行し、借金として子孫に大きな負担を残しながら、今の生活を維持しています。一見、豊かに見える生活は、他人の負担、犠牲によって成り立っているわけです。このような状態で、日本人は人間的に豊かな生活をおくっていると言えるのでしょうか。
日本は現在、市場経済を拡大させ、グローバル化を進めようとしています。貧富の格差を広げ、将来に不安を抱える人が増えていくシステムが、人類に幸福をもたらすのかを再度、考えなければなりません。自分たちの生活のあり方を見つめ直すことも必要です。真の共生に向け、踏みだすことができるか-日本人全体が、問いかけられているのだと思います。
そのためには、宗教の役割が、ますます重要視されてくるでしょう。人は、人間を超越した神仏や真理に触れることで、自分が、いかに小さな存在であるかを認識することができます。そこから自ずと、分かち合いやつながりを大事にする他者への「愛」が生まれてきます。生きることは、生かされていることだと理解できるのです。
経済成長優先の社会の中で、忘れられてきた精神的な豊かさを取り戻す役割が宗教に求められています。

李仁夏氏
(在日大韓基督教会川崎教会名誉牧師)

今、世界人口の約3分の1の人が、1日2ドル以下で生活するという貧困の中にいます。グローバル化が進む中で、誰が利益を得ているか、誰が世界の覇権を得ようとしているか。そう考えたとき、おのずと正しい答えが導き出されることだと思います。
「開発途上国」という言葉が生まれたのは、1970年でした。しかし、そう呼ばれた国々は今に至っても全く開発に成功してはいません。状況はさらに悪くなっていると言っていいでしょう。
ニュージーランドでマウイ族に会ったとき、彼らは言いました。自分たちは食べる分だけしか魚を捕らない、と。しかし、日本と韓国の船がやってきて、ごっそり魚を捕っていくというのです。産業革命以降作りだした文明は、彼らのように、自然の秩序に素直に従うという生き方を喪失しているのではないでしょうか。
この状況にどう対処していくか。「人間は危機が訪れるたびに、新しいものを創造する、新しい文明を生み出す」と、英国の歴史学者であるトインビーは言いました。彼の意見に基づくならば、私たちはまさしく今、新しい文明を創造する機会に立ち会っています。既存の価値観を180度転換し、人間としてどう生きるかを考える。同時に、この大きなチャレンジに向かって、皆が手を携えることができるかどうか。この問いを、シンポジウムを通して皆さんと共有したいと思います。

パネルデスカッションの様子

パネルディスカッションでは、フロアから多くの質問が寄せられ、パネラーとの質疑応答が行われました。
まず、「信仰とは反権力に結びつくものなのか」の問いに対し、ルイス師が応答。「教会は、貧しい人々のためにあります。伝道は大事ですが、生命の危機に直面している人々に対しては、その生命を守るために、実質的な働きかけを行っているだけです」と述べました。石川氏は、「反権力を掲げているわけではありません。権力者が神の御心に沿った政治や行いをしていれば、協力します。逆に、人間の尊厳を大切にしない権力ならば、声をあげていかなければなりません」と主張しました。
次いで、「今後の経済活動は、何に焦点をあてて行われるべきか」については、西川氏が発言しました。

利潤だけ追求し、経済の拡大を目的とした、これまでの「営利主義」の経済が、南北問題や環境破壊を引き起こしていることを説明。その上で、「『人間らしい生き方』を大切にした経済や発展のあり方が求められます。国連でも最近、人間の能力や自由な選択を尊重していくことに重点をおいた開発や発展形態が望ましいという意見が強まってきている」と述べました。
また、「貧しさの基準は何か」についても西川氏が言及しました。「これまでは、所得や財産の少なさを貧しさと規定してきました。しかし、現在は、人権や尊厳が十分に認められず、人間としての基本行動が実現されていない状況を指すようになっています。つまり、『自分が自分でいられない状態』を、貧しさと考えるようになってきている」と、概念が変化していることを紹介。「日本でも、失業者の急増、若者のひきこもりといった問題があります。豊かと言われる社会にも、貧しさは存在します」と述べました。

(2002.05.15記載)