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2003年04月25日 「『有事関連3法案』に対する意見書」を小泉首相に提出

本会は4月25日、山野井克典理事長名による「『有事関連3法案』に対する意見書」を小泉純一郎首相にあてて提出しました。同日、山野井理事長、松原通雄外務部長が東京・千代田区の首相官邸を訪れ、福田康夫内閣官房長官に意見書を手渡しました。

意見書は、「有事関連3法案」が今国会で可決されようとしている現状を踏まえ、法案の問題点を指摘し、本会の見解、仏教から見た平和国家としてのあり方を提示したものです。法案が成立すれば、武力による安全保障が優先される一方で、国民の基本的人権が制限され、国際的な共生の道をも閉ざしかねないことから、政府には十二分な検討を行うよう要望しています。
有事関連3法案は、2002年4月に閣議決定され、第154国会に提出されました。その後、継続審議となっていましたが、政府与党は現在開かれている第156国会での可決に意欲を見せています。
本会では同法案が第154国会に提出された直後から、外務部や中央学術研究所など関連部門を中心に検討を開始しました。。
今回、小泉首相に提出した意見書では、宗教も政治も、その最大目標が生命の尊厳、人権、平和であることを確認した上で、同法案が、それらの目標にかなったものであるかとの疑問を提示。法整備によって、武力による安全保障が優先される一方で、国民の動員を容易にし、「信教の自由」「良心の自由」など基本的人権が制限される危険があると懸念を表明しています。また、戦後、日本が平和主義国家として築いてきた国際的信用を失いかねない点も憂慮しています。
さらに、仏教的観点から、いのちを奪う行為として、戦争を一貫して否定。暴力に暴力で対抗することは一見、現実的な対応に見えるものの、結局は新たな暴力、永遠に続く暴力の連鎖を生み出すことになるため、今こそ、宗教的な智慧、それに基づく慈悲の対応が不可欠だと訴えています。こうした点を踏まえ、政府与党に対して、大局的な視点に立ち十二分な検討と良識ある対応を行うよう要望しています。
25日、首相官邸・官房長官室で行われた会見では、山野井理事長が福田官房長官に意見書を手渡し、趣旨を説明。慎重な論議が進められると共に、世界情勢の安定のために一層の外交努力が行われるよう要請しました。福田官房長官はこれに対して、「法案は他国からの攻撃に対応するためのものであり、危機に際してのルールづくり」と応えました。

意見書全文

「有事関連3法案」に対する意見書

政府は、第154国会において、「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保」をはかることを目的として、武力攻撃事態法案、自衛隊法改正案及び安全保障会議設置法改正案の3案からなる、いわゆる有事関連3法案を提出され、今156国会でも、再び論議が展開されようとしています。

言うまでもなく、宗教にとっても、政治にとっても、生命の尊厳と人権、そして平和はその最大目標であります。しかし、政府が提案された有事関連法案は、果たして、生命の尊厳を尊重し、人権を擁護し、平和を確立するための道を指し示すものでありましょうか。私たちは、これらの法案について大きな疑念と不安、そして危惧の念を禁じ得ないのであります。

ここに、私たちは、国会での慎重なる、かつ十二分な審議と政府の良識ある対応を切に願い、意見を申し述べたいと思います。

これらの法案は、武力攻撃事態に対処する法整備を目的とするものとされています。しかし、具体的には、「武力攻撃事態」および「武力攻撃予測事態」に際して、国民に協力義務を課した上で、武力による国家の安全保障を行おうとするものです。そして、この武力攻撃事態の認定は、専ら政府が行い、国会の関与は事後的なものに過ぎないとされております。なぜ今日、このように広い範囲の武力攻撃事態を想定し、武力による国家安全保障への国民協力を義務づける法律を定めなければならないのでしょうか。

