多くのものを奪い、人々の心に深い悲しみや苦しみを残した東日本大震災。サンガとの再会が、前へ進む勇気を奮い立たせる(14日、名取市内の小学校体育館で)
「東日本大震災」の被災地の情報収集にあたるとともに、被災者への援助やニーズを把握するために派遣された第1次援助隊に、『佼成新聞』の記者が同行しました。『佼成新聞』3月20日付の取材記事から、現地の状況をお伝えします。
仙台教会では、震災の翌日から会員が炊き出しを実施。地域住民らに温かい食事を提供した
3月11日午後2時46分ごろ、東北地方を中心とした東日本を大きな地震が襲った。マグニチュードは9・0。日本では地震の観測を開始した明治以降最大の規模だった。
翌日午前には教団本部で第1次援助隊が編成され、午後、仙台に向けて出発。時を追うごとに判明していく被害の深刻さに、心が引き締まっていった。
交通規制のため、本部から新潟県まで迂回(うかい)し、東進するルートを採った。崩壊したブロック塀、崩れ落ちた瓦屋根、筍(たけのこ)のように地表から隆起したマンホール。そんな光景が、福島県あたりから目立つようになっていた。
本部を出発して30時間、13日午後9時に仙台教会に到着した。法座席には約40人が避難していた。津波で自宅を失った人、余震による家屋の倒壊から逃れている人、その表情は一様に不安げだった。
地震発生直後から市内は停電し、ほぼすべての携帯電話が不通となり、会員の安否確認は困難を極めた。そんな状況下でも、サンガの無事を祈り、会員宅や避難所を地道に訪れている人たちがいた。
地震発生から4日目、安否確認に向かう支部長に同行させてもらった。太平洋沿岸部の被害の大きい地域に向かう途中、支部長がポツリともらした。「大丈夫そうね」。その意味を尋ねると、一軒の家屋を指差し、自宅だと答えた。車は止まることなく、避難所や会員宅に向かった。
後で知ったことだが、支部長は地震発生後、家族と連絡を取っただけで一度も顔を見ず、自宅にも帰っていなかった。行方の分からない会員を心配し、教会に泊まり込み、安否の確認に奔走していたのだ。自らも被災者の身でありながら、常に人さまの身を思いやる心の深さに、掌(てのひら)を合わせていた。
仙台から南に下り岩沼市に入ると、一見、道路の左右には田畑が広がり、のどかな風景に思える。しかし、よく見ると、背丈の低い木や草が、規則正しく一方に向かってなぎ倒されているのがよく分かる。海岸から5キロ以上離れたこの地域にも津波が到達し、巨木や家畜が流されてきたという。
岩沼市民会館では、浸水により家具や畳が流され、避難生活を送る組長に会った。食糧や毛布など救援物資のニーズについて尋ねると、どんな物も、とにかく被災者が平等に分け合えるように、個人的に自分だけ何かがほしいということはない、という願いだけを口にした。
道場に戻ると、青年部員を中心に炊き出しが行われていた。玄関で来道者を案内する主任は、地震発生の3日前に結婚式を挙げたばかり。「夫婦水入らずの新婚もいいけれど、夫と一緒に人さまに尽くせる新婚も素敵(すてき)ですよね」と笑顔で周囲を癒やす。小学生の子供と一緒に道場を訪れた30代の女性は、「食べ盛りの子供を持つ親として、皆さんの善意には感謝の思いしかありません」と話した。道場のそばに住むネパール人の留学生たちは、異国での被災に不安も大きかったようだ。「私たちにも笑顔で接し、温かく迎え入れてくれた」と涙ぐんでいた。
私が触れたのは、まだ、被災地の被害状況の一端であり、避難生活や被災者の心情の、ほんの入り口でしかない。被害の程度に差はあっても、みんなが被災者だった。その中で教えて頂いた、人の心、祈りや願いの“力”というものを一つの依りどころとして、これから私自身のお役に臨ませて頂こうと心に誓った。
自ら被災の中に身を置く会員たちが、サンガの安否確認に歩いている(14日、名取市内の中学校で)
(2011.03.18記載)
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