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2010年09月23日 違いを認め合い、平和への道を共に WCRP40周年記念公開シンポ

WCRP(世界宗教者平和会議)40周年記念事業の一環として、同日本委員会主催の公開シンポジウム「日本の宗教とイスラームの対話」が9月23日、国立京都国際会館で行われました。昨年11月の「アフガニスタンの和解と平和に関する円卓会議」での提案を受け、9月20日から22日まで開かれた「イスラーム指導者会議」の成果を確認するものです。シンポジウムでの発題、パネルディスカッションなどを紹介します。

◆「日本の宗教とイスラームの対話」 パネルディスカッションから

平和の意味 深くかみしめ
眞田芳憲WCRP日本委平和研究所所長

ユネスコ憲章に「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」という言葉があります。平和のとりでを築くには、お互いを理解し合うことが必要です。イスラームとは何か、仏教や神道が願うものは何かを語り合い、真の平和実現に一歩でも近づけるよう、対話の機会を持たせて頂きます。

戸松義晴全日本仏教会事務総長

仏教では平和の教えを一番大事にしております。しかし残念ながら、国家に迎合し、また教団を守るために結果として戦争や暴力、また不正義や抑圧といった状況を肯定してきた歴史も存在します。
仏陀が最初に説かれた戒律は「殺生戒(せっしょうかい)」でした。争いの絶えない世の中で、憎しみに憎しみで応えてはならない、憎しみで応えれば憎しみがやむことはないと、あらゆる暴力を否定されました。仏教者として本当の平和の教えを理解し、過去の出来事を正確に見つめ、同じ過ちを繰り返さないことが重要です。

櫻井治男皇學館大学社会福祉学部教授

神道が説く「和」には二つの意味があります。「和魂(にぎみたま)」という言葉で表される「おだやか」という意味。もう一つは、「和む」「楽しむ」で、和むとは打ち解ける、対立が解消された状態を言います。これは神道では「祭り」の機会でもあります。
神道は、神社を通して地域コミュニティーのつながりを保とうと努めてきました。身近な生活で「お互いさま」「おかげさま」の心を伝え合い、「和」を重んじる信仰として、お互いがより良くあるための福祉社会の基盤形成に役割を果たしてきたといえます。

ムハンマド・フセイン・ムザッファーリ・イスラーム諸宗教間対話センター所長

宗教の使命は人類の幸せを求め、安定を保つことです。イスラームでは、幸せとは究極的には神への祈りであり、心の平穏です。そのためには社会が安寧でなくてはなりません。平和とは戦争がないことではなく、お互いに尊敬の念を持って協力することです。イスラームの神アッラーは、戦いを仕掛けた者にも正義と親切の心で接するように示されています。その正義と親切こそがムスリムとその他の関係との基盤なのです。

ディン・シャムスディーンACRP(アジア宗教者平和会議)実務議長

イスラームは歪曲(わいきょく)されたイメージを持たれています。過激な行動を取る人はムスリムの中でも少数派です。大多数は平和を愛する人たちです。真のムスリムは、他者を救う人のことであるとされています。
私はたまたまインドネシアでムスリムとして生まれました。これは神の意思によるものです。神は私たち人間に他の宗教、国の人たちと平和に共存できるか試されているのです。私たちは信条や国籍、人種が異なっても一緒に歩まねばなりません。宗教には多くの共通点があります。宗教者はそれを見いだす必要があるのです。
われわれの共通の敵は貧困や不公正、さまざまな暴力です。今こそ一体となり、敵と戦わなければなりません。これが、平和を意味するイスラームの言葉「サラーム」であり、「まほろば」の精神ではないでしょうか。

私利私欲に走ることなく

戸松

私ども宗教者は、教えを提示し、貧困や差別、抑圧を生み出さないような生き方をすべきです。また、教育に関しても、知識を詰め込むのではなく、温かい心をつくるような教育にするために関(かか)わるべきなのです。
仏教では、たとえどんな理由があったとしても暴力を否定しています。もし、自分の国が攻撃されそうになったら宗教者はどのように考え実践したらよいでしょうか。皆さんにも考えて頂きたいと思います。

ムザッファーリ

国連憲章51条に、国が侵略された場合、その国には自衛の権利があると記されています。ある国では自衛のための先制攻撃を実際に行っています。彼らはこの条文を自分たちの意図に沿って悪用しているのです。
戦争は宗教によって起きたという考えもありますが、正しくありません。人間の私利私欲、限りない欲望が暴力や戦争を生み出しているのです。宗教指導者は、そうした欲望を抑制し、正しい方向に導く必要があります。そうすれば、暴力や戦争は決して生まれないと信じています。