本会の庭野日敬開祖は、かつてその著書『平和への道』の中で、冷戦さなかの国際情勢においてすら「『有事』といった事態が起こらぬように、宗教を通じて平和の雰囲気を醸成していく努力」の大切さを述べました。そして、1978年、第1回国連軍縮特別総会において、世界の政治指導者に対し「危険をおかしてまで武装するよりも、むしろ平和のために危険をおかすべきである」と訴え、国内外の多くの人々から共感を得ました。私たちは、今こそ、こうした考え方を実践すべきであると考えます。武力による国家安全保障を第一義とし、特定の国家との外交関係のみを前提とするような法制度の導入は、決して平和への道とは相容れないものであるからです。

戦争が「普通の外交手段」であった時代がありました。しかし今日、この考え方は否定されております。戦争がその本質において善ではあり得ないことは、歴史の示すところであり、国連憲章もこの考え方に立っております。また、日本国憲法の解釈については多くの見解があるにしても、政府が戦争や武力を外交手段として用いること、そして国民にこれに対する協力を命じることを禁止しているということは、疑いのないところです。

日本では、先の大戦において、専ら武力によってその国土を防衛しようとして、多くの尊い生命が犠牲となりました。この点から見て、「万が一への備え」という考え方は、一見現実的であり、あたりまえのように思われますが、決して「現実的」ではありません。むしろ政策の柔軟性を失わせ、近隣諸国の不信を招くものであると考えます。

だからこそ、第二次世界大戦後の日本は、平和主義を掲げ、外交や国際交流に力をつくし、決して国外で武力を行使しないことにより、国際的に誇るべき独自の地位を占めてきました。私たちも、アジアやアフリカなどの開発途上国の人々や、内戦・紛争・災害などで難民生活を余儀なくされた人々の救援活動を続けてまいりました。さらにまた、非武装・開発・人権・環境などの問題を解決するために、世界宗教者平和会議(WorldConferenceonReligionandPeace)やアジア宗教者平和会議(AsianConferenceonReligionandPeace)などの場で宗教対話を重ね、相互の理解と信頼を醸成し、世界の平和の実現に挺身してまいりました。

そうした努力にもかかわらず、残念ながら、世界の平和はいまだ達成されず、紛争やテロが続発している現実があります。とりわけ、一昨年9月11日にアメリカ合衆国で発生した同時多発テロは、私たちに多くの教訓を与えてくれました。こうしたテロは決して許される行為ではありません。私たちは、テロの犠牲となった方々に心から追悼の念を捧げるものであります。また、今般のイラク戦争では、国内外で多くの人々が平和的な解決への祈りを捧げる中で、実際に武力が行使されたことは、痛恨の念を禁じ得ません。

言うまでもなく、テロを根絶することは、平和のために絶対に必要なことです。しかしながら、「テロに対しても武力による国家安全保障システムは有効に機能する」という考え方は、専門家を含め、各層から強く批判されています。政治的にどのような理由があるにせよ、戦争は根本的に、人を傷つけ、いのちさえも奪う行為です。暴力に暴力で対抗することは、新たな暴力、永遠に続く暴力の連鎖を生み出すものであり、それは過去の歴史の示すところです。「まことに、怨みは怨みによっては消ゆることなし。怨みは怨みなきによってのみ消ゆるものなり」(法句経)であります。

もちろん、「国際政治の現実は、宗教が教えるようにはいかない」という声もしばしば聞かれます。しかし、宗教的な智慧、それに基づく慈悲を忘れ、相対的、対立的なみかたに終始する限り、人類は、永遠に分裂と争いの歴史を繰り返すでありましょう。

私たちは、今般の法案が「有事」を前提とし、そこに専ら武力に頼り、国を守るという古い形の安全保障を復活させ、国民をこれに動員することを企図するものであると考えます。さらに、信教の自由・良心の自由を含む人権を制限し、日本を含む世界各国に生きる人々の共生によってのみ歩むことができる「平和への道」を閉ざすものであると考えます。それゆえに、私たちは、宗教者、そしてまた国民の一人として、むしろ日本こそがこうした法制度をもたないことによって、広く国内外に平和への道を示すべきであると考えるのであります。

政府におかれましては、大局的な視点に立ち、国民に平和のうちに生存する道を示し、国際社会において信頼される地位を確立されるよう、十二分な検討を強く要望するものであります。

平成15年4月25日

立正佼成会
理事長  山野井克典

(2003.05.09記載)