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2010年11月19日 【ルポ】一食支援先の韓国・慶州ナザレ園

立正佼成会一食(いちじき)平和基金運営委員会の事務局スタッフが10月31日から11月2日まで、韓国東南部に位置する慶州市を訪れ、同基金が支援する日系婦人保護施設「慶州ナザレ園」を視察しました。同園の歩みとともに、現在の取り組みや入園者の暮らしを紹介し、支援状況をリポートします。

渦巻く反日感情 救い助けた金氏


入園者たちは3人1部屋で生活する。1日3回の礼拝と食事以外、それぞれに自由な時間を過ごす

韓国東南部に位置する古都・慶州。王朝・新羅の都として栄え、当時からの寺院や石仏群が今も残る。
観光客で賑(にぎ)わう市の中心部を抜けて田園風景が広がる国道を車で走っていくと、日本語で書かれた案内板が目に入った。「慶州ナザレ園」。本会一食平和基金が支援する社会福祉法人ナザレ園の日系婦人保護施設だ。第二次世界大戦中に韓国人男性と結婚し、渡韓後に厳しい生活を強いられてきた日本人女性たちが暮らしている。
日韓両国の間には今、芸能、スポーツ、文化の交流など、かつてないほどの友好が築かれている。しかし、歴史的には良好な関係の時期ばかりではない。20世紀に入った直後から日本は軍事的な力を背景に朝鮮半島に進出し、1910年に韓国を併合。植民地支配は45年の日本の敗戦まで続いた。その時代に韓国人男性と結婚していた日本人女性の多くは、韓国が独立を取り戻した後、夫と子供のいる同国に残る道を選んだが、女性たちに対する社会の眼は厳しかった。
「言葉や習慣の違いだけでなく、当時の韓国には強い反日感情が渦巻いていました。そんな異国で、日本人女性たちは地域社会からの排斥に耐えて、孤独に生きてきたのです」。同園の宋美虎(ソンミホ)園長は、当時の状況をそう話す。
72年10月、高齢化する日本人女性を保護し、国籍や身元引受人の有無を調査して帰国に向けた援助を進めようと、同園は設立された。創設者は、社会福祉法人ナザレ園の理事長を務めた故・金龍成(キムヨンスン)氏。同国の社会福祉事業の第一人者であり、敬虔(けいけん)なクリスチャンだった。抗日運動家だった父親が日本の官憲によって拷問の末、殺されるという悲惨な体験を持ちながら、それでも、「自分の隣人を自分自身のように愛せよ」という聖書の教えに従い、私財を投じて日本人女性に手を差し伸べ続けた人だ。
同園には、これまで200人以上が身を寄せ、そのうち147人が日本に永住帰国した。一食平和基金は87年から支援をスタート。翌年には支援によって施設が改築され、以後、園の運営に充てられている。

入園による援助と在宅への支援活動


22年前に一食の支援で改築された施設。現在、26人が入園し、6人のスタッフが介護にあたっている

現在、園には73歳から96歳までの26人が生活する。入園者の国籍は「日本」「韓国」「無国籍」の三つに分かれ、以前は「二重国籍」の人もいた。
C・Yさん(84)=福岡県出身=は、日本国籍を持つ一人。看護師として勤めていた病院で夫と知り合い、終戦を迎えた年の11月に渡韓した。農業で生計を立てていたが、7年前に夫が亡くなり、一人娘の住む同国西南部の木浦(モツポ)市に移住。同市は国内でもとりわけ収入の低い地域だ。「娘の家も貧しく、本当なら私も一緒に働かなければならないのに、体を壊して入院してしまった」という。退院後も自力で立てないほど衰弱し、4年前に入園。「ここに来る前は36キロしかなかった体重が48キロまで増えた。皆さんによくしてもらって、ナザレ園に来て本当によかった」と喜びを見せた。
部屋を訪れると、日本の来訪者からもらったという折り紙の人形や日本の歌が書かれた色紙などがベッドサイドにきれいに飾られていた。日本への帰国の思いを尋ねると、それまでの笑顔がすっと消え、「韓国は第二の故郷だから、こっちの方がいいです」と言ったきり、うつむいてしまった。

