年頭に当たり、庭野日鑛会長から指導を受け、会員それぞれが一年の誓願を新たにする「御親教」式典が1月7日、大聖堂で行われ会員約3400人が参集しました。式典では、奉献の儀、庭野光祥次代会長導師による読経供養と続き、渡邊恭位理事長が年頭あいさつ。2011年が庭野会長の法燈継承から20年目に当たることに触れ、会員一人ひとりが庭野会長の指導をしっかりと受けとめ、本仏釈尊の願い、庭野日敬開祖の願いを自らの願いとする大切さを述べました。会員代表2人が決意の言葉を発表。庭野会長が『合掌』『法燈』の二幅の書き初めを披露し、「御親教」を行いました。なお、式典の模様は全国の教会に衛星中継され、大聖堂前では参拝者に七草粥(ななくさがゆ)が振る舞われました。
◆庭野会長御親教(要旨)
自己を築く「コツ」は、実行すること
皆さま、明けましておめでとうございます。
今年の書き初めですが、『法燈』は、法を灯火(ともしび)とするということを意味しています。今年は、法燈継承から20年目ですから、その法燈に結びつけてみてもいいわけです。また仏教は、2500年という長きにわたり、仏さまの教え、法を灯火としています。『法燈』という言葉を通して、今年も皆さまと共に修行をさせて頂きたい、そんな気持ちで書き初めを致しました。
仏道を歩むということについて、開祖さまは、人格を完成させる、向上させることが目的だと教えてくださっています。私たちは、いまお互いに、人格を高め、築く道を歩ませて頂いております。
私たちが自己を築いていく上では、「道具」とか「コツ」というものがあるとも学びました。
「道具」とは、一般的に読書などが大事とされています。さらに私たちは毎日、読経させて頂いています。それが、いわば読書にあたるとも言えます。また「コツ」とは、結局、実行することです。読経や読書をするだけでなく、それを実行する。この二つがピタリと合ってこそ、人格を向上することができるのです。
論語に「性相近(せいあいちか)きなり、習(なら)ひ相遠(あいとお)きなり」という言葉があります。「人の生まれつきは大体同じようなものであるが、習慣によって大きく隔たるものだ」という意味合いです。日ごろの生活の中で、どんな習慣を身につけていくかによって、人の一生は大きな隔たりが出てくるとも言えます。ですから、読経や読書をしっかりとさせて頂き、そこから得たことを常に繰り返し実行していくことが、私たちの具体的な修行であろうと思います。
皆さまもよくご存知のことですが、お釈迦さまは死の床にあった時、嘆き、悲しむ弟子に向かい「なぜ泣くのか」と叱(しか)り、「私の死を悲しむということは、私の肉体の存在に寄りかかっているということだ。それではいけない。私の教えや真理を、闇を歩く時の明かりとして用いなさい。真理を支えとして生きていきなさい」と言われたということです。お釈迦さまの肉体は、2500年も前になくなっていますが、その法は厳然として生きていますから、いまもお釈迦さまは、生きておられると言うこともできます。その教えを、いま私たちは頂いて、人生を歩ませて頂いているのです。
不平不満の心から 喜び、さらに感謝へ
お釈迦さまは、私たちに、大事な言葉をいろいろと残してくださっています。その一つに「色即是空(しきそくぜくう)」があります。「色は即(すなわ)ち是(こ)れ空(くう)なり」ということですが、たった四文字の中に、人格向上のために、とても大切なことが教えられています。
例えば、コップに水が半分入っているとします。一つ目は、「半分しかない」という見方です。これでは、不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句などを言ったことになるでしょう。二つ目は、「半分も残っていてうれしい。楽しい。幸せだ」という見方。同じ現象も、喜びになっていくということです。そして三つ目は、「何者かが半分残してくださっていて、ありがとう」という見方をし、感謝で受けとめることです。
客観的な目で見れば、コップに水が半分入っている、150cc入るコップに75ccの水が入っている、ただそういうことです。そのように客観的にとらえることが、「色即是空」の「空」に当たります。それに対して「色」という言葉が出てきますが、これは私たちの思い、意味づけが、それに当たります。現象に文句を言ったり、うれしく感じたり、感謝したりという、それぞれの人の色づけが「色」であると言うことができます。
コップに水が「半分しかない」と見る人は、コップの水に限らず、あらゆることに不平不満を言いがちだそうです。不平不満を言って、楽しい人はいません。やはり心が苦しいものです。ですから、「半分もあってうれしい」という見方に少しでも近づけていく。さらに、それを超え、感謝の心で「有り難い」と受け取っていくことで、私たちは心を豊かにさせて頂くことができるのです。
仏道は"一生もの" 世代超え子孫にも
さて、日本人は、昔からいろいろな芸事などを、「道(どう)」の域まで高めていく名人であると言われます。お花の生け方は華道になり、お茶の入れ方は茶道になりました。剣術や柔術は、剣道、柔道というように、やはり「道」と呼んでいます。単なる技術や方法の域、段階にとどまらず、それをベースにして、生き方、生きざまにまで高め、日ごろの実践の中に活かしていくのが「道」という考え方です。
この「道」は、どれもが奥の深いものです。5年、10年どころではなく、50年、60年と、その道を歩んでいる人が大勢います。私は、10年間ほど剣道をしたことがありますが、剣道でも、どんなに歳(とし)をとろうとも、稽古(けいこ)をして、道を究めている人がおられます。
お釈迦さまは、お亡くなりになるときに、「すべての物事は過ぎ去りゆく。自分自身を頼りとし、怠ることなく、修行を続けなさい。安らかに生きるために」とおっしゃったと伝えられています。「仏道」は、いくら年月を重ねても、これで完成したと言うことはできません。人生には、いろいろな問題が起こってきます。私たちの学び、修行、歩みは、何年間続けたから、それで終わりということでなく、本当に一生ものです。さらに、私たち一人ひとりが幸せになったならば、それを子供、孫、周囲の人たちにお伝えをしていく。そうしたことが、ずっと人類の中で行われてきて、釈尊滅後2500年を経ても法燈が受け継がれ、その法を灯火として生きている人が大勢いるのです。
私たちも立正佼成会の会員として、開祖さま、脇祖さまから法華経の教えを伝えて頂きました。その仏道の歩みは一生ものであり、さらに世代を超えて、子供にも孫にも法の灯火を伝えていくことが、本当の意味で人類の幸せにつながるのです。一人ひとりが、常に法の灯火をともし、それを人さまにもお伝えしていく。このことが、仏さまが真に願われたことであり、人を幸せにし、ひいては世界を平和に導くもとになることを、今日は確認させて頂いた次第です。
これからますます寒い時期がやってまいります。その寒さも、自分の体を鍛えてもらえるのだと肯定的に見ていく。寒いからこそ、暖かさが有り難く感じられるのだと感謝の気持ちで受け取る。見方を変えていくと、明るく、楽しく、感謝の気持ちで人生を過ごすことができます。そのような精進を、今年も共々にさせて頂きたいと思います。
(文責在編集部)
(2011.1.14記載)