年頭に庭野日鑛会長から指導を受け、精進の決意を新たにする「御親教」式典が1月7日、大聖堂はじめ全国各教会で行われました。会員約3400人が参集した大聖堂では、奉献の儀、庭野光祥次代会長導師による読経供養と続き、渡邊恭位理事長があいさつを述べました。会員代表が決意の言葉を発表したあと、庭野会長が登壇。『合掌』『善友(ぜんゆう)』の書き初めを披露し「御親教」を述べました。この中で庭野会長は、「善き友」の意味合いを示すとともに、「ありがとう」「祈り」「願い」の語源に触れながら、神仏に感謝する生き方を説きました。なお、式典の模様は全国の教会に衛星中継されたほか、大聖堂正面玄関前では参拝者に七草粥(ななくさがゆ)が振る舞われました。
庭野会長御親教【要旨】
「ありがとう」の語源は、「有り難し」からきています。「有り難し」とは、「存在しにくいこと」「滅多にないこと」と、今までは受け取っておりました。
ところが、語源である「有り難し」は、実は「あり得ないこと」「存在し得ないこと」を呼んだのだそうです。「滅多にない」とか「存在しにくい」という程度ではなく、「あり得ない」「存在し得ない」ことに対し、「ありがとう」と言ったのです。いわば、神仏があり得ないことを起こしてくださったことに対して、感謝の意味合いを込めて、「ありがとう」という言葉を使ったということです。神さま、仏さまを賞賛し、褒めたたえる言葉として使われてきたのです。そこには、とても深い意味合いがあったということです。
そして、釈尊の誕生偈である「天上天下唯我独尊」を現代的に表現しますと、「世界中の人々は、みな、一人ひとり尊い」ということです。また釈尊は、お悟りを開かれたときの心境として、生きとし生けるものみなが如来と同じ智慧(ちえ)と徳相、慈悲を具(そな)えている、そうした宝を持っている、と私たちを勇気づける言葉をくださっています。
さらに、法句経の中に「人の生を受くるは難く、やがて死すべきものの、いま生命(いのち)あるは有難し」との一節があります。これはいわば、本当に神秘的で、不思議で、あり得ないことが、いま神仏のお陰さまで起こっているという意味です。
そのように見てまいりますと、一人ひとりが、いま、ここ(大聖堂)に参加させて頂いていることは、滅多にないどころではなく、あり得ないことが起こっているということなのです。
また、「祈り」あるいは「願い」という日本語の語源についても、私は学んでまいりました。
「祈り(いのり)」の「い」は「意」、つまり「神の意」を意味するのだそうです。それに加え、「のり」は「宣言(のりごと)」の「宣(のり)」であり、神の意、神の心を寿(ことほ)ぐこと、賞賛すること、褒めたたえることが、「祈り」の語源だそうです。
「願い(ねがい)」という言葉には、「ねぎらい」という意味合いがあります。神仏に対する「ねぎらい」の言葉は、結局、「ありがとうございます」と、感謝の意味を込めて申し上げることだと言われます。
とかく私たちは、こうしてほしい、ああしてほしい、これを叶(かな)えてほしい、ということで、お祈りをしたり、願ったりしています。しかし、そうしたことは、どうも神仏はお受けにならないそうであります。私たちは、いつも感謝の心で「ありがとうございます」という「祈り」と「願い」ができるようになってまいりたいものです。
さて、書き初めですが、(佼成)新聞に載せました「善き友となろう」という意味合いから『善友』と書かせて頂きました。
お釈迦さまがお亡くなりになる直前、最後の旅に出たときに同行していたのが、アーナンダというお弟子さんであります。
アーナンダは、お釈迦さまの説法を最も数多く聞いた「多聞(たもん)第一」の尊者と呼ばれています。お釈迦さまの従兄弟(いとこ)にあたり、お釈迦さまとは30歳ほどの年齢差があったと言われます。
旅の途中、アーナンダは、お釈迦さまに質問をしました。「お師匠さま、善き友を得ることは、聖なる道の半ばだと思えるのですが、どうなのでしょうか」。
聖なる道とは、仏道ということであります。そのときにお釈迦さまはこう答えられたというのです。
「アーナンダよ、善き友を得ることは聖なる道の半ばではない」。そしてお釈迦さまの口から続いて出てきた言葉は、「アーナンダよ、善き友を得ることは聖なる道の半ばではなく、聖なる道の全てである」。
そのことについて、お釈迦さまは、いろいろと説明をされています。
私(お釈迦さま)を友とすることによって、人は老いる身でありながら老いを恐れずに済み、病むこともある身でありながら病むことを恐れずに済み、必ず死すべき身でありながら死の恐れから逃れることができる。善き友を持つことは、幸せに生きることの絶対的条件なのだ、と。
私たちは、普通は友を、遊び相手とか遊び仲間、趣味が同じだとか、年齢が近いというような非常に狭い意味合いでとらえています。しかし、本来の友とは、人生上の悩み・苦しみ、煩悩・苦悩を少しでも軽減してくれるような気づきを教えてくれる人──それが本来の意味での友であります。同時に、互いに、そのような友になることが、善き友としての条件であるとされます。
さらに、友をどう考えるかという上では、幸せをどうとらえるかということにも、大事な意味合いがあります。普通は、何かを得ること、欲しいと思っていたものが手に入ることなどを、幸せととらえがちです。これも狭い意味での幸せのとらえ方ではありますが、いまの自分が幸せの中にいること、幸せの中に存在していることを知るのが、本当の意味の幸せであります。
その意味では、本当の幸せとは何かを、知らせてくださるのが友であり、それがお釈迦さまでもあったわけです。
欲しいものを得たいとか、いま以上の何かを得たいなど、求めるものが自分の外にあり、それが得られたとき、幸せを感じるということであるならば、私たちの人生は、実に苦悩に満ちたものになってしまいます。娑婆世界と言われますように、思い通りに得られるものなど、この人生には、ほとんどないからであります。思い通りに得ることを考えている間は、本当の幸せは手に入らないと言えます。得るための友ではなくて、認識するための友が、真の友である。お釈迦さまの言われる友とは、そういう意味です。
私たちも、法座などで、「こんなことを感じました」「こんなふうに思いました」と語り合っています。その中で、お互いに重荷を下ろし、気持ちが楽になり、生きることがとても楽しくなっていく──そういう仲間こそが、お釈迦さまの言われる本当の友ということです。何かを教えてくれる人、相手の一言、気づきによって、自分が楽になり、幸せになっていくのが、本質的な友であります。
それは、年齢が離れていようが、男女であろうが関係はありません。私たちはみな、会員として、友として、サンガの一員として、いま修行をさせて頂いているわけです。「こんなことが分かった」と教え合い、語り合うのが、友ということの大きな意味合いです。
開祖さまが亡くなられて、昨年で十年が経(た)ちました。開祖さまは亡くなられましたが、ご法はなくなっていない。一人ひとりのサンガ、友人、善き友の中に伝わっている。そういう心強い思いがいたしました。そこで、サンガにとって一番大事な、お互いに教え合い、気づき合うという意味合いを込め、また本当にお互いさま、真の友として、精進をさせて頂きたいという意味合いから、『善友』という書き初めをさせて頂きました。
本日は、善き友ということについて、お話を申し上げてまいりました。また、「ありがとう」とか「祈り」「願い」という言葉の語源をよく知って、それを本当の意味で使って、神仏に精進を誓い合うことが大事なことと思っております。
今年も皆さんと共に精進をさせて頂きたい。そのことを申し上げ、本日の話を終えたいと思います。(文責在編集部)
(2010.1.15記載)