シャムスディーン

自衛行為に関して言うと、テロとイスラームは関係ありません。テロ行為は、イスラームの教義、原則に反しています。宗教者は、互いの共通点を見つけて橋を懸け、倫理観や道徳観を涵養(かんよう)しなければなりません。今、人類には責任感が欠如しています。われわれが直面する現実を見据え、協力することが宗教者の責任だと思います。

眞田

皆さまありがとうございました。一般的にはまだまだイスラームに対する先入観があり、真実に即して物事を見ていないのが実情です。今のお話にあったように、宗教者は、互いの違いにとらわれて共通点を見失ってはなりません。相違を認識しつつも、違いの中にある共通のものにどう橋を懸けるか。それが宗教者の大事な役割だと思います。

◆歓迎あいさつ(要旨)

自らを見つめる心こそ
浄土真宗本願寺派門主 大谷光真

日本は歴史的に見て、宗教にかかわる武力紛争が比較的少ない国と言えます。しかし、政治と宗教の間には困難な課題があり、過去、国の権力で宗教が弾圧されたことがあります。また、仏教の教えは平和的ですが、結果的に戦争に加担してしまったこともありました。あくまで暴力を用いないという強い意志が必要になりましょう。
先日、私が鑑賞した日本の伝統芸能の歌舞伎では、内乱のため、敵同士となった二人が仏教寺院の前で対決しようとするのですが、周囲の人々が無益な争いを思いとどまるよう諭すと、片方が出家を志し、争いが収まるという話でした。作者の思いを推し量ると、衝突を抑える場として宗教施設の寺院が設定され、対立者がお互いに自分の姿を見つめる場であったと思います。
2009年は、国連が定めた国際和解年でした。恨(うら)みや報復の感情をいかにして和らげるか──。そのために、宗教者が智慧(ちえ)をしぼる必要がありましょう。

◆開会あいさつ(要旨)

受容と理解が今後の鍵に
WCRP日本委理事長 庭野日鑛

イスラームの教えを信奉する人々は、世界に15億ともいわれておりますが、国際的にイスラームに対する理解は必ずしも十分とは申せません。
老子の言葉に、『知って知らずとするは上なり。知らずして知るとするは病(へい)なり』とあります。「知っていても、十分には知っていないと謙虚に考えることが大切である。知らないのに知っていると考えるのは大きな過ちである」という意味です。
イスラームに対しても、一面的な情報をもとに、あたかも大部分を理解したように受けとめてしまうことが少なくないと思われます。この言葉は、そうした安易な姿勢を戒めたものと申せましょう。
日本は、宗教から身近な食べ物に至るまで、優れた消化力・包容力で異なる文化を受け入れ、国民の間に根づかせてきました。しかし同時に、日本独自の文化も損なうことなく、大切にしてまいりました。こうした日本の特性を発揮し、イスラームの教えに対する理解を深めることが、今後の日本の文化をさらに豊かにすることにつながると確信するものであります。

◆発題(要旨)

「真に幸せな人」へ
前アズハル大学副学長 ムハンマド・アブドゥルファディール・アル・コースィー

「アッラーの御名におきまして、皆さま方に平安とアッラーの慈悲と恵みがございますように」
これはイスラームのあいさつで、人間同士の愛情と同時に、私たちはイスラームの神であるアッラーに見守られていること、そして、この世界は安寧と平静の世界であることを意味します。
預言者ムハンマドは、「あなた方は、全員、土からつくられている」と語り、人間は皆、きょうだいであり、互いの関係は愛に満ちていると説いています。
現代社会に生きる人々の多くが心の中の統一感を失い、互いに憎悪、敵対心を抱いているように感じます。平和や愛情は、破壊や破滅といったまったく別のものに変わりつつあるのではないでしょうか。名声や社会的地位などに執着し、一時的な喜びに支配され、真の幸せが見失われていると思うのです。
イスラームの教えでは、自分だけでなく、家族や隣人といった周囲の人々、さらに面識のない人の幸せをも願うことが肝要とされています。金銭や権力を手に入れることではなく、人に思いを寄せるという善行こそが神につながり、天国へと導くものです。その善を感得した人こそ、イスラームが教える「真に幸せな人」なのです。

(2010.10.22記載)