同園の外で暮らしている日本人女性で、同国の日本領事館が把握する数は現在180人。ただし、日本人であることを隠して生活してきた女性も少なくないという。昨年入園したK・Tさん(87)=北海道出身=は、目が見えなくなり、本人が園に直接助けを求め、初めてその存在が分かった。身寄りもなく、無国籍で病院にも行けない状態だった。
また、入園による援助に加え、生活困窮者の中から47世帯を選定して、毎月、援助金を送金する在宅支援活動を実施。その一部に同基金からの支援が充てられている。

昨年から在宅支援を受けているM・Dさん(87)=鹿児島県出身=宅を訪問した。40年前に夫を亡くし、その後、2人の息子も失った。現在は同国東南部の金泉(キムチヨン)市で独り暮らし。平屋建ての家は老朽化し、壁やふすまの至るところにすき間ができていた。
「真冬になると石油ストーブを使っても寒くて眠れない」と話す。高齢で働けなくなり、生活は厳しく、隣近所の手伝いをして果物を分けてもらうほか、庭の畑で細々と野菜を育て、辛うじて生計を立てているという。「このまま一人なら薬を飲んで死んだほうがいい」と訴えるM・Dさんに、宋園長は「もう少し頑張って」と励ましの言葉をかけ続けた。


独り暮らしのM・Dさん宅を訪問する宋園長。同園では、生活に困窮する女性たちの在宅支援を行っている

両国の間で交差する複雑な心境


友人とかるた取りに興じるT・Yさん(中央)。皆、ナザレ園に入ると忘れていた日本の歌や遊びを思い出すという

終戦から65年、現在、園の内外で暮らす日本人女性の平均年齢は87歳になった。ほとんどの人が永住帰国を断念している。T・Yさん(92)=山口県出身=は「父母の国を忘れることはない」と前置きして、複雑な心境を吐露してくれた。「私たちは戦争の時代に生まれ、戦争の中で家族を守り、生き抜いてきた。その歩みを見つめ続けてくれたのは、他でもない韓国の人々。祖国は遠いものになりました」。
2000年、日本を望む海辺の高台に納骨堂が建立された。同園で最期を迎えた60人以上の遺骨が眠る。その石碑には、日本語で「韓国の土になります。けれども魂は日本に帰ります」と刻まれている。
宋園長は言う。「おばあさんたちはこれまで、韓国を植民地とした歴史の過ちを背負い、罪人のような生活をしてきました。苦労した皆さんに安らかな余生を送ってもらうとともに、日韓友好の懸け橋になる役目がナザレ園にはあると思います。立正佼成会の皆さんが食事を抜き、支援を続けてくださるおかげで、おばあさんたちは平和な暮らしを取り戻すことができました。国や宗教を超えて奉仕される、そのお心に感謝します」。
今回の視察訪問中、昼食のため食堂に集合していた入園者の女性たちが日本からの訪問を喜び、唱歌『故郷』を歌ってくれた。その明るく、やさしい表情に、同園は日本人女性たちにとって唯一の安息の場所であると感じた。そして、彼女たちの人生に敬意を払い、同園の存在を忘れないことこそ、今を生きる私たちの役目だと心に刻んだ。

◆メモ 日韓の歴史

1910年、「韓国併合」により「大韓帝国」が消滅すると、日本は韓国の地名を「朝鮮」に戻し、「皇民(皇国臣民)化」政策を行った。日本語の使用や日本名への改名などが強要され、「内鮮一体」という国策に沿って日本人との「内鮮結婚」が奨励された。45年、日本の敗戦と同時に、「朝鮮」は「大韓民国」と「朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)」として独立。戦前戦中に結婚し、韓国に住んでいた日本人女性は帰国をあきらめた。また、日本で結婚した女性は夫について海を渡った。36年間もの支配から解放された韓国の反日感情は強く、日本語の禁止や差別など厳しい生活が待っていた。50年には「朝鮮動乱」が勃発(ぼっぱつ)。韓国と北朝鮮が国土の主権をめぐり激しい内戦を繰り広げ、中国と米国を巻き込んで国際戦争に拡大した。その後、65年の「日韓条約」締結により国交が回復。在韓日本人の帰国援助事業が進められた。1万人以上が帰国したが、国籍などの法的面で帰国の機会を失った人々が約2000人もいた。

(2010.11.19記載)