庭野日鑛会長は、4月23日から28日まで、イタリアで開催された「第1回仏教とキリスト教のシンポジウム」(フォコラーレ運動主催)に佳重夫人と共に出席、『慈悲と現代的生活』と題し基調発題を行いました。ローマ市郊外のカステルガンドルフォにあるマリアポリ・センター(フォコラーレ運動の研修センター)を会場にしたシンポジウムには、仏教徒代表、世界各地のフォコラーレ運動代表ら約120人が参集。庭野光祥次代会長、庭野統弘氏が招待を受け出席したのをはじめ、篠崎友伸・学林学長、松原通雄外務部長、小池康雄・近畿教区長、櫻井孝至・磐城教会長も参加しました。
同シンポジウムの主テーマは、『仏教のダルマ(法)と慈悲――キリスト教の愛・アガペ』。仏教とキリスト教の根幹をなす「慈悲」「愛」の精神を確認し合い、現代の家庭や社会、学問、経済、政治などにどう反映していくかを見いだすため企画されました。
期間中には、主催団体であるフォコラーレ運動のキアラ・ルービック会長、マイケル・フィッツジェラルド・バチカン諸宗教対話評議会議長、プラティープ・ウンソンタム・秦女史(国会議員、タイ)、西郊良光師(天台宗宗務総長)、庭野会長はじめ、延べ20人の代表が、さまざまな角度から基調発題を行い、質疑応答などで議論を深めました。
23日夕、開会したシンポジウムでは、冒頭、キアラ会長があいさつ。続いて参加者全員が自己紹介しました。また翌24日午前には、ジュゼッペ・ザンキ師(フォコラーレ諸宗教対話事務局代表)、西郊師、庭野会長、アジャン・トン大僧正(タイ)の4人が開会のあいさつ。その中で庭野会長は、フォコラーレ運動と本会の長年にわたる交流、互いの共通点に触れ、「フォコラーレの皆さま方との新たな出会いの場に恵まれ、相互理解を深められることは、この上ない喜び」とシンポジウム開催に期待を寄せました。
このあと第1セッションに移り、庭野会長が『慈悲と現代的生活』と題し、約30分にわたり基調発題。仏教が智慧と慈悲の宗教であることを強調し、「『無常観』によって、自らのいのちの不思議、尊さ、有り難さを味わい、受け取ることができるのであり、さらに他に対する慈しみ、悲しみ、すなわち『慈悲』の一体感が湧く。智慧と慈悲は一つのものであり、知的にとらえると智慧であり、情的にとらえると慈悲であると言える」と解説しました。
さらに、国や民族、個人レベルでの諸問題に触れながら、「仏の智慧に根ざす慈悲によって人さまを救いに導き、それが同時に自分の喜び・救われにつながる自利利他円満こそが、私たちに『法悦(よろこび)の生活』をもたらすことになる。それが仏教徒としての現代的生活であると思う」と結びました。
25日午後には、プログラム外の催しとして、キアラ会長がフォコラーレ運動と庭野日敬開祖との縁の深さを紹介。特別に編集した庭野開祖のVTRが上映されました。
このあと篠崎学林学長が発題。『観音菩薩の慈悲――庭野日敬師の思想から』をテーマに、観音菩薩の慈悲のあり方を庭野開祖の指導と重ね合わせて説明しました。篠崎学長は、第1セッション(24日午前)の議長も務めました。
光祥次代会長、統弘氏は、期間中、各セッションに参加したほか、長年にわたり親交を深めてきたフォコラーレのメンバーはじめ諸宗教者と交流しました。
庭野日鑛会長 基調発題 『慈悲と現代的生活』(抜粋)
釈尊によって説き示された仏教は、「仏の教え」であると同時に、「仏であることに気づく教え」であるといわれています。そして、仏教は「智慧と慈悲」の宗教であるといわれていますが、さらにつきつめていえば、智慧の眼を開くことがいちばん大事であり、それによって人びとの救いがもたらされるということであります。
釈尊が私たちに示された教えの根幹は何かというと、私は「諸行無常」(世界のすべての物事は一瞬も止らずして変化しているということ)と「諸法無我」(いかなる存在も永遠不変の実体を持っていないということ)であり、結局、それは「無常観」であり、これこそ仏の智慧であると受け取っております。その無常観によって、私たちは自らのいのちの不思議、尊さ、有り難さを味わい、受け取ることができるのであり、さらに、他に対する慈しみ悲しみ、すなわち「慈悲」の一体感が湧いてきます。智慧と慈悲は一つのものであり、知的にとらえると智慧であり、情的にとらえると慈悲であると言えます。
釈尊の生涯を見ると、本来、自分が救われたいと願って求道のため出家されたわけでありますが、その結果、すべての生きとし生けるものが救われることが、自らの真の救われであることを悟りました。それは智慧によるものでした。ですから、自らが救われるのは、「智慧」によるのです。他が救われるのも智慧によるのです。そして、自らが救われた智慧を他に伝えることが「慈悲」であります。
キリスト教は「愛」の宗教であり、仏教は「慈悲」の宗教ともいわれています。そういう意味では、仏教は「慈悲」が最も大事であるともいうことができます。
釈尊の言葉に、「一切の生きとし生けるものよ、幸福であれ、安泰であれ、安楽であれ」というように、仏はいつもそのような大慈悲心をお持ちになっているのです。私たちの無上の幸せも、生きがいも、一切の人の幸せを願う慈悲の心で胸がいっぱいに包まれているときであると受け取ることができます。
ここで、慈悲と私たちの生活について考えてみたいと思います。「私たちの慈悲の実践は、決意表明、すなわち誓願から出発する」といわれております。私は常々、「朝は希望と誓願に目覚め、昼は努力と精進に生き、夜は感謝に眠る」ということを申してまいりました。これはある方の言葉に、私自身が誓願と精進という言葉をつけ加えた訳ですが、「誓願」と「精進」とがあることによって、私たちの生活に宗教的意味をもたらすからであります。
仏教にはさまざまな願がありますが、あらゆる仏教の共通な願が、「四弘誓願」であります。
「衆生無辺誓願度」は、数かぎりない人びと(衆生)を悟りの彼岸に渡そうという誓願。「煩悩無数誓願断」は、無数に尽きることのない煩悩を滅しようという誓願。「法門無尽誓願学」は、量り知ることのできない仏法の深い教えを学びとろうという誓願。最後に「仏道無上誓願成」は、無上の悟りを成就したいという誓願です。私は結局のところ、最初の「衆生無辺誓願度」という誓願に尽きると思います。四つに分けてありますけれども、端的にいえば、仏と人間の願いというものは一つであります。「万人を救う、一切衆生を救済する」というのが、ただ一つの仏の願いであり、人間の誠の願であります。
悟りを開かれて以来、四十五年といわれる釈尊の布教伝道のご生涯は、すべての人の智慧の眼(仏知見)を開くという、やむにやまれぬ大慈悲心から端を発していたのです。目の前の小さな苦しみやとらわれから離れてほしい。それにはしっかりと智慧を把握してほしいという大慈悲心から、出会う人びとに智慧を説かれたのであります。
しかしながら、現代は「他者」に対する思いやりが薄れて、他と共に生きるということが軽視されている時代ではないでしょうか。「他者」とは他人でもあるし、人間以外の動物や山川草木などの自然環境でもあります。私たちは一人で生きているのではありません。さまざまな人びと、動物、植物、そして自然環境などとのすべての関わりの中で生きているのです。その意味では私たちは他者に「生かされて生きている」と言えるのであります。
人間及び環境などとの関係も決して円滑とは言いがたい今日です。個人のレベルでも、民族や国家のレベルでも、お互いが利己的になって争いが起こり、動物や自然環境に対しても、人間のエゴを中心にして利用することしか考えていないのではないかと思われます。その結果、犯罪が増加し、社会不安が募り、民族紛争、資源の枯渇、公害、地球破壊などの問題が露呈しているのです。
このようなことは、すべて、現代人である私たちが、宗教を軽んじてきたところに原因があるのではと、懺悔の心でいっぱいになります。
今はまさに「共生」の時代であるべきです。信仰篤く、詩人で、童話作家の宮沢賢治という人は、「世界がぜんたい幸福にならないうちは 個人の幸福はあり得ない」と言いました。この言葉こそ、慈悲心、共生の適確な現代的表現であり、大切な精神と言えましょう。
昨年は、イラク戦争の勃発によって、世界全体が不安と緊張に包まれました。二〇〇一年の米国での同時多発テロ事件以後、怨みに怨みを以って報いるという「怨みの連鎖」の傾向が強まり、いまだにテロ行為と応戦、そして人びとの混乱が続いています。
こうした状況を考える時、現代の文明が、東洋はその「東洋性」を失い、西洋はその「西洋性」を失い、それぞれ最も貴重なものを失ってしまったといわれております。西洋は冷静綿密な分析力を特徴とし、志向し、東洋は寛容と統一力に重きを置いてきました。最も大事なことは、東洋と西洋が協力し、お互いの特徴を活かすことであります。
こういう時代だからこそ、私は『法句経』にある「まことに、怨みは怨みによって消ゆることなし。慈悲によってのみ消ゆるものなり」という言葉を、すべての人が肝に銘じていかなければならないと思っています。
私は、冒頭に、「仏教は、智慧と慈悲の宗教である」と申しました。そうであれば、仏の智慧に根ざす慈悲によって人さまを救いに導き、それが同時に自分の喜び・救われにつながる自利利他円満こそが、私たちに「法悦(よろこび)の生活」をもたらすことになりましょう。それが仏教徒としての現代的生活であると思うのであります。
(2004.05.07記載)